本当に与えたかったもの

私には、小学5年生の女の子と小学1年生の男の子の2人の子どもがいます。
私は親に育てられた経験はあるものの、親として子どもを育てるのはこの人生では初めてなもので、日々、試行錯誤の連続です。
私自身は、三人兄妹の一番上の長男で男は私一人だけでしたから、両親からは大きな期待を寄せられて育てられました。
両親の期待はどのようなものだったかといいますと、例えば、
  勉強して成績を上げて、公立なら地域の一番校へ。
  私立なら大学入試実績のいい有名校に入って、そして、大学は国公立へ。
  将来は医者とか弁護士とか国家公務員とか、社会的地位の高い人になりなさい。
  普通の会社に入るなら名前の通った大きな会社へ。
  語学、特に英語ができた方が何かといいから、会社のお金で留学させてもらうとか、海外勤務をさせてもらいなさい。
というような期待でした。
学歴や職業に限らず、似たような期待を子どもにかけている(または昔かけていた)親御さんは、世の中に結構いらっしゃるのではないでしょうか。
親は子供に対して大なり小なり何か期待をかけてしまうものだと思っています。
そういう方向に進むことが、子ども(私)にとっての幸せにつながる、幸せな人生を送ることができるに違いないと思って、そのような期待をかけているのでしょう。
私は聞き分けのある非常にもの分かりのよい子どもだったようで、ある時期までは親の期待に応えるような人生を歩んできたと思います。
もともとのんびり屋だったこともありますし、そうすることで親から可愛がられて、経済的には不自由のない生活を与えてもらえたからだったと思います。
けれども、親の期待通りの人生というのは、結局自分の人生を生きていないことになりますから、どこかに不自由さを感じていたんだと思うんですね。
就職して社会人になってからようやく、「自分は本当は何になりたいんだろう」とか、「どんな仕事がしたいんだろう」とか、そういうことをよく考えるようになりました。
今になって思い返すと、その思いが20年くらい経った今になって、カウンセラーという仕事をさせていただくことにつながったとも言えますから、人生に無駄なものはなかったんだなぁと思えてきます。
さて、今度は自分が親になってみて、小学生の子どもに対して日々言っていることは、やはり「躾(しつけ)」に関することが多いような気がします。
  ・名前を呼ばれたらちゃんと返事をするんやで
  ・ご飯は好き嫌いせずに残さず食べるんやで
  ・遊んだおもちゃとか読んだ本は片付けてや
みたいな基本的なことにはじまり、、
  ・トイレの便座をあげておしっこして~ (下の男の子は、便座を下ろしたまま小用を足すんです。
便座にしぶきが飛び散っちゃいますよね!)
  ・脱いでクルクルに丸まった汚れた靴下をテーブルの上に置かないで~ (上の女の子は、そういうことに無頓着なんです。

といったこともあります。
日々、何度も何度も同じことを繰り返して言っていますが、子どもたちは細かいことには一向に気にせず、好きなように生きてくれています。
挙げ句に「パパは細かいことを言うなぁ~」と逆に言われてしまう始末。
親の思いとしては、「こういうことはできるようになっておいた方が将来役に立つよ」とか、「そういうことをすると周りの人に迷惑をかけるんじゃないかな」と思っていろいろ口を挟んでしまうわけです。
でも、結局は自分で成功したり失敗したり、他人様から厳しいことも言われる中で、自分自身で納得して身につけていく部分が大きいのではないかなと思うようになってきました。
私自身は、父親と日常的に話したり接触していたりという記憶がそれほどありません。
小学校までは、休みの日に近所を犬の散歩に行ったり、家族で外食に行くぐらい。
父親は仕事人間でしたから、平日と土曜日はまず仕事、日曜日もよく出勤していましたっけ。
出勤時間が遅く、朝はゆっくり寝ていたので朝は会えず、反対に帰宅時間も夜遅かったので、父親と食卓を囲んだりしたことはほとんどありませんでした。

