●ドールハウス〜〜完成品とプロセスを思う〜〜

 私は歩くのが好きで、特に目的も持たず、ふらふらと歩いていることがある。子供の頃痛めた脚を庇うと言うよりむしろ鍛える必要もあり、本当は1日に1時間やそこらは歩く時間を持ちたい。もちろん、体重の増加予防もちょっと念頭にある。いや、本当に、身体の負担がかかる脚に損傷があるものだから、普通に考えると躯体の歪みも心配だし・・・。なんて私が考えているはずもない。歩きたいから歩いている、ただそれだけ。なので時間もコースも実にまちまちである。主に自宅の近辺だが、我が家の近くは高低差のあるところが多く、意識して歩くとかなり良い鍛錬になると思う。しかも、坂を上り詰めるとご褒美のように視界が広がっている。時間によって見せてくれる景色は趣が全く違い、全然違う街のようにも感じられる。
 そんなことを思い、時には意気揚々と、時には(体力のない自分を情けなく思いながら)とぼとぼとした足取りで、そして必ずきょろきょろして私は歩いている。
 この近辺は人生のほとんどの時期を過ごした所で、子供の頃に読んだ小説の「日向が丘」はあそこじゃないか、と思っていたのは実は山の中腹のお寺だったり、昔住んでいたおうちの前の坂を下りながらお母さんやおばあちゃんと歌った「夕焼け小やけで日がくれて♪」に合わせるようにお寺の鐘が聞こえたり、カラスが飛んだり、街は茜色に染まっていたように思っていたけど、こんなに普通だったんだなあ、と思いながら、あの頃の自分の感覚をうらやましく思ってさえいる時もある。
 見慣れた街も、特に震災後がらっと趣が変わってしまって、しゃれた人口の小川に模した防火用水路ができていたり、狭かった路地がセットバックで下がりゆとりができていたり・・・でも子供の姿は少ないな、と思ったり。取りとめもなく頭の中によぎるものは、思考とも感覚ともつかない、感情もほとんど伴わない不思議なものだ。その状態でただきょろきょろしながら歩いていると、ただ目に入ってくるものが色々ある。先日もふと目に止まったものがあった。
 
 住宅街の一角に、ショーケースのあるお家がある。何かのお店かな、といつも余り気に止めずにいたのだが、この日は飾ってあるものに眼が吸い寄せられた。そこにあったのは数種類の精巧なドールハウスだった。道路に向けて並べてあって、昔見たアニメの・・・ハイジがフランクフルトに行った時の町並み、と言えば分かる方には分かるだろう。あんな風に整えて並べてある。良いもんだなあ・・・と思った。小さな家(実は祠だったりする・・・)には小人が住んでいると思っていたり、蔦が絡まる壁のお家の中を色々想像していた子供時代の私が、ひょっこり現れた気がした。
 あんなのを作ってみたいなあ。そして並べて、灯もともしたい。どんな人が住んでいるお家にしよう・・・。街灯も置いて、家に合う車もそれぞれのお家に置いて・・・。元々私は子供の頃から見ている絵の中で遊んでいたり、読んでいる本やピアノの練習曲から自分の中にイメージを創って楽しむ、と言う傾向の強い子供で、今思うと短くはなかったであろう幼い頃の入院生活を自分で潤していたんだと思うが、一瞬でその頃の感覚に入ってしまった。ところが、である。
    あれは作るの相当大変やで。
    大体どの部屋で作るん?
    費用も相当かかるな、あれは。
    きっと挫折するな、うん。
 作りたい、と言うのとこれらの声のどちらがエゴの声なのか、私には区別がつかない。まあ、実際に凝り性の私がこんなものに手を出したが最後、ガンダムマニアの同僚のことは笑えなくなるに決まっている。下手をすると生活に支障が出るに違いない。高校時代、受験勉強はおろか食事さえ忘れ1日に山ほどの本を読んでいた私である。誰も止めることはできまい・・・。
 そんなことがドールハウスを見たときにほとんど同時に頭の中に入ってきた。・・・一番感じたのは、自分の中と外、つまり実際に流れている時の流れの違いのようなものだろうか。いつの間にこんな風になったんだろう・・・。ここがただ感じることと思索との境にこの日はなった。
 まず、あのドールハウス。出来上がったものは美しいと思う。作ってみたいとか手に入れたい、と思ったりする。でも、今の私はドールハウスを仕上げるまでのプロセスを一瞬で想像し(想像力にはこんな使い方もあるのだ、と思う)、そして断念に至るまでわずか数秒。そして、もし手に入れるなら作るより買う、と言う手もあるな、誰かに作って貰うとか、などと考える。そして、何にせよ子供の頃や思春期の頃、欲しくても手が出せなかったもの、できなかったことを成長してから手に入れていることを思ってみた。時と場合によっては、手にしたとたんあの「魅惑的」なエネルギーが消え去りただの物と化することもある。簡単に手に入れた物はそう言うことが多かった気がする。昔から音楽好きな私は相当数の音楽ソフトを持っているが、自分で働いたお金で買えるようになったもののうちで手放すこともなく増え続けている数少ないものだ。他の物は、誰かにあげたり、傷んでしまったり、引越しの際に捨てたり・・・と増え続けることはあまりない。でも音楽だけは違うな。
 若い頃に流行っていたものが今になると付加価値がついていたりする。特にLPレコードなどは(分かります?)私は聴く事が目的で買っていたが、友人は帯封もつけたままにして中古ショップに高値で引き取ってもらったりしていた。そしてそれをいわゆるマニアがまた購入して行く。私にはその心理が今もって解らないのだ。
 どこかで出来合いの物、と言う気がするからである。あのドールハウスにしてもそうだ。一番の価値を見ているのはおそらく製作者自身だろう。でもあれを作りたい、より、手に入れたい、と思う人が既製品として手に入れる。あるいはアンティークの物。代々大切にしていたものをアンティークと言われたくない、と言う気持ちが私には解る気がする。そこには大切な想い出や、景色や、そう、小さな傷痕にさえも色んな想いがこもっているから値段などつけられないに違いない。
 物に限らず、同じ様に感じることがある。たとえば大切にしてきた仕事や作品。アイデア。人間関係。製品として店に並んでいるものにはきっとたくさんの思いが込められているに違いない。これは他の形になるようなならないようなものでも同じだろう。こつこつと想いをこめて作り上げてきたものが日の目を見るのは確かに嬉しいことだと思う。でも、どこかに「ショートカット」されたような寂しさを私は感じたりもする。みんなが同じ様に使えたり見ることができたり、それは素晴らしいことだと思う。でも、そんな中に、人が込めてきた想いをいつまでも感じられるような感性を忘れないで生き続けたいと私は自分自身に願っている。
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