健気に咲く小さな花

この間、雑草が庭いっぱいに広がったので、ひとり静かに草むしりをしました。
とても気持ちのいい天気で、背中にお日様を感じながら、このあたたかさ知っている、ずっと昔から知っているなぁ、気持ちがいいなぁ、大好きだなぁ、そう思って草むしりをしているうちに、気づくと涙が溢れていました。

私は子どものころから、雑草を可愛らしく思っています。
今でも、この季節は小さな小さな花を眺めながら、何とも言えない穏やかな気分を楽しんだりしています。
私にとっては春を喜ぶ大切な時間でもあって、ついこの間まで庭の雑草の成長していく様を愛でていました。

私が雑草の花を好きなのには、やさしい母を感じるからなのだと思っています。
母は私にたくさんの草花の名前を教えてくれました。
現在母は、認知症になって色んな事を忘れてしまいました。だからお日様と雑草が昔の母を思い出させて、自然と涙となったのだろうと思いました。

母は、すらっと背が高く、派手な顔立ちでおしゃれだったので、どこに行っても目立つ人でした。私は子どもの時から「お母さんきれいだね」と色んな人に言われてきました。
母を花で例えるならバラやユリ、そういう華やかな雰囲気を持った人でした。
父にそっくりだった私は、そんな女らしい美しさを持った母に似ていたらよかったのにと何度も何度も思ったものでした。
でも母は、花屋で売っている大輪の豪華な花よりも、そこら辺に咲いている名もないような小さな花を好むようなところがありました。

私は、母のそういうところが大好きでした。
一緒に外を歩いていると、「見て見て、こんなところに可愛い花が咲いている」とはしゃぐように言いました。
満開に咲いたソメイヨシノにみんなが注目する季節になると、ほんの少し遅れて咲く、お花見に選ばれない桜を見ては「山桜もすごく可愛らしいわよね」とか「八重桜の方が好き」なんて言ったりもしました。
他にも、どんぐりや松ぼっくり、色んな形や色の葉っぱを見ても、嬉しそうに「かわいい」と言いました。
私は、そんな風に母が喜ぶのが嬉しくて、そこら辺の名もない草花や木の実や葉っぱを家に持って帰るなんてことをよくしました。

今思うと、母を喜ばせたいだけではなかったのかもしれません。
私は父に似ていただけではなく、地味で大人しく、華やかさとは無縁の目立たない子でした。
だから母が、素朴な草花に喜ぶ姿に、まるで自分が褒められたような、愛されているような気持ちになったのではないかなと思います。
それとも自分が、華やかで豪華な大輪の花よりも、道端に控えめに咲いている小さな小さな花でいる方が、母に愛されると思ったのかもしれません。
だとしたら、健気に母を愛そう、愛されようとした子どもの私は、一生懸命小さな花を咲かせる雑草のようだなと微笑ましくも感じます。

認知症になった母は、毎日デイサービスでお世話になっています。母の通うデイサービスでは、天候が許す限り、近くの公園にお散歩に行くのが日課だそうです。
母が、お日様のあたたかさと、可愛らしい小さな花に喜びや楽しさを感じてくれていたらいいなと思います。
母の心に、娘と小さな花を愛でたやさしい気持ちがいつまでも残っていたらいいなと思います。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

夫婦の危機を乗り越えた経験から 夫婦関係修復、男女関係の問題を得意とする。 また子育て、家族、自分自身の性格の相談も多い。 「声に癒される」「話していて元気になった」と声を頂いている 介護福祉士として、老いと死を受け入れていく人達、その家族の心のケアを行っている。夫、息子、娘と4人暮らし