●Mourning〜「喪」のしごと〜

親類が亡くなった時のことを思い出してました。
親類、と言っても義理の妹つまり弟の奥さんのお父さんです。
もちろん私とは血の繋がりはありませんし、生前に何度もお会いしたということでもありません。そうですね、一番印象にあるのは、震災の後、結構被害のひどい地域に住んでいた私たちに、あの時は何よりもありがたかった洗濯機とお風呂をお世話になったことでしょうか。何と言ってもライフラインのうち電気しかまともになかったんです、2ヶ月あまり。給水車がくる時間には家に戻っていなし、まさに「もらい水」の生活でしたから、震災前にはあたりまえだったすべてを全く失くした状態でした。
いえ、私たちは住む場所があったので、良い方でしたね。そんな時のことですから、ほとんど行き来のない弟嫁のご実家に呼んでいただいたときは、本当に嬉しかったんです。
特に、お風呂には週に一回入れれば良い方でしたから。後で聞いた話によると、いろんな方に「お風呂を振舞っていた」ようです。
寡黙で、とくにお愛想を言うのでもなく、ただそこに座っているだけ。おそらくいろんな親戚や知人のお世話をしたことでしょうね。でも、そういった気負いもなく、ただ本当にいてくれるだけでした。
式場の遺影は8年前のその当時の面影のままで、みんなが口々に震災当時のことを中心に話していました。
ああいった危機的状況こそが人の真実が見えるときですよね。心からそう思いました。
 
さて、セレモニーは進み、親族の移動です。
全員が乗れるマイクロバスに乗り、斎場へ向かいます、それぞれの胸に思いを抱いて。私の住む神戸には市営の斎場が4ヶ所あり、どこも、少し土地にもゆとりのある山の近くです。
自然の中を、親族を乗せた車は走ります。
近代的な建物はそこだけ見ると何の目的の建物なのか、きっとわかりづらいのではないでしょうか。その時に私たちが行った所もやはりそうで、すっきりしたロビーがあり、大きなガラスの向こう側にはちょっとした庭園があります。
そう、まるで、ホテルのようなんです。
 
家族に一人ずつが別れを告げる儀式を行い、(おそらく、宗派によって異なると思われます)一旦戻ります。
そして、休憩を取ったあとまた、斎場に戻って今度は本当に最期のお別れをするんです。
個室の状態になっているので、本当に「遠慮なく」別れを惜しみます。
この場面を経験した方はみんな同じ思いなのかも知れないのですが、さすがにあきらめがつきます、とても変な表現ですが。「体がある間」は、もしかしたら息を吹き返すのではないか、と思ったり、何か期待をしているのかもしれません。でも、ここに至ると、ああ本当に死んじゃったんだなって思います。
そして、手順どおりに「喪の儀式」が進められていきます。
すべてが終わり、退室するときに義妹が、「お父さん」に向かって右手をあげました。
「じゃっ!」そんな風につぶやいていたかもしれません。気丈な彼女らしく思えました。
でも彼女の寂しさを本当に感じた瞬間でもありました。
 
遺族は、実はこの後が大変です。
この世に存在していたことを法律に従って「処理」しなければいけないからです。
遺された家族のこともあります。
本当に、休んでいる暇も泣いている暇もない感じです。
でもそうして、生きていた証を実際に感じる時間でもまたあるのです。
身内や知人の葬儀に何度となく参列をしました。
年代や地域、宗教などの違いはあるのですが、大きく根底に通っているものに気づいた気がします。
それは、故人が生きてきた時間の重さであったり、人とのつながりであったり、そして愛してきた人や物事だったり。限りのある命だからこそ、培って来れたのかもしれない、いろんなこと。遺された者にとっては悲しみを超える何かが必要かもしれない。それは思い出だったり形見の品だったり、さらには自分が生きていること自体がそうだったりするかもしれません。
喪のしごと。人が亡くなったときだけではないんですよね。大切なものを失くした時。失恋したとき。本当に自分の手の中に無い事に気づくのは辛いことです。
気づいていても、有ったときのままでありたい、と思いますよね。そしてあたかもその「手の中に今は無い物」があるかのように感じているようなふるまいをしたりしてしまうことがあります。
時に例えに出される、「ミイラになってしまった赤ちゃんを抱いている母親」の状態です。
サル山でも見られるらしいのですが、死んでしまった我が子をミイラになっても抱きつづける母親がいます。
医療の未発達な時代や地域にもあると言います。
私たちの生活している社会ではあまり考えられないことですが、子供の死が受け入れられないんです。
でも、「死んでしまった子供」を心の中に抱きつづけるようなことは、少なくないんじゃないかな。
実際には人そのものだけでなく状態や物、ことがらが今はもう遠いのにいつまでも手放せない感じがするようなこと、感じたことがない人のほうがきっと少ないのでは。そのこと(人・状態)の「死」を受け入れるには、こう言った喪のしごとが時として必要になるかもしれません。そして、「死」を受け入れてこそ、次の幸せが自分の元にやってくることを本当に受け入れられるのかもしれません。
赤ちゃんのミイラを弔った母親には新しい子供がやってくるでしょう。
死んでしまった親の代わりは来ないかもしれないけれど、大人である自分を受け入れた時、一緒にいてくれたことを感じられたりする。
悲しいけれど、古い恋の残骸を心から受け入れてそして、あたかも海や宇宙に放つように手放せた時、真実のパートナーがやってくるのかも知れません。
悲しみにくれているとき、自分だけしか見えなくなってはいないでしょうか。痛みを抱えながらもあなたにできる事は確実に増えているかもしれません。逢えなくなった人への思慕を切り捨ててしまうのとはまったく違います。
その人の生きざまを想うとき、初めて本当に近く感じることができるのかもしれません。
大切な人の遺してくれたものを抱きしめながら、また前を向いていくことが一番の「喪のしごと」になるのかもしれません。
中村ともみ

この記事を書いたカウンセラー

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