満月

満ちる月、、、。
今日は、私の家の窓からはたまご色の満月がこちらにむかって輝いています。
天体というのは私にとってはとても不思議で、なぜに惑星が他の星の放つ光に
照らし出されて、夜空という暗闇に光明を与えてくれるのだろう、などと考え
たりします。
ふとしたきっかけで、幼い頃はあまり好きでなかったものでも、歳月を重ねて
いく上で奥深さが分かっていくものや、魅かれていくものってありますよね。


私にとっては‘月’はそのうちのひとつかもしれません。
あまり親からこうしなさい、ああしなさい、こう生きなさいと言われた記憶が
ほとんどないのですが、
学生から社会人になろうとするときに、父から言われた一言があります。
「お前はどっちかというと‘月’や。照らされたほうがいいんや。」
彼の真意はともかく、
その時の私の気分はあまりよろしいものでなく、少し否定されたような気がし
たことを覚えています。
私自身、当時お月様の印象が余りよくなかったうえに、私の思考の中では‘太
陽’という抽象的なイメージと勝手に比較していた、という状況があったよう
です。
数日をかけて満ち欠けをしていく奥ゆかしさだったり、
時間と場所によって、一晩のうちに大きさや輝きや色合いを変幻自在に変えてい
く姿だったり、
見る人を映し出す映写機のようにその姿を変え、
漆黒の背景でもっても輝く‘月’を神秘的で面白く感じている今、父からの言葉
はそれがどういう意味であっても悪くないか、と思ったりもします。
実際に、いまだに電燈などが少ない田んぼ道の続く実家近辺ではお月様のお陰で
夜道を歩くことが出来たりもしましたしね。
成長していく、歳月を重ねていくうえでのひとつの神様からのご褒美は、好きな
ものが増えていくことかもしれません。
ひとつの豊かさかもしれないですね。
幼い頃の価値基準は、生きていく中で随分と変化を重ねるものだなぁというのは昨今
の私の感想。
愛するものが増えたときに、その世界を知ろうとする力が私は好きです。
何が好きで何がキライなんだろう、
どういうときに悲しくなるんだろう、
何がしたいんだろう、
何が必要なんだろう、
何を美しいと思うんだろう
どこに向かいたいんだろう・・・
愛ってなんだろうって問いかけに「理解」と答える人が居ます。
だとしたら誰かに向き合ったときに相手の世界を理解できたら、それは‘愛’
なのかなと思います。
若い頃には、‘たくさん’何かを貰えたり、‘たくさん’の時間を共有したり、
‘たくさん’の言葉を並べたり‘たくさん’仕事をしたり、ただ‘量’を競う
ような生き方をしてきた私ですが、どうやら三十路を半分以上も過ぎた今それだ
けが豊かではないというということをやっと知ったように思います。
社会というものからもより速く、より多くを求められているように感じてきまし
た。
「社会に取り残されては生きてはいけない」
「置いてきぼりになってしまうのではないか」
生き方の動機が‘恐れ’であるときには発展し続けなくてはならない、成長し
続けなくてはならない、ほっておいたら悪くなるのではないか、その恐さから
こころから「休憩」するということもいっときもままならないまま動き続ける
、、、こういう生き方をしている人は以外と多いかもしれません。
発展していくことも、
成長することも
人よりも努力して勝つことも
よりよい事を追求していくことも
そのものはとても大切な事。
私は一介のカウンセラーで、学者でもなんでもないのですが、効率・・・とい
う面で見たときに、‘愛’や‘理解’は少し後回しにされがちな社会に少しだ
けアンチテーゼを唱えてみたいなと思うのです。
以前は毎日のように車を使っていて、高速道路を走ることもしばしばありまし
た。ある時には後ろから来た救急車に道を譲る、という場面にも出会います。
10年近く前になるかと思いますが、たいていの車たちは救急車のサイレンを
聞きながら、‘どんな人が乗っているのだろう’、‘間に合いますように’様
々なことを感じながら道を整然と譲っていきますよね。
そんな情景を見ながら、ふと「この世はもしかすると愛で出来ているのかな」
と思ったことが‘愛’や‘理解’を後回しにするような傾向に対してアンチテ
ーゼを持つようになったきっかけだったように思います。
ひとりで何でも出来る事、誰にも迷惑をかけぬ事。
これが唯一無二の目標であった頃を抜け、しっかりと自分というものを持ち、
更にその先に行く先というのを私たちはあまり知らないのかもしれません。
大人になろうとするときに、また成長していく過程で私たちは、どうしても
周囲の影響や自分自身が傷ついた経験から、こうしてはいけないとか遠慮しな
くては嫌われてしまう、などと自分個人のたくさんの規則を作っていくように
思います。
その先に誰か面倒を見たり、誰かに対して責任を持ったりする立場になったと
きに私たちは自分の‘規則’から理解できないものを遠ざけてしまったり嫌っ
てしまったり。
大人になった今は不要になっているかもしれない自分自身の‘規則’を緩める
よりも、対象を切ってしまうこともたくさんあるように思います。
だけど、これが本当に自分自身に豊かさをもたらすことになるのかな・・・と
はいつも感じます。自分個人の‘規則’で切ってしまうことは、対象をきって
しまうことでもあるけど自分自身をいつもきっているのと同じことなのではな
いかなと感じます。
理解できない・・・と感じるものの裏側にある背景や状況を理解しようとした
ときに初めて対象に対して、‘気付く’事ができて‘優しくする’、‘大切に
する’といった態度が生まれるのではないかな、といつも思います。
その時はじめて、自分の中にあるきってしまっているような部分にも何かを与
えてあげることが出来るのかもしれません。
こころから満足する・・・ということが出来るかもしれません。
簡単ではないかもしれないし、総てではないかもしれないけれど、自分と何か
を比べながら競争しながら生きていかねばならないという呪縛から解き放たれ
るのかもしれません。
自立すればするほど、恥ずかしくて表現できなくなる‘愛’や‘優しさ’につ
いて、今日の満月はまた少しだけ思い起こさせてくれたようです。その人それ
ぞれのやり方で恥ずかしさや昔の痛みの向こう側に居る、純粋な自分に栄養を
与えていけるようなそんな瞬間が自分にも周りにも増えるといいなと思います。
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