12月がやってくる〜〜〜父とピアノ〜〜〜 

 12月の足音が近づいてきました。世間では言わずもがなのクリスマス。あちらこちらでは華やかなイル
ミネーションが師走の到来を感じさせてくれます。
 12月には、父に纏わる想い出がたくさんあります。
おねだりの下手な私が何年間も欲しがって、ようやく買ってもらったピアノ・・・今も実家にあるのですが・・・を買うために楽器店を回り、卸センターのようなところまで連れて行ってくれてずらっと並ぶピアノを全て触らせて貰って、
「さぁ、お前の一番気に入ったのを選びなさい」
と父。当時4年生だった私は、妹もまだ赤ちゃんだし、弟もいるし、と考えて値段を見ながらもじもじしていると、
「ここまで来たら少々は変わらへんから、値段は気にするな。」


・・・確かに。でもなかなか言い出せない。だって私の見ていたのは、値段も高めのものだったからです。そのピアノを選んだ理由は、無いんです。ただ、気に入ったから。響きが好きだったから。そんなことでいいのか?と当時の私が思ったかどうかまでは覚えていませんけど、とにかく、同じピアノの前から動こうとしない私を見て、父が
「これにするか?」
どきどきしながらうなずいた私。ピアノが家に届いたときは嬉しくて嬉しくて、父のリクエストの石原裕次郎の「赤いハンカチ」なんかとクリスマスソングをいつもの練習曲に無い熱心さで練習したっけ。ピアノがおうちに来てからはクリスマスは私の弾くクリスマスソングでケーキのろうそくを消し、時には親戚や知人を呼んでのちょっとしたパーティーになっていました。
 その二年後。父は私たち家族を外での食事に誘いました。知人のお店で家族だと紹介して楽しそう・・・だったのも束の間。お店で父が苦しみ出したんです。あの痛がらない父が脂汗を流して声もでない状態。すぐに帰宅し、近所の医院で診察を受けたら「盲腸炎」との診断。とりあえず痛みを散らして、翌日大きな病院を紹介してもらい、入院、手術。普通ならこれで大丈夫のはずだったのですが・・・父の手術痕から出血が止まらないのです。ガーゼはすぐに真っ赤。2日〜3日後に叔母がドクターを捕まえて
「もう一回開腹してほしい!これは尋常ではないはず。」
と何度も何度もお願いしてくれて、再手術。そうしたら何と!父の腸に細い明らかにメスによるものと思われる傷があったそうです。一度目の手術の時に麻酔の効きが悪かったこと、盲腸ではなく実は胆石だったこと、執刀医がまだ若く経験が浅かったことetc.の不運が続いていたようなのですが、叔母の機転と熱意でこのとき父はもう一度私たちのところへ戻ってきてくれたのでした。
 それ以降も父を囲み、私や弟妹がピアノを弾き、母の作ったご馳走でクリスマスを過ごす、という過ごし方に変わりは無かったのですが、父の会社の業績が悪化し、全てを手放さなければいけなくなりました。今思うとあの時の父の会社の負っていた債務くらいは大したものではなかったかもしれません。父は債権者会議でどのような話をしたのかは知りませんが、家族を守ること、従業員を守ることを一番に考えたようだと解ったのは成人して自分が仕事を持つようになってからです。
 父は完璧主義の職人肌で、実際大工から建築士の資格を取り会社を建ち上げた人で、利潤よりお客様に提供するクォリティを大切にする人でした。会社を手伝っていた母は経済的な業績をどうしても上げたいので、そんな父とは違った意見を持っていたのだと思います。でも父が会社を倒産させ、引き受けていた仕事も手放さなければならなくなったとき、母は父の代わりに取引先に挨拶に伺っていました。父と母は私たちが解らないところで深く理解しあっていたのかもしれません。父が弱ると母が、母が弱ると父が立ち上がる、と言うのが私にとっての夫婦の教科書でした。実際にその後母が飲食店を経営し、父はその裏に小さな事務所を移転して仕事をする、という時期がありました。
母は店をとにかく開けないとお金にならない、と頑張るし当然その余波は長女の私にも。もちろん弟妹にも影響はあるのですが、当時事務の仕事と親戚の喫茶店を掛け持ちした上に、YMCAでボランティアをしたり、音楽を学んだり、と今思うと一体どう切り回していたんだろう、と言うような状態で、さらに実家の手伝い・・・となるとちょっとした負担になっていました。しかも、母はお客様の前では威張るんです(笑)。
「ちょっと、あそこのあれとって」
「ちがうっ!それじゃない!」
 後で、「ああ言う時はわかったふりをしてほしい」とか言うのですが、間違ったら怒るので、どうしたら良いか判らなくなるんですね。
 父は、「もう店閉めよ!」と早めの時間に母に言います。そうすると母は、いや、定時まで閉められへん、とがんばり、案の定お客さんは入ってきます。で、9時に閉めたいのに、そうはいかなくなり、でも売り上げは上がります。でもその後の母の疲れが、父には見ていられないんですね。で、父の仕事が再び上を向き始めたとき、母が病に倒れました。自分は一番最後、の母は「調子が悪い」と言いながら頑張っていましたが、父が首に縄をつける勢いで病院に連れて行き、できるだけ早い時期に精密検査とおそらく手術が必要、との診断が。母は手術を受け、今も健在ですが、「あの時の話はしたくない」
