私たちが生きていると、本当に色々な出来事が自分の身に降りかかってきます。
失恋
パートナーの浮気
病気になる
持っていた株が倒産で紙切れ同然になる
泥棒に入られる
私の過去をざっとこのコラムを書きながら思い返してみると、色々なことがあったなぁ、、と、心に次々と思い浮かんできます。
このコラムを読んで下さっているあなたも、色々な出来事を経験されてきたことだと思います。
私はある体験をしてから、「今起こっている出来事からメッセージを受け取って、人生の流れを読むこと」に意識を向けるようになり、結果、人生の流れに乗れるようになって、「うまくいっているな」と思う出来事が本当に増えました。
この体験から、どう人生の流れに乗ったら良いのか、私なりの見解をお伝えしますので、ぜひ最後まで読んで頂けると嬉しいです。
◯やっと始めた仕事ができなくなった日
私は27歳から42歳まで、ずっと海外駐在妻として海外4カ国を渡り歩く生活をしていました。
駐在に出るまでの私は、仕事をすることが大好きでした。
その理由はやりがいもありましたし、何より社会と繋がっていると実感ができ、世の中の役に立っているような気持ちになっていたからです。
当時は海外の場合、今のようにネットで仕事ができるような時代ではなく、就労ビザをとって実際に現地の会社に出向いて仕事をするような時代でした。
ところが色々な事情で、多くの日系企業では駐在妻の就労は認めていませんでした。
なので、私はずっとやりたい仕事ができなくて、生きている自分の価値も感じられずに15年に渡る海外生活を送っていました。
ですからやっと帰国できた時には、「仕事するぞー!」と意気揚々としていました。
帰国後2年間、カウンセラーになるための勉強をし、カウンセラーとして44歳から仕事を始めました。
ところが。
仕事を始めてたった3ヶ月後に夫にアメリカ駐在の話がやってきました。
当時中3だった長男はアメリカに行きたいと主張し、私は渋々アメリカについていくことになりました。
15年、仕事をしたくてもできない環境を乗り越えて、やっと手にした仕事だったのに、、。
たった3ヶ月で手放さないといけない現実に直面しました。(結果的にはスカイプで細々と電話カウンセリングは続けられました)
その時、「なんで自分の人生はいつもうまくいかないんだろう?」と思ったことを強烈に覚えています。
また何年も日本に戻れないのではないか。
また仕事のできない、やりがいの感じられない日々をすごさなきゃならないのか。
アメリカでの息子の入学のタイミングやビザ発給の手続きなどでその日から1年後に、重たい気持ちを抱えて、渡米しました。
◯次男の心臓の病気が発病
渡米して3ヶ月後。
やっと近所のスーパーの食材はこんなものが揃うんだな、程度に生活が慣れてきたその頃。
突然次男の心臓頻脈発作が起こりました。
日本だったら小児科に行くなり、心臓専門病院に行って、必要ならば紹介状を書いてもらって大きな大学病院に行けばいい、と手順がわかりますが、渡米間もないアメリカの医療システムのことなんぞ、皆目わかりません。
さらに何度も頻脈発作が起こり、「急に心臓が止まってしまったらどうしよう」という恐怖心でいっぱいで、でもどうしたらいいのかわからず、右往左往していました。
なんでこんな病気になっちゃったんだ!しかもこんな訳わからない異国の地で!!
「なんで自分の人生はいつもうまくいかないんだ?」と、またそんな気持ちでいっぱいになりました。
その時、ちょうど知り合いになったばかりの、ある一人の日本人の方のご主人がお医者さんだったことを思い出しました。
その人にLINEすると、「夫に聞いてみるね」と返事が。
その日の夕方「この女医さん、日本人で小児循環器のドクターなの。同じマイアミにいる人だから早速電話してみて」と電話番号を教えてくれました。
マイアミは日本人がニューヨークやロサンゼルスのように多くはない地域なのにもかかわらず、なんと日本人の小児循環器の先生がいらっしゃるとは!!
