私の職務経歴書その弐〜薬剤師編〜

私はこれでも(?)薬剤師です。
今回、紹介するのは、カウンセリングサービスのカウンセラーの観点から薬局の利用者の方を見てみたら・・・。
十年前にはどこの病院へ行っても、かかった病院の中でやっと診察が終わったなぁと思うと、後は会計とおくすり、玄関近くの窓口に書類やらファイルやらを渡し待つこと数十分おくすりをもらって帰る・・・、少し大きめの病院にかかると検査と診察と投薬と会計で風邪症候群のような一過性の病気であっても、だいたい2時間程度はかかるはず・・・と覚悟を決めて病院へかかることが普通だったように思います。


今は先生がひとりかふたりでやってるような医院や診療所であったとしても、‘調剤薬局’でお薬をもらうことが常識のようになってきましたね。
この調剤薬局、広がり始めた当初は使い勝手が悪い、病院と薬局、二度にわたってお金を支払うことに対する抵抗、何度も症状や状況を説明させられる苦痛・・・など医療を利用されるかたの負担感も多かったように思います。
医療関係者へ自社の薬を営業したり、病院で出されるような薬剤を開発するスタッフたちの研修職であったり、結局のところおくすりには十数年関わっていましたが、どうしても‘こころ’というものが気になって、深く知りたくなって、心理カウンセラーの道を選択した私ですが、人と関わる機会として色んな側面を経験することが面白く自分の心の栄養にもなるので『調剤薬局の薬剤師』という仕事に就業したこともあります。
正確に、出来るだけ短時間で、お薬を指示通りに飲んでいただくための説明が出来ること、たぶんこれが調剤薬局の薬剤師としての最低限の使命。
ですが、病気を持っていらっしゃる‘人’を相手にする仕事、やはり身体の‘病’と‘こころ’には密接な関わりがあるようですね。
最近は普通の情報として、言葉として受け入れ聞くようになった‘メタボリックシンドローム’。最近3度目の年女を通過しそうになっている私の近辺でも、ちらほら、ちらっ・・・と「実は・・・」っていうお話を聞かせていただくことが多くなり身近になってきました。
こういうお話を聞くようになってから、身体のメンテナンスは日々したほうがいいものだなと実感します。
カウンセラーとして気になったのことのひとつは、熟年のご夫婦の方の夫婦関係や家族関係が、病気や身体の不調に微妙に、もしくはしっかりと反映されているのでは?と感じることが以外と多かったこと。
数字や結果をなんらかの形で示そう・・・という傾向の強い欧米ではパートナーシップと各種疾患であったり健康状態の相関関係を示すデータなど精査すれば相当数あるかと思いますが、日本においては個人的な体験で感じることは多々あったとしても、数値で報告されていることは少ないのではないかと思います。
例えば。
糖尿病。
糖尿病といえば、血糖値測定と食事とお薬。代謝が悪くなってしまって、血液中に糖分がいつも多めに存在することで血管や神経が痛む。。。
人生の今の時点と先の時点と、周囲の人との関係と、実はとっても思うことの多い病気。
だからこそ日本においても心理学的なサポートをするのが好ましい、と研究されることも多い病気のひとつではあるようです。
糖尿病の患者さん、ご自身がお薬を取りにこられる場合もありますが、年齢が高くなればなるほど、配偶者の方や家族の方が取りにこられること多くあります。毎日朝昼晩と飲むおくすりを分けるまで手をかけても、お薬を飲まないんですよ、病院にも来たがらないんですよ、というような訴えを聞きます。
‘薬剤師’としては「お薬の効果をお話し、飲むように努力してもらう」のが一義的なお仕事です。もちろんお薬を飲まれない・・・のはヨロシクないですし。
でもでも多くの熟年のご夫婦の旦那様の世代になられると、そこまで働きづめで働いて、頼るものは自分のみと頑張ってこられてきたような背景が浮かびだすこともしばしば。
男性も女性も、‘上手に人に頼る事が大切’なんていう考え方が、世間の常識として通用し始めるとはなかなか理解しづらいこともあるでしょう。
よくよく、ご家族の方からリサーチしてみると、「お薬を飲みたくない」の自己主張が実は「頼むから優しくして欲しい」というこころの声だったり(なかなかいえないですものね・・・家族だったり、奥様だったりに)「愛する人たちにこんな病気になっちゃうような弱い僕で迷惑をかけたくないから、病気がとっとと悪くなって入院できたほうがいい」という切ない遠慮だったり。
上手に表現できたら・・・
上手に‘聴いて’あげれたら・・・
愛や優しさや受容を感じれたら・・・。
単純にこういう状態だから、こうしなくては、と例えば理屈の通った西洋医学のお薬のような効果ではないかもしれないけど、愛する人に身体をもう少し大切にしてもらうことも可能かしら、そして私に何かできたのかしら・・・と考えることしきりです。
忘れられない‘目’もあります。
癌と告知された後の‘目’です。
お薬の内容から、どういう状態で来られているのかは読み取ることが出来ます。
また、お薬の説明は先生から聞かれましたか、の一言で、ご自身の病気をご存知かどうかが分かります。
ひとつの目は
「しっかりと見据える、何かを受け入れたような深い目」
本来もっていらっしゃる性格や今までの生き方もあるのでしょうが、ここまで来られるのに誰がこの人を受け入れてくれたのでしょう、そばにいたのでしょう、医師でしょうか、看護師でしょうか、家族でしょうか。
それとも彼は内なる彼自身とだけつながりここまで強くなったのでしょうか。
ひとつの目は
「怖れの中にあって助けを求めたくても我慢している目」
脅えている・・・というのは一目見ただけでも感じます。
もしも、この人のこころがいま打ちひしがれ、孤独と恐怖とともにあるのであれば、本来の私の仕事は求めがあれば共に居ることです。
命の長さは分からないけれど・・・
苦痛がどうなるかは分からないけれど・・・
‘資格で区切られる日本の医療職’に対して、とても窮屈な思いがしてしまいます。
こどものお客さまは、皆とても個性豊かで、薬局の中にも活気と笑いをもたらしてくれる存在です。
彼らが身体的にどのような人との‘違い’を持っていたとしても、無意識のうちに発散しているエネルギーは本当にパワフル。
私たちが本来持っているエネルギーや魂が、いかにオリジナリティに溢れ、楽しみに溢れ、‘違い’というものを本来であれば自分のものとして受け入れる力を持っているのかを教えてくれます。
私たちと患者様の間は、通常は少し高めのカウンターが遮ります。
目をぱちぱちと瞬きさせ、口をしっかり閉じさせ、本当に愛くるしい小さめの頭。
大人であれば、腰から上はらくに見えるはずですが、印象的な目と口元だけこちらから見えるくらいの背丈。
どうしたの・・・と聞くとあまり表現しないわが子を思われてでしょう、保護者の方が‘肩が痛いらしいです’と。愛くるしい目元に似合わない、眉間のしわ。我慢しているような口元。首をふったり、頷いたりもあまりされない様子