と言います。思うに、よほど無理をして頑張ったのでしょうね。
 私はあの時の両親がとても大好きなのですが、母にとっては違うようです。それまで父の仕事を補助的にしていた人が、人前で料理を提供したり値段を決めたり、事務的にもいろんな切り盛りをするわけですから、楽しかったでしょうし、娘の私から見ても自信を持ってくれた気がしました。でも、こうも言いました。
「あの時の私は私ではない。もうあれはしたくない。」
 こんな母に支えられた父は、仕事や状況を盛り返していきます。50代の半ばに来ていましたが、あの時の父は本当にかっこよかった。でも、今、当時の父や母の年齢に近くなった私から見ると、母の期待は父には重すぎたのかもしれない、とも思うのです。母は父を尊敬も信頼もしていましたし、本当によくたててあげていました。
父はそんな想いをよく解っていたと思うけど、ときどき表情が翳ることがありました。母は、もしかしたら見落としていたのかもしれません。信じたくなかったのかもしれません。でも、父は成人病の宝庫だった身体(糖尿病、通風、高血圧)を抱え、最期まで頑張ったと思います。お疲れ様もありがとうも直接言わせてもらうことなく父が逝ったのは64歳を目前にした・・・12月中旬でした。
 父が亡くなり四十九日も済まないうちに「あの日」がやってきました。
 平成7年1月17日。
 実家はその瞬間に倒壊し、母と妹は瓦礫の下にいました。別に住んでいた私が駆けつけたときには実家の見るも無残な姿に、何が何だかわからず呆然としていて・・・弟が瓦礫の上に立って母と妹の救助をしている姿さえ眼に入りませんでした。
「おい!お母さんと昌子(妹の名前)は大丈夫やぞ!しっかりしろ!」
と弟に言われ、我に帰ると2軒先の顔なじみのおばさんが
「ともちゃん、大丈夫よ!うちも里帰り中の○○と孫がまだ・・・」
2人で手を握り合って励ましあっていました。そのおうちから赤ちゃんが救出され、私の目の前を運ばれて行きましたが、私の眼にももう間に合わないことがわかりました。でもそれさえもただ見ている、というだけ。周りの多くの人はただ見守るしかできず、弟を始めとして近所の中学校の先生や(たまたま元同僚の知人だったことが後で判明)、消防士である妹の恋人(今の夫)や、体力に自信のある人たちが瓦礫を取り除いて、一人ずつ救い出しました。この辺りでまだ残っているのはうちの2人と、2軒先の幼馴染み。震度4以上の余震が続く中、妹が、そして母が救い出され近所の病院に搬送されました。うちの母と妹は今も健在ですが、残念ながら幼馴染みは亡骸で救出されました。
 その後、瓦礫の中に弟が入り、家の残骸から物を取り出したりしていましたが、私の実家は、大きな梁が「あるもの」の上に落ちていたため、空間があることがわかりました。そのあるものとは・・・父が買ってくれたピアノだったのです。ピアノの上に、梁が乗り、二階が母たちのいる居間に完全に落ちて無かったようなのです。構造的には私はよくわかりませんが、少なくとも母と妹と私はそう思っています。
 その後ピアノは、どうなったと思います?
 実は、まだ実家にあるのです。そして保育士の勉強をしている姪がたまに弾きにきています。調律もしていないままなのに、音の狂いは目立ちません。
 今年も12月がやってきます。私にとっては死と再生の月・・・そう話したこともあります。
 父がピアノを買ってくれてから35年。父が生還して33年。逝ってしまってもう11回目の12月。33年前に私たちのところへ戻ってくれてから亡くなるまでの21年間は、父が私たち家族に遺してくれた大切な「父との時間」だと今は思うのです。なぜなら・・・父が病に倒れたのは祖父が亡くなったのと同じ、42歳でしたから。父はどこかで、自分の寿命を42歳と決めていたような気がします。そこから後は家族にくれたんじゃないか、と私たちはずっと思っていました。
 今年もピアノを姪たちが弾き、親族で食卓を囲むかも知れません。年月と共に正直なところ、お互いを完全に理解しあっているか?と言うと疑問も少なからず出てきます。亡き父、母、弟、妹、私・・・それぞれの、生き方、大切にしているもの。似ていて全然違ったり、全然似てないと思ったら意外な共通点を見つけたり。腹が立つこともあるし、自分ばっかり損をしている気分になったりもします。これはそれぞれが思っているのかもしれません。
 こうしたたくさんの想いを、父が遺してくれたピアノが見ているような気がするのです。良いも悪いもなく、損も得もなく・・・家族としての絆をただそっと見守ってくれているような気がするのです。

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