●何も出来なかった。

「直美、そっちは大丈夫?!」
まさかと思うような朝はやく、電話の向こうからただならぬ雰囲気を漂わせている母の声。ああ、そういえば今大きく揺れたなぁ、地震のことかしら。
母の心配性はいつものことで、少しばかりうっとうしくかんじながらも、今日は会社で会議だから資料をまだ作っていたの、大丈夫よとだけ伝え電話を切り、また、ちょっと朦朧としながら気の乗らない仕事に向かいだす。
私にとっては日常的な一日が始まる。
厳しい寒さのせいで、車のフロントガラスは白く凍り遅刻しそうな私は少しいらいらする。
親元から離れてほぼ1年。
まだまだ新米と呼ばれ「おまえ、なんか言えよー」などと先輩からつつかれながら会議はいつものように進んでいく。
休憩時間に入りいつも優しく接してくれる、受付のオネーサンがなにやら心配げに私を見つめ「うえにしさん、確か実家って兵庫県だったよね?」と。
同じく休憩時間に朝刊紙の号外をを読んでいた先輩たちもやおら私の周囲に集まってきた。
なんのことだか、さっぱりわからずに呆けていると「神戸で地震があったらしい」と。
やっとそこで合点がいき、朝の母からの電話の意味を理解した。
はっとした私は
どういうことですか?
大きい地震なのですか?と先輩の見ている新聞をのぞきこむ。
その時点ではまだ、死者十数名の模様だ・・・と。
心配する先輩たちに、明け方母とは話をしましたから、と会議へ戻る。
本社と工場や流通機能を神戸にもっているためそこら中に電話をかけだす営業所のスタッフたち。
つながらない・・・。
関西方面への電話がほぼ不通となっている事態にやっとのことで事の重大さを感じだし緊張感が走り出す。
工場にダメージが出れば、薬剤が流通に乗らなくなる。
既に震災が起きてからこの時点で数時間が経過していた。
昼間での会議から開放され、やっとTVのニュースを見れる環境へ。
「火の手があがっているもよう、死者は100名を越すのではないか・・・」
同じようなヘリコプターからの遠景の映像と、いわゆる突然に引っ張り出されたであろうコメンテーターのかたの解説ばかり。
神戸近郊の出身者たちの家族の安否をまず確認するように伝える所長。
家に帰るか、と聞く上司に「今帰っても・・・」と通常通り得意先へとむかう。
ほぼ毎日得意先でばか話をしてもりあがる同郷の同業者は真っ青な顔をしていた。
私は、事態が飲み込めてないのではないかと思われるくらいにはしゃいでいておかしかったと、後から聞かされた。
陽が落ちてからやっとアパートへ戻りTVをつける。
既に亡くなられたからの名簿がずっとテロップで流れていた。
芦屋の友人、長田の同級生、実家近くのともだち、大学の恩師。
誰とも連絡がつかぬまま、ただ夜が過ぎていく。
TVからは、よく訓練されたアナウンサーの、亡くなられたであろう方の名前を読み上げる声だけが異様に耳につき、青い画面が脳裏刻まれていく。
なにもできない。
見慣れた風景が壊れているのを見る。
なにをすればいい?
なにをすればいい?
なにもできなかった。
たった300キロ程度しか離れていないのに土地私からは郵便局でせめて救援物資を送れるようになるまで数週間。
学生時代のクラスメートの全員の安否を取りまとめ、担任へ知らせるまでに1ヶ月以上を要した。
長田に住まう友人の安否がわからぬと電話の向こうですすり泣く友人に
「もうじききっと私たちが役に立つ時も来るよ、それまで元気でいようね」
と伝える。
あの言葉は他の誰でもなく自分自身に言っていたと気がついたのはもう少し後のことだった。
幸いにして親しい方に不幸はなく半年後、仕事上の転勤で神戸近郊へ戻る。
大阪と神戸の間にある西宮の海寄りの道は、まだ舗装されておらず 途中割れ目ともいえるような盛り上がりで車両が揺れる。
以前であれば高速道路を使わずとも1時間もあれば到着する大阪−神戸間。
車の移動で2、3時間はかかる状態がそれから半年以上も続いた。
芦屋に住む友人が「怖かった・・・」と涙を流すことが出来たのは震災から1年以上が経過した彼女の結婚式まちかの暖かい日だった。
今、神戸の中心である三宮駅前にはガラス張りのきらきらひかる美しいビルが、また 建設されているようだ。
そして10年以上が経過した昨年、道すがらであったおばあさん。どうやら、私を誰かと間違っているらしく一方的に話を続けられている。
「震災で鼻頭を砕き、それ以来どの病院へ行っても鼻の状態がおかしくなるばかりで・・・」確かに鼻から頬へかけて何度も処置したのであろう、傷跡が見られる。
ひたすらに話し掛けられるその様子は少しばかり目が宙を仰いでいて、身の上話からいかに震災の後彼女のこころにもおおきな傷が残っているのかが私にも伺えた。
ああ 終わってない・・・。
あのとき何も出来なかった。
今もただ、話を聞くことしか出来ないけれど・・・。
忘れ去られていると感じているのであれば、覚えているとしか伝えられないけれど・・・。
あれから10年以上が経ち、歴史に残ると言われる大きな天災・人災のニュースも世界から日本から何度も飛び込んでくる。
その度に、底に関わる人たちのさらに周囲にその人たちを愛している人たちがいる事を想う。
もしかすると、多くの物事が対岸の火事ではないのかもしれない。
私が震災から学べたのはたったそういう感じ方をするようになったくらいかもしれない。
なにもできない
なにもできない
いろんな場面で、誰もが感じる無力感。
それでも前にむかう人たちが居たからこそ、何も出来ないと感じても歩みをとめない人たちが居たからこそ、教訓や学びがそこかしこで形になるのかもしれないなと思う。
そう思うとき、今のひとりだけの能力や力よりも人の心の強さや偉大さを思う。
そして、、、。
誰の心の中にも、そんな偉大さや強さがあることを信じたいと思う。
2006年1月16日
阪神大震災に寄せて

この記事を書いたカウンセラー

About Author

退会しました。