おばあちゃんの形見〜〜〜時を経て流れる想い〜〜〜

あれはちょうど息子たちと同年代の高2のころ、当時現代国語を持っていた
だいていた(今思うと、ですが)結構若かったN先生、とても勉強熱心・研究
好きな先生で、古い書籍を探しているという話があり、うちにあったおばあち
ゃんの形見のすごく古い「源氏物語」を持って行ったことを覚えています。明
治時代のものを探しておられたようで、うちにあったのはそれより少し新しく、
大正初期のもの。でも、おばあちゃんは、とんでもない形見を本の間に遺して
いたことが後で発覚・・・忘れ難い想い出となっています。


おばあちゃん(と言っても正確には大伯母、父方祖父の姉)と子供の頃同居し
ていた私は、さまざまな形見を遺してもらっていました。私だけ、と言うより
も家にそのまま残っているだけなのですが、明治生まれ・硬骨・気丈な女性で
あったおばあちゃんの晩年は、早くに両親を亡くしていた私の父と同居し、私
たち姉弟(末妹はおばあちゃんと入れ替わりに誕生)もよくかわいがってもら
っていたのですが、その一生はまさに波乱万丈。おばあちゃんの形見がそのこ
とを物語っていると思います。様々な書籍、古銭、氷で冷やす冷蔵庫、細い羽
がうなりながら回る黒い扇風機、丁寧にしつらえられた絹のハンカチ、何やら
和歌を刺繍してある皮製の小さな財布、そして医療道具一式。この医療具は普
段は大切に箱に収められ、私が部屋に行くと出してくれました。お気に入りは
薬天秤。分銅のおき方や薬包紙の包み方を教えてもらっていたのです、まだ、
幼稚園にも上がらない頃。ちなみに今でも薬は上手に包めると思います、役に
は立たないけれど(笑)。三つ子の魂百まで、って本当ですね。
このおばあちゃんと私はすごく似ているとよく言われているのですが、姿かた
ちだけでなく、おそらく気性もよく似ているみたい、それほど近い訳ではなく
…何親等になるのかな…4親等ですか…なのに。子供ができなかったために夫
の死後家を出ざるを得なかったおばあちゃんは、神戸の真ん中で店を持ちます。
髪を刈り上げ(そう言えば私も以前ベリーショートだったな)、毅然としてい
たのですが、度が過ぎていたのか…ある時就寝中に泥棒に入られ、枕の下にし
まっていた売上金を奪われると言う事件に遭遇します。犯人が警察官に連れら
れ実況見分に来た時「この人ではない。男性だった。間違いない。」「いや、
私が寝ていた。私の枕の下から盗っただろう。」…まだ髪の短い女性が少ない
時代、ハードワーカーのおばあちゃんはすごい高いびきで寝ていたらしいので
す。で、男性と間違われた…という笑い話。あ、言っておきますが私はいびき
はかかない…と思いますよ、ま、自分では聞けないけどね(笑)。
そんな気丈なおばあちゃんも年とともに弱っていきます。その間に私が怪我を
したり、いろんなことが絶え間なく起こります。父は建築業をしていたので、
職人さんなどの出入りも多くて、その食事の用意もあり母は大変だったと思い
ますが、実はもう一人大叔母がいて…これは祖父の妹なのですが、この姉妹は
非常に相性が悪いらしく、よく喧嘩をしていました。私たち家族などの分、大
きいおばあちゃん、小さいおばあちゃんが各々食事を作るほか、当時父の仕事
現場で使っていた「ふのり」を母が炊いていたりと、台所も休む間がない状態。
そう広くもない家の二間をこのおばあちゃんたちが一つずつ使っていました。
小さいおばあちゃんは臥せることなく亡くなりました。急だったので結構大変
な状態になっていたのをうっすら覚えています。このおばあちゃんのことは、
実はあまり覚えていません。大きいおばあちゃんの方が印象に強いのはきっと
亡くなったときの私の年齢のせいだけじゃないんだな、と思います。日常的に
一緒にいる時間が長かったのは大きいおばあちゃんの方だったから。もちろん
居心地がよかったからなのですが、今から思うと小さいおばあちゃん、寂しか
ったのかもしれません。いつも縫い物をしていて、焼きごてを着物に押し当て
ていたり、食べるところを見られるのを嫌ってか、水屋の中に茶碗をおき顔を
棚の中に向けて食事をしていた丸い背中を覚えています。このおばあちゃんの
人生は幼かった私あまりは知りませんが、今の私なら何をするだろう、と考え
てしまいます。あの頃は(当然だけど)何も感じなかったのに、孤独な思いを
今になって感じるからです。
さて、大きいおばあちゃん。なぜおばあちゃんが医療用具を持っていたかと言
うと、旦那様がお医者だったからなのです。「子なきは去れ」と言う時代です
から、着の身着のまま放り出されるように家を出され、手元にあった遺品を持
ってきたとのことでした。膿盆に舌圧子、ピンセット、針のない注射器、さび
