信頼の心理学(2)~信頼と期待、加害者と被害者~

「期待は裏切られる」という格言があります。

期待の状態だと仮に裏切られることで傷つきます。しかし、「信頼」は裏切られても傷つくことはありません。もっと言えば裏切り自体が存在しえなくなります。

また、私たちの依存心は期待だけでなく、被害者の立場を作り出します。そうして、相手を加害者とすることで有利に物事を運ぼうとするのです。しかし、そこでは殺風景な世界が広がるだけ。そこで、心の成熟性、そして、無害者という選択が求められるのです。

自立から相互依存へのプロセスで大切なパワーを与えてくれる「信頼」。しかし、依存的なマインドがある状態でのそれは「期待」となってしまい、私たちの心を圧迫してしまいます。
まずは、その信頼と期待の違いについて、考えて行きましょう。

○信頼と期待

信頼とは、許し、手放し、与えるなどと並ぶ「愛」の表現の一つです。

例えば、浮気をした彼をもう一度信頼する、という例を取り上げてみましょう。
(これは、ギャンブルや借金、転職を繰り返すなどのパートナーの性質に共通するテーマであると同時に、ビジネスにおいては「信頼していた取引先から急に契約を切られた」等々、様々なケースも考えられますし、人間関係のあらゆる問題に通じると言ってもいいと思います。)

さて、「浮気」というテーマで数多くのカウンセリングをさせて頂き、浮気が解消した後での信頼関係の再構築がお互いにとてもエネルギーを要するものであることを感じてきました。

しかし、その困難を越えて再び信頼しあえるようになると、それまでとは格段に違うレベルでつながりや絆を感じ、お互いを信じ、愛し合う関係が生まれます。
そういう実例を目の当たりにすると、浮気問題はお互いの絆をさらに深め、人間的に大きく成長させてくれる機会だと思えてしまうくらいです。

さて、信頼関係を再構築するプロセスを信頼と期待に沿って見て行きましょう。
夫とやり直し、もう一度信頼関係を築きたいと奥さんのケースに例えます。

期待というのは「もう一度やり直したい」「お願いだからもう心を乱すのはやめて」「彼じゃなきゃダメ」といった内なる“依存心”が作り出す幻想のことで、それ故、「期待は裏切られるもの」という格言が存在します。

例えば、

『夫は痛い目に会って十分反省してくれてるはず。だから、きっともうこんなことは繰り返さないはずだ。』

これは「期待」です。

意訳すれば、

『彼はきっと私がこんなに傷ついたことを知ってくれているはずだし、自分も傷ついて痛い思いをしたから、十分反省してくれてると思う。だから、もう私を傷つけるようなことはしないと思うし、して欲しくない。」

という意味になっています。「期待」とはそのベースが「自分の痛み」であり、「自分の欲求」であるので、それは「愛」とは程遠いものになっています。
いわば、「私が痛いからやめて欲しい」という欲求の押し付けになるんですね。
なので、こうした期待はやがては“裏切られ”、再び深く傷ついてしまうことも少なくないのです。

なお、自分の思いが期待なのかどうかをチェックするには、「~のはず」「~してくれる」という期待や受身的な表現を使っているか、思っているかどうか、ということから分かります。
あるいは、時には「~に違いない」という断定的な表現も、「そうあって欲しい」という強い願望から生まれるものもあり、これは期待(依存)の表現となってしまいます。

一方、「信頼」とは、彼の長所・価値・才能からの見ることです。
自分の痛み、エゴから・・・ではなく、彼の長所を通して見ることを信頼と言うのです。

『彼も一人前の大人で自分でしたことの責任はきちんと理解できる人。だから、そんな彼が浮気をするとしたら、それ相応の理由があったはずで、だから、今、彼もまた傷ついているに違いない。そして、彼は今回のできごとから学び、成長し、再び過ちを繰り返さないようにするだろうし、そういう彼と私は信じている』

という感じです。

・・・分かります?難しいですよね。
言葉尻だけ取ってしまうと、これも期待の表現じゃないか?と言われそうなのですが、まさにその通り(苦笑)

ただ、彼が大人であること、彼の行動(浮気)に理解を示していること、彼の心に配慮していること、彼の成長や学びを信頼していることなどがポイントです。
ここには痛みもあるだろうに、自分のことはあまり触れていません。
自分の痛みは自分のものとして受け止め、彼のせいにしていないことが大事なポイントです。(これは次の「加害者・被害者」のお話につながります。)

