かわりゆく風景〜〜馴染みの街を歩く〜〜

 最近、意識して歩くことにしている。時折触れるのだけど、子供の頃左足に
大怪我を負った後遺症があり、やはり年とともに多少の衰えを一番感じるのは
この足。今は取り立てて不自由はしてないのだけど、漫然とした不安をずっと
持っていて、ちょっとした心がけや軽い運動、そして時折痙攣を起こすのでそ
れに備えての漢方薬を出していただくなどで、今のところは切り抜けてはいる
けど。


 歩くことがとても良いのだとわかってはいるけど、毎日歩くとなると、やは
り負担が大きいし、性格的にどうしても自分に気持ちの面で負荷をかけがちな
ので、心がけるようにしよう、と言う程度と、無理をせずにマイペースで、そ
してしんどくなったら交通機関を使う、休む、ということで何とかやっている。
 若い頃にははやりの靴を私も履いていたが、今思うと靴に足を合わせるよう
な感じで、すごく無理をしていた、と。ついこの2〜3年前まで、深く考えず
足に合う靴を探していたが、なかなか見つからず・・・それもそのはずで、測
ってみると左足と右足のサイズがまず1.5センチ違う上に尖足だった左足の
親指と小指の幅は右足より格段に広く、逆に踵は右足より狭い、ということを
頭では解っていながら、不自由とも思わず、ただ「合う靴が少ない」と思って
いたのだった。しかも更に3〜4センチの脚長差があるとのことで(他人事の
ようだ)、靴の減り具合も違う。ふむ。考えてみれば当然のことなのだけど。
足全体の太さも違い、並べて見ると膝の高さも違う。でも私にとっては当たり
前なので、これを不自由とは特に感じていなかった。いろんな意味で、当たり
前ほど恐いものはない、と今は思うけれど。
 そんな自分の身体に気づくと、これから先、どんな風に年を重ねるのかを考
えると不安になってきた。脚長差があると言うことは実は身体の中の内臓もも
しかしたら微妙に位置が偏っているかもしれない。今のところ、その気配はな
く、どうやら腰骨と背中で調整しているらしい。人間の身体ってよく出来てい
る、とつくづく思う。まあ、私の場合は差が知れていると言えば知れているの
で、これでとどまっているのだと思うけど、そう思うと、二本足歩行用に本来
出来ている人間の身体のどこかが不自由で不自然な体勢を取らざるを得ないと
なると、当然不調は多くなるよなあ、などと思っている今日この頃。
 そんなこともあり、意識をして歩くようにしていたのだが、今日は幸い数日
前までの厳寒は鳴りを潜めていて、歩いているうちに身体もほどほどに温まっ
てきて。子供の頃からよくなじんでいる道を色んなことを考えたりきょろきょ
ろしながら、歩いていた・・・。
 懐かしい街の風景と、新しい風景が入り混じっている。合間からは遠く港が
見える。山の上にある公園は、春になるとちょっとしたサクラの名所だ。中学
生があどけなさを遺した顔で帰って行く。高校生は、語りながら・・・時節柄
受験のことでも話しているのだろう、少し真剣な表情だったりする。
 こんな風に歩いていると案外遠くは感じない。そうこうしているうちに、も
う家まであと少し、と言うところ。この辺りは高低差があるので、バス道より
下にある見慣れた古い五階建ての公営住宅が・・・あれ!?取り壊し中のよう
だ。周りを見ると何棟かある同じような住宅にもシートが掛けられたり囲われ
いて、一度に取り壊すのだろう、重機が何台か置いてある。ここにも昔友達が
居たなぁ。そう言えばあの頃から古かった。震災によく耐えたな。この向こう
にあった裏山には高層住宅が。かつての私たちの遊び場だった。畑も肥溜めも
あり、ちょっとした田舎を味わえたけどもちろん跡形もない。すっかり都会の
景色になっている。
 団地の跡地はどうなるんだろうな。少しずつ様変わりしていく街。整ってい
く街。それはそれで悪くはない。でも、ちょっと寂しい、物悲しい。
 思えばこの街が大きく様変わりするきっかけになったのはあの大震災。壊滅
と言う言葉が何も大げさでないと、当時も今も思う。今日通ったこの道だって、
自分の職場である学校から職務で兵庫県庁や神戸市役所に向かうときに交通機
関がなく歩いた道。当時は足元が悪いだけではなく、道そのもの・・・おそら
くは地盤そのものが歪んでいたのだろう、電柱があっちこっちに向かって立っ
ていた。後で、近くの地下鉄の駅の天井が崩落した、と知ったのだが。そして
崩れかかった家の軒をくぐって歩いた。壁が完全に落ちてしまった家は、まる
でドリフのコントのセットのように丸見えどころか人が抜け出したそのままの
ベッドが生々しかった・・・このおうちの人はどうなったのだろう?恐怖より
もそんなことを思いながら、傾いた家屋の下を通るしかなかった。それさえも
震災の直後ではなく1ヶ月近く経った後だったように思う。・・・とにかく夢
中だった。移動手段は少なく、バスはまさに戦時中のように乗れるだけ人が乗
り、あふれた人はまさにぶら下がってさえいた。私自身の自宅は電気こそ当日
に復旧したが、水道は2月下旬まで、ガスの復旧に至ってはさらに1ヶ月遅れ。
友人や同僚に度々お洗濯とお風呂のお世話になった。当時小学校2年だった長
男と保育所の年長だった二男を連れ、勤務先の養護学校に出勤したこともあっ
た。いつもは無愛想な同僚までもが親切にしてくれ、人の心の温かさを思った
ものだ。
 そんなことを考えながら歩いていくと、馴染みの病院が見えてきた。この病
院は母と妹が生き埋めになりながらも生還して運ばれた病院。そして近所の幼
馴染とその小さな息子の亡き骸を収容して貰った病院。当日、母と妹が病院に
運ばれたのを確認した上で自宅に戻り、際どいところで炊き上がっていたわず
か2合のご飯を小さなおにぎりにして(自分の家には他に食料があったので)、
みかんとお茶と共に深く考えずに病院に向かうために持っていった。そして家
族たちが収容されている病院に入ると・・・見慣れた風景はどこにもなく、野
戦病院と言うのはこう言うところか、、、と落ち着いた頃に思った。医療に必
要な物品も薬品も、・・・人手も全てが足りないのはひと目で解った。取り敢
えずの止血をして貰ってはいるものの血のにじんだ包帯のままの女性、声も出
ないで横たわる老人、虚脱状態の人、人、人。自分の持ってきたリュックの中
身を思い出すまでに、少し時間がかかった。
 我に帰り、お茶とみかんとおにぎりを出してみた。食べられる人が手に取り、
飲める人だけがお茶を口にした。「ありがとう」「そう言えば夕べから何も食
べてへんかった・・・」中には私に涙ぐんで手を合わせる人も。
 本当にその時は何も考えていなかった。誰かにあげようとか、役に立とうと
か・・・全く頭にはなかったのだが、結果として、少しは役に立ったのかもし
れない。とにかく最近まで、このことは全く忘れていた。
 時折街を歩く。そう、今は自分の健康のために。11年前も私は歩いていた。
同僚はたまたまお給料日と重なったため振込みになっていない職員のお金を持
ち、何キロも歩いたそうだ。またある同僚はかつての職場に救援に行き、そこ
で変わり果てた教え子と対面した・・・。家はおろか家族を亡くした職員もい
た。そんな中、それでも何か出来ることを探し、出勤したり避難所となってい
る他の学校での宿直をした職員もいた。
 
