●オープンハート 〜子供時代の愛読書

みなさんにとって、「ハートがオープンになる」「ハートがオープンである」
ってどんな感じでしょうか。どういう時、どんな状態・状況でしょうか。
私が、オープンを意識するのは、
「自分の事が信じられるっ!」、「こうなりたい・ああしたい!」と、
ただ思えて行動している時です。
好きな物事について、「嬉しい・楽しい」とデレ〜としている時です。
そんな風に、自分自身でいられて、他者との垣根もない状態だと、
心が開かれているのを感じます。
好きな事をしたり、好きな事が楽しいというのは当たり前の事じゃないかと、
感じられるかもしれませんね。
また、今かかわりの中で、我慢や不安が多い方には、少し同意が得られる
かもしれませんね。
「自分の事が信じられる」ことは、私にとってオープンさの原点のようです。
具体的には、○○が好きだと思う、△△が嫌いだと思う、□×をしたいと思う
◎▲になりたいと思う自分を認め、
全身でその思いに取り組むことが出来ている時に、
「大丈夫!」と信じられているように感じます。
今年になって参加したグループセラピーで、参加者全員が「幸せを選ぶ!」
という思いで一つになるという出来事がありました。
落ち込んでいて難しかった人達も、一人では「とても無理だった」そうですが
その時は幸せを選んでもらうことが出来ました。
互いへの「大丈夫よ」という温かい思いでの繋がりや、
全身で幸せを選ぶことで、
ハートが開かれているのを強く感じられた機会でした。
私が心理学の世界で学び続け、カウンセラーをしているのは、
こんな状態をお客様や仲間達と分かち合えるのが、ただ嬉しく幸せに
感じられるからなんです。
セラピーの後、この幸せな一体感を振り返っていると、ふと、
10代の頃に何度も読んでいた『小公女』が頭を過ぎり、
「あぁ、違っていたなぁ」と思いました。
そして、○○年以上ぶりに、昔の愛読書を子供時代とは異なる心境で
読み返してみることになりました。
『小公女』は、英国出身のバーネット女史によって書かれた児童文学の一作で
す。
子供の頃の私は、主人公のお嬢様だったセーラが、父親の破産と死により、
預けられていた学校の召し使いとなり、色々苦労したり苛められたりするにも
関わらず、誇りと周囲への優しさを持ち続け、
その結果、隣人から学校には秘密で「魔法」の援助を受けて苦しさを乗り越え
最後には本物のプリンセスになるというストーリーが大好きでした。
10代の頃、読み返しては、
「人に善い事をしていれば、きっといつか良いことがある筈!」
と思っていました。
セーラがよくしていた「公女さまならどうするか」という
想像は、私が行動を決めるのによく役立ちました。
どんな時でも、誰かを好きな気持ち、善い・正しいと思っていることを忘れず、
優しくて親切な言動を選ぶことが出来、色んな人と仲良くなれました。
元々人見知りが激しかったので、仲が良い人がいるのはとても嬉しかったです。
けれど一方で、善い事をすればするほどに、寂しさや虚しさも感じることがあ
りました。
良いことがある筈!?・・・確かに嬉しかったのですが、本当には
満たされていないと感じることもありました。
そして、寂しさや虚しさが限界に来ると、
「善い事なのにどうして?!」という怒りや失望感から、
それまでの人間関係を切ってしまうパターンが出来てしまいました。
どうして、セーラのようであれなかったと思いますか?