もちろん、「盲目的」に彼の長所を見るのではなく、大人の目線で見ることが大事です。
上のように思えばいい、というわけでなく、彼の大人な部分を知っていて、彼が感じているだろう痛みなどに共感し、この現実を受け止めていることが大切です。

もちろん、その信頼が誤りであることもあります。いや、むしろ、私達は完璧な人間などいないわけですから、常に誤りのリスクは存在します。
でも、誤りだとしたら、今度はあなたがまた学ぶものことができます。

すなわち、「きちんと見ているつもりだったけれど、まだまだ自分は未熟で成長の余地があるようだ・・・。」と思えば十分です。

ここまでのお話で、信頼のためには、自身の成長、成熟さが必要なことにお気づきになったかと思います。

期待を手放して、彼を信頼する・・・それはすなわち、依存から自立へと成長し、さらに相互依存レベルへと達する、という“自己成長プロセス”なのです。

しかし、この期待を手放す際に問題となるもの、信頼を妨げるものが“被害者”と“加害者”のマインドなのです。
これを次にお話したいと思います。

○被害者と加害者

例えば「夫が浮気した」「一方的に契約を切られた」「理不尽な人事評価をされている」「仕事を言い訳にして向き合ってくれない」などのように、私達はつい“被害者”のテーブルに付きがちです。
そして、自分の正当性を主張して、相手を責めてしまいます。(そして、相手を責めた瞬間から、あなたは加害者に、相手は被害者になってしまうのです。)

しかし、確かにあなたが言うことは正しいかもしれませんが、それで幸せや喜びが手に入るかどうかというと・・・むしろ、逆なのではないでしょうか。

あなたが被害者になれば、相手は加害者になります。
あなたか、あるいは、相手のどちらかがそこにしがみ付いてしまうとすれば、そこで対等な話し合いはできません。

これは交通事故の加害者と被害者が二人で話し合い、示談にこぎつけるのがすごく難しいのと似ています。(だから、間に保険屋さんや警察、裁判所などが入ってくれて、和解していくのです。)

そして、何よりも恐ろしいのは、被害者と加害者は常に役割を交代し続けるのです。
すなわち、「浮気をして私は傷ついた」という被害者は、即座に「私を傷つけたあなたは悪者だ」と加害者に転じるのです。

これではいつまで経っても和解をすることは難しいでしょう。

そこで、加害者や被害者という役割を手放し、いわば“無害者”を選択することこそが、成熟性と言えるでしょう。

被害者というのは受身であり、依存の立場を取ります。相手に何とか傷ついた心を癒してもらおうという態度です。
一方、加害者は自立の立場であり、罪悪感から自身の正当性を主張します。(よく加害者が「私は悪くない、悪いのはむしろお前だ」という立場を取るのは、この理由によります。)

そして、無害者は、お互いの非を認め、お互いの未熟さを受け入れ、そして、ともに成長していく機会とするために、加害者・被害者の立場を手放した、相互依存的な態度を取ります。

いわば「罪を憎んで人を憎まず」を実践していきます。

そこでは、あなたを傷つけた相手の痛みを見て、感じ、分かち合うことができますし、あなたが傷つけた相手の中に、その強さや価値や光を見ることができます。

それはもちろん、自分自身に対しても、この傷の意味を知り、成長機会が与えられたことを“素直に”喜ぶことができますし、また、誰かを傷つけてしまった自分の幼さに謝罪の気持ちを持ちつつも、罪悪感から誤った自己攻撃を繰り返すのではなく、“謙虚な”態度で日常を送ろうとするでしょう。

このバランスはとても難しいです。でも、誰も傷つくことのない、平和な世界がここに実現されるのです。

そこでは自分自身の成長に意識を向ければいいことになります。
心理学にはこんな恐ろしい格言もあります。

「自分を信頼している分だけ、誰かを信頼できる。」

自分を信頼、すなわち、“自信”を持つことが、誰かを信頼する鍵になるのです。

だから、あなたの意識を、自分自身に向ければいいのです。
そこで、次回からは「自己成長」に関してのお話をさせて頂きたいと思います。

>>『信頼の心理学(3)~自己成長と自信~』につづく

この記事を書いたカウンセラー

About Author

退会しました。