 あの時の神戸は美しかったな。瓦礫の山だったけど。ブルーシートで覆われ
た家ばかりだったけど。信号が止まっても事故一つなかった。どの店でも売り
切れて手に入らないティッシュは初めて行った薬局の主人が「子供がいては困
るだろう」と自前のありったけのポケットティッシュを持たせてくれた。お茶
屋さんでは、「これしかないが持って行ってくれ」とコーヒーなどを渡してく
れた。井戸があるおうちでは洗濯機を表に出し、「ご自由に」の張り紙を貼っ
ていた。普段はあまり人から好かれないであろう人たちの炊き出しには、彼ら
の真心、と言うだしがよく効いていた。彼らのテントはいつも賑わっており、
一番のリーダーが直々に通行人に呼びかけているのだった。私も実は声をかけ
て貰ったが、仕事の途中だったこともあり、丁重にお断りさせていただいたの
だけど。
 誰だって、どんな人だって、人に喜んで貰えるのは幸せに違いない。
 人の心が、本当に輝いていた。
 大好きな、この街を歩くといつも思う。あの時、ここで起きた全てが現実な
ら、あの輝きは全ての人に宿っているものなんだと。
 もう、決して若くはない。あの、震災の時のような体力はもちろんない。む
しろちょっとした爆弾を抱えている気分もある。でも、だからこそ自分の想い
に誠実でいたい、と思う。
 私の身体の中を、街の中を、時間が通り過ぎていく。確実に変化は起こり、
一見して不変なものは何もない。諸行無常とはよく言ったものだと思う。でも
私の中を流れる本質に変わりはなく、同じようにどの人の心の中にもある「輝
き」を感じることができたのははからずしも自分の少々不自由な身体であった
り、震災後の街であったりする、と考えたりもする。それでいて、時にはそん
なことを忘れているような自分もいて・・・恥ずかしくなったりする。
 変えようのない現実に、人は時には向き合わざるを得ない。それでも、いつ
かは日が昇るように思えるとしたら、それは成長の証だと思っても良いのだろ
う。
 全てのことに偶然はなく、意味があるのだとしたら、辛かったり厳しかった
りする現実を後で振り返ると「財産」のように感じることができるのかもしれ
ない。
 そんなふうに思える自分を楽しみに、自分らしくいたいと思う。1日1日を
大切にしながら。
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