●ありのままに愛される って?

突然ですが、木村家は荒れております。
と言っても、二人の関係ではなく、家の中が荒れ放題になっているのです。
少し前に僕が体調を崩して、回復するのに少し長引いていました。
その間、奥さんは家のことを後回しにしてまで、僕の面倒を一杯見てくれていました。
まるで子供のように面倒を見てもらっていた僕は、たくさんの「ごめんなさい」と「ありがとう」と共に、回復に至りました。
この時点で、木村家はチョイ荒れです(笑)
僕の回復と入れ替わるように、今度は奥さんの調子が悪くなってきました。
奥さんはアレルギーを持っていて、症状が手に出るんですね。
ものすごくひどい手荒れのような状態になり、出血したり、痛みがあったりするようです。
手が腫れて指も思うように動かすことができず、動かすと痛いようなんです。
両手がその状態になってしまったので、手を使って何かをすることができないんですね。
それまで奥さんがやってくれていた、木村家の家事のほとんどがストップするとともに、部屋は散らかり、洗濯物は溜まり、食事は栄養バランスを欠いたものとなってしまいました。
「まぁ、それでもたちまち死ぬ訳じゃないし…」と、仕事の合間を見てちょっとずつ家事をするのですが、もちろん到底追いつきません。
そんなこんなで、恥ずかしながら、木村家は荒れ放題になっているのです。
そんな惨状(?)の中、奥さんは事あるごとに言います。
「ごめんね。何もできなくて…」
家事だけではなく、服を着る時にボタンが留められなくて僕が留めていたりしていたので、奥さんはよっぽど僕に迷惑を掛けていると感じているようで、それを詫びるのです。
全然迷惑なんかじゃない僕は、その都度「迷惑なんかじゃないよ〜」と言うのですが、奥さんとしては、「自分は何もしていない」「僕の役に立ちたいのに立てない」というのが、とても心苦しい様子です。
僕としては、「僕のためにあれをしてあげたい、こんなものを食べさせてあげたい」と思ってくれるその気持ちが何よりうれしくて、何もしていないことは問題ではありません。
もっとも、家事をしながら「しんどいな〜」と思ったり、奥さんに「あれやってもらいたいな」とか「これをして欲しいな」と思う気持ちはあるんですけどね。(笑)
だけど、それは僕が一番求めていることではないんですよね。
奥さんがごはんを作らなくても、外食したり、お店で買ってきた物を食べることはできます。
奥さんが家を片付けなくても、ハウスキーピングのサービスを頼めば片付けてもらえます。
その他の家事にしても、代わりはいくらでもあって、どうにでもなるんですよね。
だけど、奥さんの代わりだけは、どう頑張ってもどうにもなりません。
奥さんという人間は、この世に一人しかいないのですから。
僕にとって一番大事なのは、「その奥さんが僕の側にいてくれること」なんです。
たとえ、家事の全てを誰かに任せて、高級ホテルのような隅々まで行き届いたルームメイクのされた部屋で過ごし、五つ星レストランのグラン・シェフが作った料理が毎日食べられたとしても、そこに奥さんがいなければ、僕の心は満足しないでしょう。
僕の心の中には、奥さんに対する細かなニーズや不満が、挙げればキリがないくらいたくさんあると思います。
そのために、見失ってしまうことも多々あります。
しかし、「奥さんが存在していること」そして「奥さんが僕の側にいてくれること」 これが何よりも僕の心を満たしてくれているというのを、今回の、奥さんが何もできないけど僕の側にいてくれるという状況から、改めて感じたのでした。

「ありのままの自分を愛される」
「存在することを喜ばれる」
僕には長い間、理解することができませんでした。
奥さんもおそらく同じでしょう。
これについては、未だに本当には理解できていないと思います。
だけど、「ありのままの誰かを愛する」「存在することを喜ぶ」ということについては、理解することができます。
それは、僕の、奥さんに対する想いだから。
僕はまだ親になったことがないので、想像でしかないのですが、子供を持ったとしたら、子供にも同じように感じるのだと思います。
そんなことを考えている時、ふと、自分の子供時代のことを思い出しました。
「親に迷惑かけないように」「親に心配かけないように」「親に喜んでもらうために」…
そうしないと愛されないと思って、何かしなきゃ、何かしなきゃ、と、一生懸命にいろいろな「何か」をしてきていました。
それは、大学進学後も、就職して社会人になってからも、そして今も綿々と感じて続けてきたことでした。
そうした思いに耽っていると、突如、受けとらざるを得ない気づきがやってきました。
「両親に愛されている」
!!!!!
それは、「何かをしたから愛する」というようなちっぽけな愛ではなく、どんな僕でも丸ごと包んでくれる、大きな大きな愛でした。
僕は、生まれた時から、いや、ひょっとしたら生まれる前から、その大きな大きな愛で、それがまるで空のようにいつも僕を包んでくれていることに気づいたのです。
あまりにも身近にあって、あまりにも馴染みがあって、それは空気と同じように存在を感じさせず、「それがあって当たり前、あるのが普通」の状態になって麻痺していたのかもしれません。
だけど、確実に僕は愛されていたのです。
奥さんが、何もできない子供のような僕の面倒を喜んで見てくれたように、僕が、奥さんが何もできないことを問題と感じず、ただ奥さんが存在して僕の側にいてくれることを心から喜ぶように。
そんな大きな愛で包んでくれる、父と母の子供に生まれてきて、僕は幸せです。
しばらく顔を合わせてない父と母の顔を思い浮かべ、久々に実家に顔を出そうかと思っています。
たくさんの「ごめんなさい」と「ありがとう」と共に。

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