恥ずかしさの向こう側 -心をつなぐ自己表現の力-

今日は、私が昨夏から今夏の一年間に体験したことを皆さんにお伝えたいと思います。

ここ一年以上、私は朝早めに起きて外で運動することを続けています。
最近はルーチンワークと言えるようになってきました。

去年の夏のこと。始めてしばらく経つ朝のジョギングで、いつもの通りのルート走って公園に差し掛かった時「ずっと通り過ぎるだけだった戦災慰霊碑を、これから毎日お参りしようかな」と急に思い立った日がありました。
そして慰霊碑の前まで来た時、それまで私が一度も見かけたことのなかった、お参りしている方がいらっしゃったんです。
初老の男性のその方は、どうやら慰霊碑に祭られている方のご遺族のようでした。
私はそれ以来、その場所を通りかかる際は必ず立ち止まってお参りするようになりました。
そして半年ほどの間、私以外にお参りされてる方は誰も見かけなかったんですね。
でも慰霊碑は毎朝、私が通りかかる頃にはきれいに掃除されていて、花が飾ってあったり、お線香が焚かれていたり、丁寧にお手入れされている様子でした。

「一体誰が何時くらいに来てお世話してるんだろう?」
そんな事が気になるようになった昨冬、私と同じく朝の運動がてら通りかる方が、慰霊碑にお参りされている姿を見かけるようになりました。
一人見かけるようになると、また一人、また一人と、どんどん見かける人数が増えていきました。

その時に気付いたのは「私が慰霊碑に関心を持つようになったから、自分以外にお参りする人の存在に気付くようになったんだな」という事です。
お参りするようになる前の私にとって、慰霊碑は風景の一部であり、なにか自分にとって意味のあるものではなかったんですね。
毎日きれいにお手入れされることにも、気づいてはいませんでした。
慰霊碑と、毎日お手入れされている方々の存在と、そこにお参りする方々の存在に、私が心の繋がりを感じるようになったことが、昨夏から一年程の間に起きた大きな変化でした。

慰霊碑をお手入れされている方々に、またお会い出来たらいいなぁ。

別に何かを話したい訳ではないけれど、そんな想いを持ちつつずっと遭遇しないまま、今年の夏、お盆の時期。いつもよりだいぶ早く起きてしまった日があって、早朝運動に出かけた日、遂に慰霊碑をお手入れされている方達に遭遇出来たんです。
その日は2人の男性がいらっしゃって、ちょうど慰霊碑の水洗いが終わってお花も飾ってお線香も焚いて、お手入れ道具を片づけていらっしゃるところでした。

ところが!
私はなんだか、急にその方々の前でお参りすることが恥ずかしくなって、つい慰霊碑の前を通過してしまったんです。
公園で少し運動した後、もうそろそろ誰もいなくなってるかな…と行ってみると、慰霊碑から少し離れたところで男性2人は何やら話込んでおられました。
今がチャンスとばかりに、そそくさと慰霊碑にお参りしてその場を去ろうとした時、その男性お2人がビックリした顔で私を見て一言、「ありがとう」と言って下さったんです。
私の方はというと、まさかそんな言葉をかけられるなんて全く想像しておらず。
慌てふためきアワアワしつつ、軽く会釈してその場を立ち去りました。
そこから家に帰るまでの間、私の心の中は色んな感情が噴出していました。
「嬉しいな」「良かったな」「こちらこそ、ありがとうございますとか、お疲れ様ですとか、なにか言えば良かったな」感じたのは、そんな気持ちでした。

皆さんも似たような経験、過去に一つ二つはあるんじゃないかと思います。
「想いがあるのに、恥ずかしくて。表現できずに引っ込んじゃった。」
恋愛かもしれないし、なにか努力してきた事かもしれないし、家族に対することかもしれない。
大切な人に対してのことかもしれない。
人知れずなにかをされてきたことかもしれない。
想いを表現せず心の中にしまっておくこと、日本人は特に多い傾向があるかもしれません。
でも、勿体ないなって、他人のことなら思えますよね。
それは自分の「想い」だって、同じなんです。
そして「想い」を表現することで生まれるのは、心が通い合う、つながるっていうことなんです。
想っていることが、お互いの共通認識になるから。想いを共有できるんですね。

私は恥ずかしくて、ついつい引っ込んでしまおうとしたけれど、今回は相手が想いを言葉にしてくれました。
「ありがとう」
もし魔法の言葉があるとしたら、「ありがとう」はその一つかもしれませんね。
想いを伝えるリーダーシップの素晴らしさ、想いが繋がって受け継がれていく偉大さを感じた、今夏の思い出です。

この記事を書いたカウンセラー