花開く瞬間 ~こころのもたらすもの~

先日、フィギュアスケートの高橋選手の試合をTVで見ていました。
去年の怪我による手術・リハビリからの復帰のため、2年ぶりのスケートです。
フィギュアは芸術性も兼ね備えているスポーツなだけに、プライベートからくる精神面が、演技に影響を及ぼしたりすることがよく見えるので、見ていて応援したくなるし、すごく励まされるんですよね。
NHK杯に継ぐ2戦目ですが、前回はまずは舞台復帰という感じだったので、今回はどんな滑りなのかドキドキしながら見たのでした。
どんな選手も、ほんのちょっとのメンタルの乱れが演技に反映されます。
恐れもあるでしょうが、なんとか実力を出してほしい、そう思いながらフリーの演技が開まるのを見ました。
緊張感が張り詰め、最初はハラハラして見ていたのですが、そのうち、言葉がなくなりました。
気づくと、食い入るように彼の演技に見入ってしまいました。
実際の、技術的な評価がどうか細かいことは分かりませんが、だんだん心が無になるというか、次第に、まるでゆっくりと花開くように心を奪われたのでした。
復帰後まもない心もとなさはあるものの、彼の演技は怪我をする前よりも、ずっとのびのびしていて、柔らかく、身体全体を通して滑らかさ、流れるような美しさが伝わってくるんです。
演技が進めば進むほど、見ていて、スケートが本当に好きなんだろうなあ、スケートを滑ることを楽しんでいるんだろうなあ、というのが確信として伝わってくるんですね。
そういうときの演技、って説得力があるんですよね。
以前、リハビリ中の取材番組で、高橋選手と同じ怪我をして過去に復帰した選手はいないということを言っていました。
手術をしても、リハビリをしても、本当に元の通りに復帰できるか分からない不安に、押しつぶされそうになり、練習をサボったこともあったそうです。
「スケートがやめられないのも分かっている」
そう彼自身も語っていて、止めることができないからこそ、不確かなものに対する恐れは、おそらく私の想像などはるかに超えるほどの大きさだったのではないかと思います。
その思いを越えての復帰でした。
彼の演技を見ているうちに、思うことがありました。
私たちが今していること、というのはかつて自分が選んだことなんですよね。
仕事にしても、パートナーにしても、自分がこれがいいと選んだはずなんです。
ところが、私たちはいつしか、ルーティンになればなるほど、やらなくてはならないこと、できなくてはならないこと、のように扱ってしまうようなところがあるようです。
もしくは、好きで努力して結果も出たけれど、一方で、よくなればなるほど、今の立場を失いたくなくて、ちゃんとしなければと保守的になってしまうところがあるような気がしたのでした。
演技の間、彼のイキイキとしたすべりを見ているうちに、
「好きなことをするのと、それを楽しむというのは別のことなんだ」
そんな風に感じたのでした。
フィギュアは好きなので、どの選手も応援しています。
リンクの上で、一人、さまざまな思いを抱えながら演技をしているのだと思います。
今までの努力や、よりよい得点を出したいという思い、いい演技をしたいという思い。
それらがかえってプレッシャーになってしまい、ちゃんとやろうと思うほど縮こまってしまうことも、時としてあるように見えます。
そんな中で、滑ることを楽しんでいる心の状態というのは、見るものにものすごく訴えるものがあるんですよね。
そして、それは自分にもいえるよなあ、と思うのです。
ちゃんとやろうとする姿勢も大切。
でも、正しくあろう、きちんとやろうとするあまりに保守的になってしまい、自分を出し切れない時ほど、私たちは後悔することが多いようです。
選手たちも、難易度の高い技にチャレンジして失敗したとき、
「自分の滑りたいように滑れたからよかったです」
「自分がやりたいことに挑戦できたのでよかったです」
と言っていたりするんですよね。
自分が選んだことを、ただ、心から楽しむということ。
簡単でありながら、つい、忘れてしまいがちなこころの状態。
どんな状況であったとしても、どんなものごとも、自分がしていることを楽しむことができたとき、私たちは本当に満たされるのかもしれません。
そして、本当の自分らしさでキラキラ輝くものなのかもしれません。

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