たメス…そして薬天秤。理由はわからないけど…たぶん取り扱いが比較的雑で
なかったからかな、私だけの時にこれらは出てきました。そして、刺繍入りの
皮の財布は大切な人=夫からの贈り物らしく、私が死んだらお前にやる、とい
つも言っていて、実は未だに私の手もとにあるのです。この刺繍、実は何かの
和歌らしいのですが達筆すぎて読めません。でもずっと大切にしていて私に託
す約束をするくらい大切なことが書かれてあるのでしょう。おばあちゃんの死
後もう30年を越えましたが、私もまた大切にとってあるのはそのせいかもし
れません。
実は、隠れた形見があります。それは、、、例の「源氏物語」の間に挟まって
いた、古ぼけた手紙。○○殿、とおばあちゃんの名が冒頭に書かれ、太い万年
筆で書かれたおばあちゃんあての恋文でした。残念ながら手元にはありません
が、これを発見したのが、実はN先生。「現代語訳」とあるものの、大正時代
のものですから私が読みこなすにはさらに訳注が必要なくらいの代物で、しか
も分厚い上下巻。読んでいるはずもない、いや、ろくに開きもしていない私。
その中に恋文があるなんて(その雰囲気からラブレターと言うよりまさに恋文、
なのです)知るはずもなく。なぜそれを知ったのかと言うと、何と!N先生っ
たら授業中に私に返す前に、クラスで披露したのです!!もう私は真っ赤。ま
あ、当時も既におばあちゃんは故人ですし支障はないのですが、恥ずかしかっ
たなぁ。なんだか自分のラブレターを発見されたかのような、そんな恥ずかし
さでした。内容は…恥ずかしくて読めなかったのか、達筆すぎて読めなかった
のか…覚えていませんが、あの気丈なおばあちゃんの女性としての生き様を17
歳の私が知ることになりました。
私にとっておばあちゃんは、すでに「おばあちゃん」のような人でした。つま
り若い頃を髣髴(ほうふつ)とさせるものは何もなかったし、色んな苦労をし
たらしいとは知っていましたが、女性としてどんな感情を持っていたかなんて、
正直言って考えたことなんてなかったのです。最期を看取った母にしても同じ
でしょうね。でもうちの母の本当に立派だと思うところの一つは、身内の女性
の、今で言う「エンゼルケア」…清拭や着替え、お化粧をしてあげられる、と
言うこと。このおばあちゃんも確かそうだったし、私の伯母の時もそうでした。
着替えの時には人払いをし、男性には出て行ってもらうのです。いくら亡くな
っていても女性は女性だから、と。おばあちゃん達とも伯母とも確執のあった
母なのですが、最期の門出をいつも飾ってあげていました。どんなに喧嘩をし
たとしても、私が母を尊敬せざるを得ない大きな理由の一つです。先日のJR
福知山線の事故の際に、遺族の方がJR職員に「葬儀屋さんの仕事」だと言わ
れたと悲しんでいたのをテレビでたまたま見て、母のしてきたことを思い出す
と同時に、死化粧をしてもらったおばあちゃん達の感謝の声が聞こえたような
気がしました。
核家族が多い昨今ではあまりしない苦労をしてきた母ですが、甲斐はあったよ
うです。おばあちゃんは最期には意識が混濁し人の見分けがつかなくなってい
て、すべての人に「おかあちゃん」「おかあちゃん」と声をかけ、「親にもな
らん世話になった」と言い残し、逝きました。母には未だ癒されない思いもあ
るみたいですが、このおばあちゃんのいくつかのエピソードには今でも涙を浮
かべます。
月日は個人だけではなくその環境もかえてゆきます、そう、大きく言えば社会
情勢だってそうです。私自身、気軽さもあり母と近くに住みながら今は核家族
です。でもお互いの生活ペースやそれぞれに必要なスペースを考えると同居は
今や困難…と感じています。これはもちろん私だけの問題ではなく、多くの方
がそうだと思うのです。一緒に暮らすにも条件が整わないことも昨今は少なく
ないと思います。
おばあちゃんの命日が過ぎ、今はあんなふうに身内に看取られて逝くことはな
かなか叶わないのかな、とふと思いました。でもそれぞれの生き方を選び、お
互いの人生を尊重しあえるのなら、それもまたすばらしいと思います。長く生
きた人生にはそれだけ苦労も多かっただろうし、楽しいこともあったでしょう。
時代に与えられた苦痛のようなものに翻弄された人生も、私たちの親世代・さ
らにその上の世代には多かったことでしょう。そのことへの想いも大切にした
いと思うし、今を生きる私たち自身が私たちらしく生きる、と言う選択は子供
世代へ引き継がれるのだとも思います。
いつも、自分は選んで生きている、と思って生きて生きたいものだと思っていま
す。こんな風に思えるのも、おばあちゃんからの形見かもしれません。
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