おこさまの診断は難しい、と聴きます。
私たちが例えば外国に行き‘おなかが痛い’と表現したくてもよほど堪能か、言葉以外であれ表現力が豊かでないと正確にどこがどんな風に痛いのか、伝えることって難しいのと同じような状態なのでしょうか・・・。
保護者と子の関係をみるにつけ、表情をみるにつけ子は保護者に症状のすべてを伝えきれてないのではないかと感じ、
「あのさ」、
「肩以外に痛いところあるでしょ(^_-)」
小さく小さく頷く少女。
実は肩よりも頭痛がひどかったもよう。
心配させたくなくて、言えなかったみたい(あまりにお話しないのでこれも推測なんですが)。もう一度、検査に行かれたようです。
ほんとにカウンセラーでもあり薬剤師でもある私から見た少しの少しの例。
カウンセラーでなくても、逆に薬剤師でなくても当たり前に感じることもあるかもしれませんが・・・。
扱うのは特に‘身体’と‘おくすり’ですが、そこかしこに‘こころ’や‘人間関係’や‘エネルギー’の影響があり。
科学や、ロジックや標準化やエビデンスがもしも、人の健康の縦軸ならば、こころを扱う・・・という横軸が今よりももっと気軽に浸透されていけばいいなと願う昨今です。
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