「個人の能力」を過大評価していませんか ~「頑張りたくない」人たちからの警告~

どんな組織にも、プレッシャー(ストレス)ポイントというか、プレッシャーやストレスのかかる部門や部署があり、それを担う「人」がいるものです。 私たちは、つい、「人」の能力を過大評価したくなるので、そういう「場」にスーパーマン的なヒーローの登場を願います。リーダーに、苦境を切り抜けるためのアイディア、統率力、実行力、調整力などの具体的なリーダーシップの要素に加え、感情を受けとめる包容力やモチベーションを維持するためのコミュニケーション能力などのソフトスキルまで、まさに全人的な力を期待しては、リーダーがその期待を満たせないとがっかりして、今度はバッシングに走りたくなります。期待が大きいと、がっかりも大きいわけです。

リーダーに限らず、私たちはビジネスの目的を遂行するためには、構成員が個人として有能であることが不可欠だと考えがちです。人材開発や研修、自己研鑽の必要性が指摘され、巷の本屋さんには自己啓発の本が山積みになっています。まるで「普通の人」ではダメだと言わんばかりの、ちょっと強迫的だなと思われるようなタイトルすらありますね。平台に積み上がった本の目次に目を通しながら、これ、全部できたら「神さま」になってしまうなぁ、と私は少しゲンナリします。

他人からの期待もさることながら、自分が自分にかける期待に押しつぶされそうになり、「頑張る」ことに対して嫌悪感やアレルギー反応的な拒否感をおぼえる人たちも少なくないようです。過大な期待を背負って頑張るリーダーたちを見ながら、「私も」ではなく、自分は「頑張りたくない」と感じる人たちが若い世代を中心に増えていると言わています。

カウンセリングの現場でお話を聞きますと、とても多くの「頑張りたくない」人たちが、実は、大変ストイックで、自分に厳しく、また自分への期待が非常に高いことがわかります。まじめに周囲の期待に応えること、しかも完璧に応えることを自分に期待してしまうと超人間的な存在であらねばならぬという想いから逃れられなくなるのでしょうか。まるで「頑張る」=「超人間になる」ことのように感じておられるようです。そんなに頑張らなければ頑張ったことにならないのだとしたら頑張りたくないよね、と私もいっしょにため息をつきたくなります。

「頑張る」というメンタリティについても二極化が起きているなかで、私たちは、組織の中で起きる「問題」をつい「個人の能力」で乗り切ろうとしすぎてはいないでしょうか。「頑張りたくない」人がいれば、それもその「個人」の問題として片付けがちです。でも、本当にその「個人」だけの問題なのでしょうか。

組織を大局的に見たとき、組織のヒエラルヒ―の末端にいる人が、上の人から無理難題をつきつけられているグループリーダーを見て、みんなが頑張っているから頑張らなければならないのかもしれないと思いつつも、あの立場にはなりたくないから「頑張りたくない」と思ったとしたら、そのグループリーダーは本人が気づかないうちにかなり無理しているのかもしれません。

グループリーダーが下からみて悲壮感があるような仕事のしかたをしている時、そのグループリーダーの上司もやはり「無理しなければダメ」と思いながら仕事をしていることが多いようです。その上司はそのまた上司の姿を見ては「無理をしなければ」と思い、トップはトップで顧客や取引先に対して「無理をしなければ」と思っている、そんな「普通ではダメ」「無理をしなければ頑張ったことにならない」といった想いの連鎖が、個人の能力への過大な期待として組織の中で重層的に現れているという見方ができます。

心理学では、このように同じ問題の(あるいは関係性の)パターンが入れ子の器のように、個人、家族や地域、会社組織と小さいコミュニティからより大きい上部組織に重層的に見られることをさして、問題が「構造化している」もしくは「フラクタルである」と言ったりします。現象として珍しいことではありません。

このように「普通ではダメ」という組織上部の思い込みが強ければ強いほど、その想いについていけない人たちが、今度は必要以上に「(そこまで)頑張れない」自分を無力であると思い込み、無力感からできることすらやろうとしないようにも見えます。「普通ではダメ」だとハードワークをする人の目には、怠惰であるかのように映るのは、この「頑張りたくない」人たちが実際には能力があり、それを使っていないと感じるからですが、心の中ではすでにさんざん自分に高い目標を課していて、それは達成不可能と見通しているのに、他の着地点を見いだせずにいるためその能力を使う動機を失っているようです。

「頑張りたくない」人たちのありようが、「普通ではダメ」「無理をしなければダメ」と自分を追い込むように個人の能力で状況を打開しようとハードワークを続けるやり方に対する、「普通の人でもいいと言ってほしい」というせめてもの反抗だとしたらそれも切ないと私は感じます。

組織としての進化を目指すのであれば、「問題」の原因をいたずらに「個人」の能力に帰さずに、現象面を観察して、繰り返し現れる問題のパターンを組織のシステムとしての問題点として見ることが有効であることも多いです。

そのような見方をしたとき、「頑張りたくない」人たちは、超人間を目指そうとする行き過ぎた「個人崇拝」に対して警告を発しているように思えてきます。このような「頑張りたくない」人たちも安心して力を発揮できる組織は、個人の能力の限界を認めたうえで対応可能なシステム(やり方)を考えることができる組織ではないでしょうか。

そして、そのように組織を変革していけるリーダーは、やはり自らの限界を知り、「ムリ」を自分にも他人にも強いるのではなく、「ムリ」だからどうしようか、という視点で他者と協働できる存在ではないでしょうか。

「頑張りたくない」人たちは、組織の風土(文化)、特にリーダーの「ムリしすぎ」に対して警告を発しているのかもしれません。

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