あの日、あの時

あの日。
1995年1月17日午前5時46分。ドーンという爆音で目が覚めた。同時に、下から突き上げるような衝撃を感じた。なにが起こったのか理解できなかった。飛行機が墜落したのか?ガス爆発があったのか?阪神間と淡路を大震災が襲った一瞬だった。

ド、ド、ド、ド、ドという縦揺れが始まった。瞬間、なんだ地震か、とホッとした。それまで大きな地震を経験したことがなかったのだ。だから、その程度の地震かと思って油断した。ところが、揺れは収まるどころかますます激しくなった。ロケットに乗ったことはないけれど、打ち上げの衝撃があるとすればこんな感じなのかなと思った。

一瞬、静粛がきた。終わった、と安心した。次の瞬間、ものすごい横揺れが来た。立つことができない。揺れはますます激しさを増していった。布団の上で這いつくばっているけれど、自分を制御することができない。左に右に、前に後ろに翻弄される。

わたしが住んでいたのは神戸の震度6〜7の地域。8階建マンションの7階。あまりの揺れの大きさに、崩れる、と覚悟した。「あ〜、ここで死ぬのか」と本当に思った。マンションが崩れて、その次にくる衝撃がいつかと身構えていた。

どれくらいの時間がたったのだろう?とても長く、長く感じた。マンションは崩れることもなく、やがて揺れが治った。助かった、と安堵した。

でも、地震はそれで終わったわけではなかった。度々くる余震に心は疲弊した。翌朝5時ごろ、ガス爆発の危険性があるというので避難命令がでた。暗く寒い中、どこ行くあてもなくさまよった。身も心も疲れ果ててしまった。その後、妻の実家でしばらくお世話になることになる。

震災で疲れ果ててしまったわたしを勇気付けてくれた風景があります。

あの時。
それは、震災からしばらくたったある朝の通勤時のことです。

いつも通る駅までの道。いつも見ていたはずの光景。自動車修理工場でおじさんがスパナでネジをとめていました。まだオープンしていない店舗で、おばさんが店をホウキで掃いていました。

なんということのない風景。当たり前の日常。当たり前の生活。普通に暮らしている人たちがいる。ただ、それだけなんです。

それでも、普通に誰かがそこにいて、普通にしてくれていることが嬉しくて、ほっとして、心強く感じられて。

いつも通りの生活が始まろうとしているんだなあ、と嬉しく感じたのを覚えています。おじさんもおばさんも、誰かのためにやっているんだという意識はなかったと思います。

でも、それをみたわたしは、嬉しくて仕方がない。震災で長い間いつも通りの生活をすることができなった。いつも通る道、1階が潰れている家が軒並み並んでいるところもある。そんな中で見たいつも通りの光景。涙が出た。いつも通りの日常の風景に心が打たれた。

おじさんもおばさんも、自分のためにしていることなんだけど、それを見たわたしはとても勇気をもらったように感じた。元気をもらえてたように感じたのです。

ひょっとしたら、わたしたちは、自分の生活を全うすることが誰かのためになっているのではないだろうか、と思った。生活のためにものを売る。生活のために車を修理する。でも、それで、助かったひとがたくさんいるはず。自分のためにしていることだけれど、実はそれが誰かのためになっているんだなあと感じた。

そこにいる、ということで、すでに誰かの勇気になっていることもあるのではないだろうか?少なくともそこで生活している限り、電気を使い、ものを食べ、服を着て暮らしている。それこそが、誰かが作ってくれたものの恩恵を受け、その対価を支払っている。

生きているということが社会の一員としてなんらかの役割を担っているということにならないだろいうか?自分ではわからないかもしれないが、それを見ている人がいる。何かを感じてくれている人がいる。ひょっとしたら、わたしたちは自分が思っている以上に周りのひとに貢献しているのかもしれないなあ、と被災者となって感じたことだった。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

大西 三千男

職場や家族間の対人関係、パートナーシップ、自己肯定感の実現を得意としている。欠点としか思えなかったことを長所に変えるものの見方の提案と、楽になるためにの考え方の提案を行う。気づきを得てもらうことで「腑に落ちました」「そう思っていいんですね」「安心しました」と好評である。