その先生のお陰で、日本語でこの病気の詳細を知ることができ、薬を飲み続けるよりもカテーテルアブレーションというカテーテルによる手術を勧めること、そしてその分野で敏腕なドクターを紹介してもらえることになりました。
そして無事、手術は成功しました。その手術の1年後の健診で、「もう大丈夫。完治はお墨付きです」と言って頂いたその日の夜。
夫の口から「日本への帰国が決まった」と伝えられたのです。
◯次男の進学
私たちは今まで、1国の駐在期間は大体5年から7年でした。
なので当時小5の次男は、高校はアメリカの高校に行くだろう。
そんな展望をもっていたので、次男にはあまり日本語の勉強をさせていませんでした。
というよりアメリカの現地校での勉強で一杯一杯だったのです。
日本の公立の中学では確実に次男は浮いてしまう。どうしよう?
中学受験を考えましたが、2月の中旬の当時は丁度受験は終わったばかりで、どこにももう入れない状況でした。
「なんでこのタイミングなのよ!!やっぱり私の人生はうまくいかない!次男の人生がめちゃくちゃだよ!」
そんな気持ちでいっぱいになりました。
毎日毎日ネットでどこか編入できる学校はないかと探していた数ヶ月後。
アメリカの学年末である6月が近づいてきた頃、ある学校の「編入試験募集」を知ることになりました。
ここは日本語と英語の両方で授業をしてくれる、珍しい学校でした。
編入試験ですので、合格者は人数は1人か2人。
ものすごく狭き門でしたが、他に手はありません。
この学校を受験することにしました。
そこからこの学校に特化した受験指導をしてくれる先生を探し回り、どうにか見つける事ができました。
結果、次男は合格を手にし、この学校で5年半ほどを過ごし、素敵な友人たちと沢山の体験をすることができました。
この学校は半分が日本の大学に、半分が海外の大学に進学します。
海外の大学は外国人には学費がかなりの高額ですので、我が家は当初、日本の大学を考えていました。
ですが、シンガポールの大学は、卒業後シンガポールにある企業に3年勤めることを条件になんと1年分の学費をシンガポール政府が負担してくれることを次男が知ることに。
それでしたら、なんとか家中のお金をかき集めて、行かせることができそうでした。
子供時代に海外生活の長かった次男は、元々外資系企業で働きたいと思っていたので、3年間シンガポールで仕事ができるというのは、願ったり叶ったりの条件でした。
そんな訳で、今次男はシンガポールで生活をしています。
◯人生の流れに乗るには
仕事を始めた途端、転勤話がやってきた時は、「なんでなのよ!」と悲しい気持ちになりました。
でも結果としてアメリカは小児循環器医療の最先端技術を誇る国。
おまけに駐在員は福利厚生として会社が現地の医療保険を賄ってくれていたので、私達は一円も払うことなく、この手術を受けることができました。
病気が完治した途端、日本での中学受験が終わったタイミングで日本への帰国辞令が出た時も、「なんでなのよ!」と悲しい気持ちになりました。
でも、編入試験だったからこそ、次男の入った学校を知ることになりましたし、1校しか受けられない、という切羽詰まった状況だったからこそ、この受験校に特化した勉強をさせることができました。
今思い返して思うのは、プロセスは完璧だな、ということ。
でも当時は、「なんでなのよ!」と悲しい気持ちを感じていたので、プロセスなんて信じられませんでした。
でもこの体験を通して、プロセスを信頼できるようになりました。
この体験中、私がやってきたことは、ただ現実を受け入れて、一生懸命できることをしたということです。
この体験をしてから、私は「きっとこれにも何か意味があるんだ。未来の何かに繋がるんだ。」と起こる出来事を受け入れるようにし、とにかく目の前のことに一生懸命取り組むことにしています。
これが結果、人生の流れに乗ることに繋がってきました。
何か特別なことをしている訳ではありません。
ただ現実を受け入れて、目の前のことに取り組むこと、それだけなのです。
このお話が、誰かのお役に立てますように。