中学、高校時代には父親と話したことってあったかな、そんな程度でした。
でも、仕事に打ち込むことで、家族に対する父親としての責任を果たそうとしてくれていたんだと思います。
だからといって、厳し過ぎるという訳でもなく、今思えば、自分にとっては優しくていい父親だったと思います。
私は今のところ、子どもと接する時間については、自分の父親の何倍も持てていると思います。
朝ご飯は一緒に食べますし、夕ご飯も一緒に食べられる日もあります。
土曜日と日曜日は極力仕事に行かずに、家族と一緒に過ごすようにしています。
(心理学のワークショップなどに参加するときは例外ですけど。)
けれども、もしかしたら、私自身は、自分の父親との関係が薄かったせいもあって、子どもとどういう風に接すればよいのか、どんなことを話せばよいのか、今イチわかっていないというか、あまり自信が持てていないのかもしれません。
先日、箕面に新しくできたキャンプ場に、一泊でキャンプに行ったことがありました。
せっかくキャンプに来たわけですから、子供には自然を味わって欲しいと思いますし、普段できないような体験を積んでほしいなと思っていたんです。
(これも一種の「期待」なんでしょうね。)
キャンプ場に行く途中、有名な箕面の滝を見に行ったのですが、下の子が、「滝を見るより、近所のスーパーにある仮面ライダーのカードゲームがしたい」と言ってぶんぶくれてしまいました。
その後、食材の買出しに行こうということになったのですが、上の子が「マクドナルドが食べたい」と言い張ることもあって、「ちょっとそれはないんじゃないの!?」と私自身もひどく気分を悪くしてしまいました。
子どもにとっては、休みの日に、もらったお小遣いでゲームをするのが何よりの楽しみですし、平日にはまず食べられないマクドナルドを食べるのが、やはり何よりの楽しみなんですね。
子どもが自然やキャンプに興味が湧くように、前もってもっと工夫をすることはできたのかなと思います。
ああしてほしい、こうしてほしい、ああなってほしい、こう思ってほしい・・・、知らず知らずのうちに、やはり様々な期待を子どもにかけてしまっているようです。
期待をかけてしまう分、子どもができないことがあったり、やらないことがあったりすると、子どもに対してダメ出しをしてしまうような気がします。
でも、子どもが病気をすると、私の場合、不思議とそういう期待はどこかに飛んでしまいます。
 「早く治ってくれたらそれでいい。」
 「元気になって、笑顔を見せてくれたらそれでいい。」
私が子どもに本当に与えたかったものって、例えば、こんなものだったのかもしれません。
 安心、安全、平和、平穏、仲良し、上機嫌、笑い、楽しさ、喜び、心地よさ・・・
簡単に言ってしまえば、「幸せになってほしい」、これに尽きると思います。
子どもに幸せを与えられたら、親としてこれに勝る幸せはないなぁと思っています。
私の父親は、亡くなる3日前、まだ意識があった最後の時間に、こんなことを言ってくれました。
 「何かやり残したような気がするが、それが何なのかはわからない。」
今となっては想像するしかないのですが、もし、父親が意識できたかできなかったかは別にして、私と同じような思いを持っていたのだったとしたら、子どもに「期待」をかけるのではなく、素直に子どもに「幸せ」を与えたかったのかもしれないなぁと思えます。
父親が本当に与えたかったであろうものを、今度は私が子どもに与えていこうと思っています。
親がやりたくてもできなかったことを自分が代わりにすることが、親の分までよく生きることにつながるのではないかなぁと思っています。
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2件のコメント

  1. 中村ともみ on

    ひとは、どこまでやっても「やり残し」を感じるものかもしれませんね。
    でも、そのことを伝えられたお父様は、「やり残す」と言うことについて考える機会、と言う素敵な贈り物を遺されたんですね。
    ありがとうございました。

  2. 中村ともみ on

    ひとはきっと、どこまでやっても「やり残した」想いが残るのかもしれない、って思います。
    でも、お父様は「やり残す」と言うことについて、また考える機会と、そのことを書いていただくことで、とても大きな贈り物を遺してくださったような気がします。
    ありがとうございました。