熟年紀行・旅サラダ

先日、久しぶりにお墓参りに行ってきました。
結婚してから、ずっと遠のいていた、生家のお墓参りです。
私が結婚をしたのは1994年ですので、それ以降に法事などでちらっと訪れたことはありましたが、お墓参りを目的にしていくのは本当に本当に久しぶりでした。
(懐かしがっている場合ではなく、ご先祖さま、ゴメンナサイですよね ^^;)
私の両親はどちらも静岡県の出身ですので、大阪から、いざ、駿河の国へ。
お墓周辺の駅がだいぶ変わったという話も聞いていたので、三重県に住んでいる両親に場所を再確認したところ、祖母の米寿祝もかねて、両親と一緒にお墓参りに行くことになったのでした。
すでに高齢の両親、最近では電車での移動が多くなってきたそうですが、この日はおじいちゃん(父のことです)が車を出してくれることになりました。
最寄り駅で待ち合わせ、いざ、いざ~♪
久しぶりの名古屋の市街を走り、東名高速道路に……と思いを馳せる間もなく、私は車の中で眠りこけていました。
気づくと、父の実家のある某市に到着。
早速、お墓参りです。
毎月、1日と15日には父親の生家が訪れるそうで、私が行ったときにも、数日前の花が残っていました。
父の生家は商売をしていて、祖父から伯父(父の兄)、そしてその息子へと受け継がれ、現在はわたしにとっての従弟が跡を継いでいます。
お墓はずっと前に訪れたときと変わりなく、同じ場所で同じように静かにそこにいて、じっと見守ってくれているようでした。
私が訪れていない間も、私の知らないところで、こうしてお墓を守ってくれていた人たちがいてくれて、変わらない毎日を過ごせていたのだ、と深く感じ入り、感謝の気持ちで墓前に手を合わせたのでした。
毎日を過ごせていることに感謝をして、お墓参りを終了。
その後、親が連絡をしていたとのことで父の生家に行きますが、実に何年ぶりでしょうか。
駅前の整備に伴い、場所を移動したお店は新築で広く、二世帯用に大変身していました。
出迎えてくれたのは、店番をしていた伯父、伯母、そして配達から戻った従弟。
お互いすっかり年をとったことを感じましたが、子供のころには、私の弟と従弟を子分のように従えて遊びにいったことが思い出されたりもして、懐かしさでいっぱいでした。
お昼を一緒にとって見送ってくれたのですが、その瞬間、私は不意に、「はっ」としたのでした。
誰も何も言わなかったのに、その見送ってくれる姿に、彼らはずっと、私のことを心配して、祈っていてくれていたのだということを、私ははっきりと感じたのです。
数年前に離婚してから、なんとなく足が遠のき、一度も訪れることがありませんでした。
それでも何も言わず、「よう着たね~」といってごちそうを振舞ってくれた伯父と伯母。
にこにこ笑って迎えてくれた従弟。
たったそれだけのことと、見送る姿から、伝わるものってあるのですね。
その思いを、想像や推測ではなく、確信として実感したのでした。
もちろん、その思いは両親も同じだったのでしょう。
定年退職してからますます出不精になった父が、車で静岡まで来るなんてまずありえないことですから、母も驚いていました。
そんなことを思いながら、両親と一緒に私の名づけ神社にお参りしました。
私の名前はもともと姓名判断で大吉ですが、40歳以降によりよい運勢らしいので、それを狙ったわけではありませんが、しっかりと感謝のお参りをしてきました。
今回のお参りは、すべて、現在与えられているものに対するお礼が目的でしたので、感謝のみ、捧げてきました。
次に、そのまま母親の生家を訪れます。
久しぶりに会う伯母(母の兄嫁)が、お墓のお花を用意してくれていました。
伯父夫婦には私と同じ年の従姉がいて、しょっちゅう遊びにいってはお世話になっていて、そのためでしょうか、思い入れのある様子で迎えてくれました。
ずいぶんお世話になったのですから、こちらとしては返そうと思うのですが、不思議ですね、そんなことよりも、さらに愛情を注いでくれることが喜びであるかのように、与えようとしてくれているのが分かります。
そんなものかもしれませんが、本当にありがたいと思ったひとときでした。
祖母と一緒にお墓参りに出発。
祖母は米寿を迎えましたが足腰は丈夫で、祖父の墓に着くと、誰よりも率先してちゃっちゃっとぐるりを掃いていました。