それは、子供の頃の私が、セーラが公女さまのようでありたいと思う気持ちを
読みきれていなかったからなんですね。
セーラは、聖人だったわけでも、めげない子だったわけでもなくて、
むしゃくしゃしたり、悲しみに暮れたりする普通の7才の女の子だったのです。
ただ、普通の7才より大人びた洞察や慈愛を持っていて、
父親やお友達を大切にするために、そして自身が辛い事を乗り越える為に、
「公女さま以外のものにはならない」と行動していたのです。
文学的なことは他に譲りますし、主人公の心理分析は、実は本編に出ているの
で省きますが、今回読み返してみて、セーラが小公女であれたのは、
彼女が想像力を使うことで、自らを開いていたからだと思いました。
セーラには、自分が感じたことを楽しく面白いお話に空想する癖がありました。
彼女の「想う力」は、辛い境遇に立たされた時、
いつまで続くのかという絶望感を越える力にもなりましたが、
その想いの強さは、彼女がその物語を聞かせる時、本人も聞いている人々も、
お話が本当のことであるかのように、セーラの愉快で優しい世界へ惹き込み、
信じられるようにさせていたのです。
彼女は、ありのままの自分を皆から愛され、慕われて、後援者に見つけ出され
た後も奢ることなく、ますますプリンセスとなっていっていたのですね。
そしてこの、「ありのままの自分」というところが大きく違っていたわけです。
20代で社会人となり、仕事という「しなければならないこと」「するべきこと」
を持つようになるまで、私は、大勢の中に居る時よく「不在」でした。
嫌われない為に、仲良くしてもらえるようにと期待を抱きながら、
自分が善いだろうと思う精一杯のことをしていました。
けれど、「善い事」というのは、立場や状況によっても、
また同じ人でも体調や気分によっても色々沢山あるんですよね。
見つけるのには細心の注意が必要でした。
他者の価値観ですから、上手く分からない事は起こり得るのですが、そんな時、
「これだけ努力してきたのに」と、期待が裏切られたように感じて怒り、
それまでの関係性を切っていたのでした。
子供の頃はその瞬間に「心を閉める」と思っていたのですが、
実は、私のハートは、多くの状況で初めからか途中から、
既に閉じられていたようです。
「善い事」の中に、「私がしたい事」が入っていなかったのです。
これは、私が周囲の意見や態度に影響を受けすぎる子供だった為に出来た、
「癖」でした。
他人が言うことの全てが重要で正しく、必要な事だと感じられ、
それと異なると大変なことになってしまうと思っていました。
「大変なことになる」いうのは、何の根拠もないお化けのような怖れでしたが、
それが分からなかった私には、複数の矛盾する意見が存在するのは、
大きな混乱でした。
そんな中で、「自分がしたい事」「自分」は唯一、取扱可能なものだったので、
自分の胸の中にしまい込み、混乱を減らしていたわけです。
小学校高学年の頃、「心に鍵をかける」という言葉を使った詩に出会っていま
した。
鍵をかけて安全な所に自分を置き、やっと誰かに関わる余裕出来たのですが、
結局、ハートを閉じてありのままの自分を表さないことで、
100%の満足感、繋がり、楽しさ、幸せ・・・etcを受け取れなくなってい
たのでした。
○○年ぶりに『小公女』を読み返してみて、そもそものきっかけのセラピーを
思い出してみると、閉じている事が多かった私が、少しずつハートオープニン
グ出来るようになった要素が全部入っていたのに気づきました。
それは、
まずは、自分の本心を知ること。<幸せになれるんだろうかという疑いなど>
次に、詮索も期待もなしに周囲を見ること。<「大丈夫」「来て」という声>
そして、今、100%望むこと。<「幸せを選ぶ!」>
の3つでした。
三番目は、私自身、いつも特に大きな抵抗感がありました。
そのような発想をする自分の存在を認めることは、元々の怒りや失望感を
思い出させますし、いい自分になるのは、自分には似合わないような、
はずかしさや自己嫌悪も出てきます。
さらに、そのように動くことは、試した事がないというリスクを感じること
だったからです。
カウンセリングの中でも、頭では「今は昔とは違う」「今は良い」と
充分理解されているのに、どうしても昔の恨み辛みが忘れられなかったり、
また傷ついたらという恐れで一杯一杯になってしまったり、
自信がないと自分を責めてしまったりするというお話を伺うことがあります。
そんな時には、「いかに現状が困難か」ということが多く語られるものですが
私はいつもそれらの困難の向こう側にある、
「本当に望んでいること」
も大切にしていけたらいいなぁと思いながら伺っています。
そういえば、数年前、旅先で知り合ったブラジル人の女の子が、
「カトリックの教えでは、『ハートを開く』って、”Blessing”ってことよ。」
と話してくれたことがありました。
帰国後、意味を調べてみると、”Blessing”には、
「祈り」の他に「祝福」という意味がありました。
誰かのハートが開かれるということは、自分にウソがないという他に、
周りの人々にとっても喜びなのだ。そんな意味があるのかもしれませんね。
下を向いて周りを見ることが出来なかった私が、少しずつ周囲との繋がりを
取り戻せてきたのは、私の事を信じてくれた多くの人達のおかげでした。
まだ、これから開いていく部分が多々あるからかな、
オープンで、繋がりを感じられる喜びや幸せは、私にとって
とても気になることの一つのようです。

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