~中国古典を日常生活に活かす~老子より

中国古典からピックアップしたものを、毎日の身近な例えに置きかえるシリー
ズ。これまでは「孫子」を二回とりあげました。今回は「老子」から御紹介い
たします。
まずは老子について御説明いたします。中国の戦国時代(紀元前403~紀元
前222)の初期に活躍した思想家とされます。彼は自分の名前を世間に知ら
れることを好みませんでした。「老」とは苗字ではなく尊称(尊敬をこめて呼
ぶ)、「子」とは先生なので「老子=老先生」とは、本名ではなく、ペンネー
ムのようなものだったようです。
実は老子の経歴はよくわからないままで、弟子たちからよびかけられるままに
自分の意見を吐露していた。後に伝記として語られた人物像も、語り継がれた
書物から推察したものとされます。


老子がバックボーンとして貫いた思想は「無為(むい)」です。何もしないと
いう事ではなく「無作為(むさくい)」を説きます。無作為とは・・・例えば
老子が生きた時代は、天下の諸侯たちが民衆の生活を横に置いてでも軍隊を強
くするような乱れた頃でした。自分達が得をするような世の中に作り変えよう
(自分達の思うように相手をコントロールしよう)とする野心家の諸侯もいま
した。そんな諸侯にとり入って、天下統一の政策や道徳を提案して混乱する状
況をなげき、いっそ余計な事をすべきではないとして、無作為をといたとされ
ます。
老子は基本的には、反戦・平和を願う思想家でしたが、上記のような悪意をい
だく野心家から身を守る時には闘わざるを得ない、やむなしとする乱世の時代
状況は理解していたようです。
つまり、老子の「無為=無作為」とは周囲の環境や他人を、自分達が得するよ
うな形で操ろうとしたり、支配的になったり、コントロールすべきではない、
本当に必要なことだけやろうと伝えたかったのかもしれません。そんな中から
ピックアップするのは、第三十一章からの次の一文です。(*内容は意訳しま
した。御了承ください。)
*戦勝には喪礼(そうれい)を以て之(これ)に処(お)る。
競争・レースや争いごとなどに勝負事として臨み、もし自らが勝者として残る
事があるとしよう。そこには持てる物のすべてを出し尽くしたにもかかわらず
土俵を去るものが必ず出る。勝利を収めたからと言って、それを第一の喜びと
するのは好ましくない。これを喜びとすることは、勝負事や争いごとそのもの
を楽しみとすることである。それは困ったものだ。
やむを得ず避けられない流れになれば、悲哀の念を持って臨み、勝利のセレモ
ニーで労苦をわかちあう場合でも、不幸にして負傷したり、命を落とし、去っ
た者たちに思いをはせることを忘れてはならない。それはまるで、喪(も)に
服した儀礼をとり行う心づもりのように。
とまあこんな感じですが、もともとの本文はかなりの長文で論旨も複雑です。
その中には「凶器(きょうき)」という言葉も出ます。中国の用法では、争い
ごとに使う道具の他に、葬儀に使う器具のことともされてます。この事実は争
いごとが葬儀と並んで凶事(きょうじ・さいわいごととは言い切れないこと)
とされたと・・・言っていいでしょう。
この一文にはエピソードもあります。ヨーロッパの医師・アルベルト・シュバ
イツァー博士(1875~1965)は、アフリカで病院経営し、原住民の医
療を行いました。仏国が第一次世界大戦で独国に勝利し、独国はベルサイユ条
約で決まった賠償金を払うことになりました。ところが、あまりにも金額が大
きすぎて途中から払えなくなりました。そこで仏国は兵器製造の原材料として
欠かせない、独国の鉄鉱石生産地を占領しました。それは、返せぬ借金のカタ
をとる差し押さえのごとき行為として反感を招きました。怒った独国がベルサ
イユ条約賠償金支払い停止を表明。のちに再軍備宣言をし、第二次世界大戦を
引き起こす原因のひとつともなりました。
長期にわたる第二次世界大戦終結のニュースを赴任先で聞き、合間に手にした
老子を読みながらシュバイツァー博士が、ふと感慨にふけったのが上の一文を
含む第三十一章とされます。この話は、サラリーマン時代に通った中国古典の
勉強会の先生から教わりました。シュバイツァー博士は・・・老子のファンだ
ったのです。
国同士が争う機会がなくなった現在、日常生活に置き換えて語ると、ビジネス
シーンかもしれません。例えば同じ社内でプロジェクトが立ち上げられようと
したとします。数々のプランが練り上げられ、最後に残ったのはあなたの案と
あなたのライバルAさんの案だったと思ってみてください。最終的に採用され
たのはあなたの案だった(あなたが勝利した)と仮定しましょう。でも、内容
的には甲乙つけがたい、Aさんの案が採用されてもおかしくない程、充実した
ものだった、あなたも正直「とてもかなわないや。お手上げ。」と思うような
状況だったとしましょう。
なのに実際はあなたの案が採用され、勝利を収めた。それまでの苦労が報われ
この上ない喜びに沸きあがるかもしれません。同時に虚しさを感じないとも限
りません。喜びからふとさめた時・・・もし自分がAさんの立場で採用されな
かった側だったら、どんなことを考えただろう?どんなことを感じただろう?
って思いをはせる方なら・・・。持てる物を出し尽くしたAさんに敬意を払う
がごとく、それ以降は喜びを表すのをほどほどにされるかもしれません。
あなたもAさんも同じ目標を追いかけた。競争がなければ、個人的にはお互い
何の遺恨もなかったもの同士だったと思ってみてくださいね。でも、実際Aさ
んは去る、あなたは残るような状況がうまれたとして、そして、その上でAさ
んがあなたにこう言ったとしましょう。「あなたの熱意が俺達の熱意を越えた
んだ。俺達がなし遂げられなかったことは、あなたに託す。あとのことは頼ん
だぞ。」と。では、残されたあなたにできることは?
去ったAさんの熱意を受けとめ(受け取り)、受け継いでいくことじゃないで
しょうか?Aさんがかなえられなかったことを変わりに叶えてあげることだと
思います。Aさんの案も可能であれば取り入れ、実現してあげられたらいいで
すね。
時にはふと去りし人たちに思いをはせる・・・。その上でこれからの「目先の
ことにベストをつくす」がいいと思います。
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