●情緒

まだ薄暗く、夜が明けきらない午前5時前。
「本当に、今日は晴れるの?」というぐらい雲のぶ厚い、霧の濃い、奈良の山奥。
蜩の声で目覚めて、そこが、あまり面識もないのに一晩泊めてくれた、先輩の”お隣さん”宅なのに、不思議な居心地の良さを感じながら、身支度を整えていました。
お盆休みに、先輩宅経由で大台ケ原にキャンプに行ってきたんです。
よく、日常生活を離れて旅行なんかに行くと、いつもは悪い目覚めも、なぜかスッキリしていたりしますよね。
朝は、めっためたに弱い私ですが、そんないい目覚めを経験して、ふと「おかしなもんだなぁ」と感心していました。
ほとんど乗り物酔いなどしない人間でも吐きそうになるくらい、悪い道。
人気のない山奥に入り込んでも、同じ感覚を味わいました。
どこからともなく目覚めがやってくる。
私は子供の頃、とても身体が弱かったために、海と山に挟まれたとてもいい環境に移り住んでそこで育ったのに、自ら進んで外で遊びたいとは思わない子でした。
とはいえ、都会に育った子に比べれば、夏は山に川に海に友達と出かけてはいたんですけどね。
どうしても、知る限りのまわりの人たちと自分とを比べるのが私たちですから、自分のいる世界の中では”ひ弱”だと思い込んでいました。
でも、大阪に帰ってくると、なぜかそんな田舎が恋しくて、遠ざかって初めて良さを知るのか、せっせと夏が来てはわざわざ遊びに行ったものです。
”す潜り”が出来るようになったのも、大人になってからでした。
それからは、なぜかまわりの人たちに比べて自分がワイルドになったような気がしました。
そして、それから出会った人たちには、私は、たくましく映るようです。
主人も、そんな風に私を見たひとりでした。
でも、”思い込み”というのは恐いもので、「そんなことないのに・・・私、ひ弱なのに・・・」と、
『わかってもらえない』という気持ちに付きまとわれたものです。
そこから、自分がどんなに弱い人間なのかの証明が始まりました。
思い返しても、おぞましい(笑)”私、ダメダメ人間なんです攻撃”ですね。
”攻撃”というのには、訳があります。
私たちが、自分が何者なのか?を、その思い込みから証明しようとするとき、必ずそこには、なにかしらの感情を抑圧している『怒り』があります。
心理学講座でもご紹介しているように、引きこもりは一種の『怒り』の表現なんですね。
「私がこんなに暗いのは、しんどいのは、アンタたちが、わかってくれないからよ!」と、怒っているわけです。
その気持ちを素直に表現するのではなく、「もう、ダメ・・・」「もう無理・・・」と訴える事で、いかに自分の思い込みが、正しいのか?を思い知らせるための、いわば”戦い”です。
でも、この”戦い”は、実は最初から”負け戦”。
だって、自分が自分のことをどんな風に思い込もうと、それはあくまで『思い込み』だからです。
それでも、悪あがきをして、なんとか「わかってもらおう」とすると、後に残る手段は、さらに『怒り』を心の奥底に押し込めて、”なにもできない、やる気がしない、非人間”になるしかありません。
どうしてかというと、うっかり『怒り』をあらわにしてしまったら、元気なのがバレてしまうからです。
それでは、みもふたもありません。”戦い”に負けてしまいます。
ここ最近、溜めに溜め込んだ仕事を目の前にして、にっちもさっちもいかなくなっている自分に気付きました。
そして、無意識的にこの”戦い”をこっそりとしていたようです。
表面的には、普通にしているんですが、一向にやる気が出ない、「どないせーっちゅーねんっ」状態だったんですね。
そんな私に、いとも簡単に、早起き、いい目覚めをさせてくれる自然に、感服せずにはいられませんでした。
先輩宅を経由したのは、その村で行われる花火大会があったからです。
素朴で、でも山奥の、頭の真上に打ち上げられる花火に感動して、霧の立ち込めるお外でご飯を食べる。
たいして寝てもないのに、蜩の声で目が覚める。
整備された場所ではなく、人のあまり踏み入らない山奥で、ただただお日様のサイクルで寝起きをし、ご飯を食べる。
そんな昔の人たちは皆やっていたようなシンプルな生活をすることは、とても情緒のあるものでした。
よく、カウンセリングなどで、心の中を見つめ感情を解放していくと「雰囲気が変わってくるんですよ」というお話をするんですが、その逆もまたしかりでした。
情緒を感じると、心の中に溜まっていた感情も解放されるんですね。
季節を楽しむことの好きな日本人、友人の話では、情緒を歌にするのは日本だけなんだそうです。
学校で音楽の時間、習った歌なんかは、そうですよね。
でも、近年、この日本独特の『情緒』の無さが認識されつつあります。
情緒よりも気持ちや思いを重視するあまり、情緒不安定なお子さんが増えているのも事実。
この『情緒』、英語では『emotion』。
”愛情や悲しみなどの強い感情”と”雰囲気”という両方の意味があります。
なるほど、心を見つめても、季節を楽しんでも、同じなわけです。
ただ、自然が失われつつある昨今、その楽しみを外に見出そうとしても限界があるのかもしれません。
人気のない所を見つけ出しては繰り出していた私たち夫婦でしたが、一度人が立ち入ると必ず整備され次の年には、たくさんの人がキャンプをしていたりします。
私たちにできること。
それは、自分自身の中にある『情緒』を楽しめるようになることなのかもしれませんね。
”思い込み”から自由になることができれば、”戦い”をするのではなく心の中の未踏の自然な部分にたどり着く事ができれば、あとは、いかに楽しむか?だけです。
一筋縄ではありません。
それこそ、険しい山道を行くような感覚がすることさえあります。
チャレンジの連続。
でも、 自分の仕事がまさにその未踏の地へのナビゲーションなのかと思うと、おかしなことにやる気が湧いてきました。
そういえば、友人に教えてもらったその山奥への案内役を引き受けて、地図を片手にあらゆる地元の人たちに行き方を聞いてまわっていた主人には、いつもと違う充実した笑顔がありました。
いとおかし、です。
源河 はるみ

この記事を書いたカウンセラー

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