雨のバス乗り場のマダム

■ある雨の日の出来事

雨の日の通勤に、私は最寄り駅までバスを使います。
その日はバスがなかなか来なくて、停留所には長めの列ができていました。

停留所には屋根がありますが、吹き込む雨を凌ぐためにみんな傘をさしています。
そしてちょうど私のいる位置で、屋根は終わっていました。
そんな中、私の前に並んでいた60代くらいのマダムが前の人に、ぐいっと傘で押すように不自然に近づいていることに気づきました。
もちろん、押された前の人も不審に感じている様子…。

気になって見ていると、マダムは振り向いて私に話しかけてこられたのです。
「ねえ、これじゃ後ろの人が屋根の下に入れないわよね。もっと前の人が詰めればいいのに…」
彼女は、列の前にいる人が間隔をあけて並んでいるために、自分の後ろの人(私も含む)が屋根の下に入れないことを気にしていたのです。
その意思を伝えたくて、傘で圧をかけて前の人に詰めるよう促していたんですね。

正直なところ私は「屋根がなくても気にならないけどな…」という気持ちだったので、こうお伝えしました。
「ありがとうございます。でも傘をさしているから大丈夫ですよ」

けれどマダムはやっぱり気になるようで結局、前にいる人たちに
「後ろの人が迷惑だから、もっと詰めて並んでください」と声をかけました。

前の人たちは渋々動き、バス待ちの列はちょっとコンパクトに。
これで一見落着かと思ったのですが、その後のマダムの言葉がですね、
「もう、今の若い人は言わないとわからないのよね~」と。
これ、確実に前の人たちにも聞こえているんです…。

私は何となく気まずさを感じて同意も反論もできず、曖昧に会話を終わらせました。

■愛を愛のまま表現する難しさ

きっとマダムの心の中には、こんな気持ちがあったのでしょう。
「少し気遣いをすれば、みんなが屋根に入れて快適なのに」
これは「自分だけではなく他の人にも心地よくあってほしい」という愛からの思いです。
そんなふうに周りを気遣える人って、とても素敵だと感じます。

けれどこの出来事の場合、マダムの行動や言葉からそのような愛は理解されづらいかもしれません。
どうして根っこは愛なのに、それが伝わりづらい言動となってしまうのでしょうか。

愛が愛として伝わらないとき、私たちの心には「愛以外のものがくっついている」ことが多くあります。
恐れや失望、犠牲や寂しさや自信のなさ…。
このようなネガティブな感情が言葉や行動にのることで、せっかくの愛も相手への攻撃や批判のように伝わってしまうことがあるのです。

根本は愛なのにそれが伝わらない、もしくは違う形で伝わってしまう。
これってすごくもったいないことではないでしょうか。

あのマダムの愛にくっついていたネガティブな感情、あくまで私の想像ですが、こんなことかもしれません。

今の若い人は私が感じよく伝えてもどうせ届かないという諦め
人は私の思いを理解してくれないという孤独感
どうせ自分はこの人たちに認められないだろうという劣等感

このような感情が、ちょっとトゲのある言動として外に出てしまったのではないでしょうか。
もしマダムの言動が、ただ人を気遣うというだけのものであれば、もう少し違う形の表現になったのでは…と、何だかもったいなく感じてしまった出来事です。

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このマダムのお話は、バス乗り場でたまたま居合わせただけの人間関係の出来事です。
けれど、私たちの人間関係がうまくいかないとき、このように「愛に何か別の感情がくっついて、愛をそのまま表現できない」ということが少なくありません。

愛はあるんだけど、それを純粋に表現するのは抵抗を感じる。
愛にくっついている別の感情の方が大きくなてしまっている。
もしくは自分に自信をなくしてしまい、そもそも愛があることに気づけない。

このようなことは、多くの人が経験するのでは…と思います。
私自身もそんなことがありますし、同じようなお話はカウンセリングの中でも伺います。

愛を愛のまま表現することって、思いのほか難しい。
でもそれができたとき、周りの人だけでなく自分自身もあったかい幸せな気持ちを感じられます。

誰の心の中にも必ずある、誰かを思う気持ち。
せっかく持っている素敵な思いを、伝わりやすい形で表現して人と関わってゆけるといいな、って思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

自分に自信が持てないことから生まれる、恋愛・夫婦問題や日々の閉塞感のご相談を得意とする。1人ひとりの価値観やペースを尊重し「自分軸の幸せに向かうカウンセリング」をご提供。理論的な解説と実体験からの感覚をあわせたサポートで「本当の気持ちに気づけた、勇気が持てた」との声も多い。