祖父母の年齢差は親子ほどもあり、祖父は明治生まれの気丈なひとだったようで、当然、祖母は結婚に反対されたようですが、若くして子供を生み、波乱の人生を生きてきた祖母にとってはいろんな思いがあるのだと思います。
墓前を掃除している祖母は、いつものおっとりした姿からは程遠くキビキビとして、いつになくイキイキとしていました。
今は亡き祖父のために、できることがあるというのが、祖母にとっての至上の喜びなのですね。
祖母の愛情の深さを、改めて実感したのでした。
その後は、祖母と一緒に、焼津の海が一望できる旅館に。
気分は「旅サラダ」、ですが平均年齢65歳の旅です。
私としては、この平均年齢よりも、自分の年に8歳足すと、私が生まれたときの祖母の年になるということの方がショッキング~です。
あな、おそろし~~。
旅館に着くと、最上階の部屋から海を一望、温泉から富士山を拝み、懐石料理に舌鼓、さらには酒のみやんちゃ父娘でカラオケ三昧。
それ、ワカチコ、ワカチコ。
二人でカラオケルームを占拠し、熱唱につぐ、熱唱。
誰も聴いてね~よ~。^^;
でも、そんなの関係ねぇ~。(古)
やんや、やんや。
血のつながりを否定できないと思った、アホな父娘でした(笑)。
次の日は、祖母を送り届けると、母の弟である叔父が定年を迎えたということで、まだ働いている叔母に代わって家事をしていました。
今までは全く家事をしなかったけど、やってみると楽しいもんだねえ、とキッチンはいつになくきっちり整理され、叔父の主夫ぶりがうかがえます。
母の家系はこだわり派の学者一族で、何をするにも研究熱心ですから、家事ですらいろいろと研究している様子でした。
叔父の眼は優しく、私を見て昔を懐かしんでいる、といった風情でした。
私が生まれたとき、確か叔父はまだ学生のはずですし、当時はトイレも汲み取り式でした。
それでも、見渡せば近所の公園にあった遊具はそのままで、祖母と一緒にすべった滑り台も当時のままでした。
祖母の娘時代の話に耳を傾け、いにしえの過ぎし日もゆかしく、馳せる思いは去りぬ。
こうして、我々は旅路を後にしたのでした。
長いことご無沙汰しているご先祖さまへの感謝の旅でした。
眼に見えないご先祖さまに代わって、眼に見える形で親戚衆が私に教えてくれているような旅でもありました。
自分の知らないところで、自分の知らないものに守られて生きているということを、がっつり思い知らされたのでした。
後日、私からの米寿祝いを大切に使い、一緒に渡した手紙を何度も読み返していると書かれた祖母からの手紙が来ました。
長い年月をかけて祖母から受け取ったものに比べれば、私が祖母に贈ったものなんて、本当にささいなものだと思います。
それにもう高齢なので、眼もだいぶ疲れ気味だと思うので、単に喜んでくれたらいいと思っていたのですが、何度も手紙を読み返し、当たり前のように手紙を書いてくれて、やっぱり祖母の愛情は深いのでした。
娘時代をしのばせるような、愛らしい言葉遣いの祖母からの手紙。
本当に最後の最後の瞬間まで、与えることが喜びであり、彼女にとっては当たり前のことのように思っていることが、手紙をくれるという行為から伝わるような気がしたのでした。
私は学生のころ、入学などで親戚筋からお祝いをもらっても、すべて両親のところで止められていました。
私のところにお祝いはもちろん、もらったという話すら聞いたことがなかったんですね。
だからお祝いをもらったことも知らなかったし、お礼の手紙を出すこともなかったんです。
(この是非については、ここでは述べませんが)
当然、愛されているなんて感じられませんでした。
それでも、大人になって分かるのは、彼らの思いは、今までずっとあったということ。
思いは、そのときに伝わらなくても、時間を経て、必要なときに、必ず伝わるのだとも思うのです。
受け取り手に準備ができたら、与える者が現れるといいます。
今回のお墓参りは、与えられている普段の生活に感謝をするために赴いたのですが、それが私にとっての受け取る準備だったようです。
今回の旅行は、会ったひとたちを通じて、私に大切なことを示唆し、与えてくれたような気がします。
私のつたない「熟年紀行・旅サラダ」をお読みいただきまして、
最後まで、読んでいただいてありがとうございました。
感謝、感謝の巡礼でした。
トシだな~。

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