神さまは罰を与えるのか?

近所のひとつ下の女の子とよく遊んでいた。
その子がある日
「今度の日曜,日曜学校行こう!」
と誘ってくれた。
吉村,小学校4年生の時だった。
「この子は日曜まで学校に行っているのか? いつも一緒に遊びほうけているのに,実は偉いんだなぁ。 でも,私は日曜まで学校に行って勉強するなんてイヤだな
そんな思いが瞬時に沸いてきて返事をしかねていると,それを察したのかその友達はすかさず言った。
「公民館でな,紙芝居見れるねん。歌うたったりして楽しいで。10円持って来て。お菓子もくれるから。朝9時に公民館やで
“紙芝居” “歌” “お菓子”
子供心をくすぐるには,いえ,私の心をワシづかみにするには十分なこのワード。
「わかった,行く!
日曜日の朝9時なんて,いつもならウダウダゴロゴロしている時間だったけど母親からもらった10円を握りしめ,ドキドキワクワクしながら公民館へと向かった。
そこには既に子供たちが12,3人集まっていただろうか。
そして,30代前後と思しき見たことのないお姉さんが2人,優しい笑顔で迎えてくれた。
このお姉さんたちの穏やかさは,私にはちょっとした衝撃だった。
いつも忙しくヒステリカルな母親や学校の先生たちのような厳しさや規律正しさのようなものは感じることなく,なんでも受け容れてくれそうな温和で慈愛に満ちたお姉さんたち。
少々ヤンチャな男の子のおふざけにもにこやかに
「はいはい,静かにしましょうね」
と,決して怒らず優しく包み込んでゆく。
なので,そこに来ている子供たちはお姉さんたちが大好き。
お姉さんたちの愛の前では,ヤンチャ坊主もすぐにお利口で素直な少年にならざるを得ない。
日曜学校の最初はお祈りから。
「天にまします我らの父よ。」
から始まり,最後は
「アーメン」
で終わるキリスト教の代表的な “主の祈り”
なんのことだかさっぱりわからずとも,お姉さんたちに倣ってその文言を復唱してゆく。
その後もお姉さんたちは,聖書の一節を読んで解説してくれたり賛美歌を歌ったり,イエス・キリストの逸話を紙芝居で上演してくれたりと,キリスト教のなんたるかは分からずとも “紙芝居” というアイテムの持つワクワク感が子供たちを惹きつける。
そして最後にもう一度お祈りをして,持ってきた10円をお姉さんが持つ箱に入れて(当時はこの10円でお菓子をもらえるんだと思っていましたが,ささやかな寄付金ですね),お菓子をもらって帰るというあっという間の日曜日の朝だった。
それからしばらくは,安楽の地を求めて毎週日曜日は公民館へと通った。
今思えば簡単な子どもである。
日曜学校に行っていたからクリスチャンになったかというと,そういうわけではない。
けれど 『神さま』 をはっきり意識したのはこの頃からだと思う。
神さまに会ったことはモチロン無いので,実在するかどうかはわからないけれど私の中での神さまのイメージはすべてを受け容れてすべてを許してくれる寛容な存在。
失敗しても間違えても,嘘をついてしまっても怠けものでもいじけても悪態をついても,優しくなれなくても妹をいじめても宿題をしなくても,神さまは怒ったりましてや罰を当てるなんてことはしない,という考えがこの頃から確立されていった。
∞・∞・∞・∞
ここカウンセリングサービスの母体である 「神戸メンタルサービス」 の代表であり,心理学の師匠でもある平が,ある時のワークショップで
「みなさんは “こんなひどい私は神様が罰を当てるに違いない” と思っているようですが,神さまは本当にあなたに苦しい思いをさせるでしょうか? あなたに苦しい思いをさせる神さまは神さまと呼べるでしょうか?」
とレクチャーしているのを聞いた時,激しく同感した。
「異議なし!」
と叫びたかったくらい。
子供の頃,親や周りの大人から
「悪い事したら神様にバチを当てられるよ」
「誰も見てなくても神様にはお見通しなんだよ」
なんて言われませんでしたか?
悪いことをしたり嘘をついたり怠けたりしないように,親や大人は躾のつもりでそんな風に言い聞かせるわけだけど,神さまにしたらとんだ悪役を押し付けられていい迷惑ではないだろうか?なんて思うわけです。
「宿題をしなかったり妹をいじめた時,雷を落として罰を与えるのはお母さん,あんただよ」
幼い頃の私が自分の感じていることを上手く言語化出来ていたなら,母にそう反論しただろう。
しかし,宿題をしなかったり妹をいじめても何事もなく幸せで穏やかな日々が続くより,母から怒られるならその方が良いかもしれない。
なぜなら,嘘をついても意地悪をしても咎められず,母がにこやかにホカホカの美味しいご飯を差し出したなら,それほど気まずく恐ろしいものはないだろうと思うから。
「いつかバレるのでは?」
「バレたら,いかほどに怒られるだろう?」
バレたり怒られたりしていない時から恐れと不安を感じさせているのは,紛れもなく自分自身の心で,そうなるともはや母でもなく神さまでもない,他ならない自分の心が自分を裁いて罰を当てていることになるのでは?
たとえ周りを騙せても,自分の心はだませないんですよね。
神さまがいるとしたら,そんな “やらかしてしまった私” でも
「まぁ仕方なかろう。そなたにはそなたなりの事情があっただろうから。以後,気を付けるように」
と,罰を与えるのではなく人間の弱さや狡さを容認してくれるだろう,と思うのです。
“やらかしてしまった” ことは修正すれば良いだけです。
あなたが最悪な気分に陥る時,もしかしたら自分で自分を裁いてるのかもしれません。
だとすると,自分を罰するのではなく,慈悲深く慈愛に満ちた神さまのように自分自身を容認してみてくださいね。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

吉村 ひろえ

恋愛や夫婦、浮気、離婚などのパートナーシップから対人関係、子育て、また、死や自己受容のテーマなど幅広いジャンルを得意とする。 女性的で包容力があり、安心して頼れる姉貴的な存在。クライアントからは「話しをすると元気になる」「いつも安心させてくれる」などの絶大なる支持を得ている。