愛犬が残してくれたメッセージ 〜自分の人生をいきる〜

「〇〇してはいけない、〇〇するべき」
私たちは、この思い込み(観念)があるがために、自分のしたいことを制限することがあります。
家族や友人には、「好きなこと、やりたいこと」を許せるのに。
いざ自分がするとなると、モヤモヤから始まり、まるで悪いことでもするような気持ちに駆り立てられるのです。

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家族の世話がひと段落したら、好きな時に、行きたい街へ、泊りがけで行こう!
いつしか、テレビの旅番組を見ながら、私は一人旅を夢見るようになりました。
結婚してからというもの、家を空けたのは、会社の社員旅行だけ。
しかも1度きりでした。

「妻は、家事をして家を守らなければならない」
「母親は、子どもの世話をほっぽり出して、家を留守にしてはいけない」などなど。
今思えば、私が創りだした我が家の家訓ともいえます。
夫や子供たち、家族の一員であるペットも然り。
犬を飼い始めてからも、忠実に守ってきたのです。

それから月日が経ち、夫は最小限の家事を覚え、娘たちは家を離れ、いつも傍にいて、私の癒しであった15歳の愛犬が亡くなりました。

愛犬の死は、未だかつて感じたことのない、ペットロスという言葉では片づけられないほどの悲しみでした。
「もっと遊んであげればよかった」という後悔と、
「もっと〇〇してあげていたら、長生きしたのではないか」「私が、一人旅を夢見たから、愛犬の死期を早めたのではないか」という自責の念に苛まれました。

ひと月が過ぎた頃、週に3日、多い時は週5、幾つもの病気を患っていた愛犬を動物病院に連れて行ったこと、一日中家の中にいて窮屈さを感じないようにと愛犬を抱いて散歩をしていたこと、仕事をセーブし一緒にいる時間を増やしたことを思い出しました。
私は、その時に、自分のできる限りのことをしていたのだと。
また、自分を責める気持ちは、今回だけではなく、母や夫に娘たちに対してあったことも浮かんできました。

ようやく自分に中にある罪悪感の大きさに気づいた頃、
「お母さん、GO! 自分の人生を生きて」
と、私の心の中で、愛犬の声が聞こえたような気がしました。

それがきっかけとなり、ふと北海道に行こうと思いたったのです。
早速、旅行の手配をし、旅支度を整え、その日が来るのを待っていました。
“私が旅行に行っていいのだろうか?”
“愛犬を亡くしてふた月に満たないのに、人から何か言われるのではないか?”
“家族から、とやかく言われはしないだろうか?”
その日が近づくにつれ、だんだんと気が重くなりました。
キャンセル料を調べたり、誰かに何かを言われた時の言い訳を考えるようになりました。

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私は、重い気持ちを抱えながら、新千歳空港に降り立ちました。
行きたくても行けなかった北海道の空気を吸い込みながら“私は自由さ”を感じたのです。
先ずはじめに向かったのは、小樽でした。
テレビや写真で見ていただけの憧れの町、運河沿いを歩いてみたかったのです。
翌日は、旅の一番の目的地である富良野に行きました。
「ファーム富田」の園内に咲いている花を見ながら、この景色が見たかったんだ、やっと来ることが出来た。私は来てもよかったんだ、そう呟きながら涙が流れました。
そして、自分が自分を制限していたことに気づき、愛犬を含む家族への感謝をあらためて感じたのです。

もしかしたら、無垢な愛犬は、私がいくつもの観念を持っていることを感じ取っていたのかもしれません。
けれどなかなか気づかない飼い主のために、最後にメッセージを残してくれたのではないかと思いました。

観念は、ある物事について抱く考え方や意識のことで、思い込みとも呼ばれています。
これまでの人生の中で周りを見て学び、いつの間にか身につけたりしているのです。
自分を守る一方で、自分の言動を制限してしまうことがあります。
また、その自分の思い込みに反すると罪悪感を感じるようなのです。

私は、自分の人生を生きるためには、自分で創った観念を手放す必要があったのです。
自分の制限を外し、自分にOKを出すことで、自由を感じられ生きやすくなること。
心理学を学び知識を得ていたはずなのに、やっと身をもって理解できたのです。

もし“自分の人生を生きたい”そう願っているのなら、
自分を制限しているものはないかな?と自分に聞いてあげてくださいね。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

様々な困難を自分の中に受け容れ、乗り越えた経験に基づく懐の深さは、ジャンルを問わず幅広い世代から支持を得ている。感性と直観を活かし、「言葉で表せない気持ちを言語化してくれる」と定評がある。「しなやかに生きる」をモットーに、自己価値の見直し、自己実現に向けたカウンセリングを提供している。