父の背中

誰の心の中にも、忘れがたい人生の一場面というものがあると思います。
私の中にも、鮮烈なきらめきをもって、心をゆりうごかした出来事があり
ます。
それが、あのときの父の姿です。
私の父は、ごく普通の、一般的なサラリーマンでした。
数年前に定年を迎えた父は、その世代の父親の例にもれず、どこか不器用
でガンコでもくもくと仕事をするようなひとでした。
時期的にも、高度経済成長期、接待などで帰宅時間は遅く、かつ、当時は


休日といえば日曜日のみでしたので、ほとんど父と接する時間はなかった
ように思います。
かたい仕事をしていたせいもあり、プライドが高く、父の威厳を保つため
に、いつも理屈なしで怒っていたようなイメージがあります。
子供の言い分は全く聞かず、とにかく、自分が怒っているのはお前のせい
だ、というような。
「親にむかってその態度はなんだ」とか。
ありがちですね(^^;
そんな具合ではありましたが、基本的に、女の子である私には大甘でした。
逆に、弟には非常に厳しく、私との格差はあからさまなほど。
けれども、言葉の端々に、やはり男の子ということで、期待している風情
も子供ながらに感じていたのも事実です。
子供とは自分勝手なもので、弟には期待するのに、私にはしていない、
女の子は、ただ、かわいらしく素直であればいい、といった父の思惑にも、
私は常に反発をしていました。
しかし、本人は反発と思っていても、結局は甘えていたのでしょうね。
反抗的な態度の私に、父は怒りはするものの、結局、まあいい、といった
感じになってしまうし、私はそのことを半ば確信して、そんな態度をとっ
ていました。
(本当は、繊細でシャイな父なのです)
そんな態度の一方で、私は自分の能力が認められていない寂しさも、
ずっと意識していました。
その思いを否定するように、父や弟に負けたくないと、ずっと競争をしな
がらがんばってきたように感じます。
その反面、仕事に熱心で、仕事にプライドをもっていた父を見て、自分も
そうなりたい、と感じるものがあったのでしょう。
進路を決めるときには、専門職を持つ、と迷わずに思ったのでした。
屈折した父娘関係ですね。
(屈折しているのは、私だけか)
そんな私も、成長し、嫁にゆき……。
嫁に行って、八年も経ったある日、私の離婚話が浮上しました。
離婚したいと突然切り出した夫。
その雰囲気から、彼が本気であることが察せられました。
私は、訳が分からないまま、とにかく距離を置きたいから、一週間だけ
実家に滞在してくれという彼の要求をのんで、帰省したのでした。
が、その次の日、私の実家に離婚をすることになった、という「報告」に
彼は単身でやってきたのでした。
今から(父に)話をしにいく、というメールが、何の前触れもなく父の携帯
に入りました。
父にとっても、晴天の霹靂だったことでしょう。
私の帰省も、彼の行動も。
離婚するつもりなどなかった私は狼狽し、ただ、父に、「別れたくない」と
いう旨だけを伝えたのでした。
父は、何を言うでもなく、ただ、「そうか」みたいなことを言ったようにも
思えますし、そうでなかったかも、とにかく、あまり覚えていません。
彼は、かつて見たこともない憤怒の形相でやってきました。
とにかく、覚えているのは、彼のその気迫です。
尋常ではない様子が、周りにも伝わってくるのです。
彼は、私の父親に、私たちの夫婦生活について逐一報告し、私がどんなに
ひどい人間であるかを伝え、いかに彼が苦しかったかを泣きながら話した
のでした。
私という人間に対する苦情を、切々と父に訴えたのでした。
私の人間性は、私の責任であるはずなのに。
まるで、父が悪いといわんばかりでした。
噛み付くように、激昂していました。
もう、その狼藉ぶりは、目を覆わんばかりでした。
その間、父は、ただ、黙って聞いていました。
父は、話を聞きながら、どんな思いだったでしょうか。
ただ、家族のために真面目に働き、苦労をさせないように、手塩にかけて
育てた娘のことを、娘婿に、散々にこき下ろされて……。
あの、プライドの高い父が。
親が絶対である、といってきた父が。
罵倒されているのです。
それも、見境のなくなっている娘婿に。
しかし、父は、ただ、黙って話を聞き、そして、彼に向かって、頭を下げ
たのでした。
その場面を見た瞬間、私の心は、水を打ったように静まり返りました。
音が消え、何もない静寂が私に流れてきたのでした。
衝撃、とは違うのです。
成熟した、大人の男性の高潔、とでもいうのでしょうか。
アルプスの頂上で、万年溶けない雪のような、きらきらした曇りのない
清らかさとでもいうのでしょうか。
今まで生きてきたいろんな思惑や感情が、私の中で交錯し、私の心に浸透
していきました。
が、それを表現するには、あまりに私の筆力が不足しているようです。
ただ。
大げさな話ですが、私にとって、生きている間に、この父の姿を見ること
ができたことは、天から与えられたギフトだと信じています。
それほど、私にとって、鮮烈なきらめきをもって、強く心に残る出来事だ
ったのです。
私は愛されているとか、父を尊敬するとか、そういったものではなく、
まるで、にごりのない石英のような、何ものにも汚されないような、
父の美しさをかいまみた、そんな気がしたのでした。
父から娘に、伝承されていくもの。
そんなものがあるとしたら、私はここで見た、父の魂こそ、受け継ぎたい
と心から思うのです。
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