「女性」が怖いんです(2)〜インドの青鬼と鬼子母神と母性の業〜

「女性が怖い」のは、女性性の中でも「母性」のネガティブな側面の影響を受けやすいからです。

「お母さん」は躾が厳しかったかもしれませんが、そんな「お母さん」の言葉や価値観に大人になっても縛られているのは、「お母さん」があなたの心の中で強大な位置を占めているからです。「お母さん」に乗っ取られて「自分」が呑み込まれてなくなってしまうのではないか、という怖れを抱えていると、大人の女性に近づきにくいと感じます。そんなグレートマザーとの葛藤も、大きな愛を受け取ることへの怖れなのです。

***

こんにちは。
カウンセリングサービスのみずがきひろみです。

「大人の女性」に対する苦手意識は、女性性の中でも、特に、「母性」に対する抵抗感です。生命を受け取り、産み、育む「母性」の大きさを受け取るのは、当の女性はもちろん、男性にとっても、怖れ多いプロセスです。

この怖れを理解し、受け入れるためには、母性のもつ、ネガティブな側面を理解し、許す必要があります。母性のネガティブな側面を描いた物語の一つに、鬼子母神の神話があります。

鬼子母神は、大勢の子(500人?1,000人?)の母で、この子たちを育てるために人間の子を捕まえて食べていました。それを見かねたお釈迦さまが、彼女を戒めるために、彼女が一番愛していた末の子を隠したところ、彼女は半狂乱になるほど嘆き悲しみました。反省した鬼子母神は、仏法を守り、子を食べずに飢えを満たすことを覚えて、子を守り育てる慈愛の象徴になったという物語です。今では、鬼子母神は、子授け、安産、子育ての神様として祀られています。

人食い鬼と慈愛の神様が「同じ」、というところに母性の業があります。大勢の子供たちを育てるパワーを持つためには、「人をも食らう」。これは、母性が心理的境界線をものともせずに、他人の心に侵入する性質をもつことの比喩です。心理学の世界では、そんな母性の強大さを「グレートマザー」と呼びます。

自分の都合が中心で、他人の気持ちはそっちのけ、「聞いてもらえない」「わかってもらえない」「存在すら認められていないのではないか」と、「母」という存在について思ったことありませんか?

「お弁当は何が食べたい?」と母親に聞かれて、当たり障りのないところで「ハンバーグ」と毎度答えていたら、「この子はハンバーグの好きな子」と思われて、ちょっと元気がないとお弁当も、お夕食も「ハンバーグ」になってしまった。下手をすると、毎日、「明日は唐揚げがいい」というまで「ハンバーグ」が続く、なんて経験はありませんか?

でも、「ハンバーグ」を作っているときのお母さんの元気そうな顔を見たら、「好きなわけじゃない」とは言えず、「まぁ、いいか」と思っているうちに、自分が本当は何を食べたいのか、何が好きだったのか、わからなくなった、なんてことはありませんか?

自分が、何が好きで、どこに行きたくて、何をやりたいのかわからず、ただ一緒にいる人が笑っていて、楽しそうだったらそれでいい。そう思い込んでいませんか?自分よりも他人、例えば「お母さん」が自分の人生を決めている、なんてことはありませんか?

彼と別れようかどうしようか迷っていたら、ある日、彼から「君のお母さんに、君は僕と別れたがっているから頼むから別れてくれと言われたよ。そうならそう言ってくれればいいのに」と言われ、母親に相談した覚えもないのに、自分を飛び越えてお母さんが彼に別れ話を切り出していることに空恐ろしさを感じた、という話を聞いたこともあります。

そんな「お母さん」の、自分と他人の境界線が無い感じは怖いし、ウザいし、憎しみすら感じるのに、自分を守る手立てがなく、呑み込まれてしまいそうで、必死に逃げるように離れるしかないと思うー。それこそ人食い鬼に睨まれた気分です。

でも、自分を育てるのに注いでくれた愛情もどこかでわかっていますから、嫌って、憎んで、離れることに、ものすごく「罪悪感」を抱えます。離れるほどに自分を責めるから苦しくて、つい愛し慕っているはずの「お母さん」を悪者にしたくなります。

お母さんもお母さんで、自分の子供がかわいいですから、その子を守ろうとするあまり、その他大勢の気持ちには無頓着で、冷酷にすら映ることもあります。そんなところを見たら、「私もお母さんに愛されなかったら、あんな風に見捨てられるのではないか」と、それはそれで不安で怖いと思ってしまいます。

近づけば呑み込まれる。離れれば切り捨てられる。そんな母性の、底知れぬ暴力的な怖さを、いったいどう許して、どう受け入れたらいいのでしょう?

そのヒントは、「誕生」という名の「分離」の悲しみに想いを馳せてみると掴みやすいと思います。

ずっとずっと昔、まだあなたが「お母さん」のお腹の中にいた頃、あなたは「お母さん」の細胞の一つでした。「お母さん」の心臓のドクッと動く音とともに、「お母さん」の血が流れ込んできて、酸素をもらい、栄養をもらい、「お母さん」とともに細胞分裂を繰り返して大きくなり、「お母さん」と同じ体温で、「お母さん」と同じ光を浴びていました。ある日、あなたが大きくなりすぎて、このままでは、あなたも「お母さん」も生きられないという時がくるまでは。

同じ身体の一部だった「あなた」が、自分の心臓を持ち、勝手に動き、勝手に生き始める不思議は、「お母さん」にしてみれば、自分の手や、足や「お腹」が「お母さん」の意思とは関係なく、勝手に歩き出すようなものです。

自分の分身だから、自分を扱うように扱うことになんの疑問もわかないのです。自分を愛するように愛し、自分を罰するように責めてしまうのは、「母性」にとって子供は、身二つになっても、「自分」。「自分」の一部が、「自分」ではなくなることが、頭ではわかるけれど、心や身体はその寂しさをなかなか受け入れられません。

インドには、カーリーと呼ばれる青鬼の女神がいます。もとは人食い種族の女王がモデルの土着の女神ですが、殺した敵の血まで残さず啜る、怒り狂った、破壊と残虐の神様です。おどろどろしい女神さまですが、命がけの愛の対象を奪われたときの怒りと悲しみと寂しさを表現しているとみれば、さもありなん、です。そんな痛みこそが、大きな愛の裏返しだと、鬼を拝む人々の知恵って、スゴイ!と私は思います。

せっかく一つだったのに別れなければならなかった「怒り」と「悲しみ」は、母と子という別人格になってからも、何度もくりかえし、感じては許して、切っても切れない心の絆を信頼できるようになるまで、癒しの旅として続くのではないでしょうか。

>>>『「女性」が怖いんです(3)〜現代の男性の自立の難しさ〜』へ続く

この記事を書いたカウンセラー

About Author

退会しました