人間嫌いだと思っていた

「私は人嫌いなんだな」
そう思っていた時期があった。

子供が出来て、家事や子育てに忙しく「妻として、母として、ちゃんとせねば」そう思っていた頃。

「ちゃんとせねば」に憑りつかれていたように思う。

しかし
「ちゃんとせねば」と思うことと「ちゃんと出来る」ということは別もので「ちゃんとせねば」と思っていたからといって「ちゃんと出来ていた」わけでは、ない。

自分が出来ている出来ていないにかかわらず、自分に「ちゃんとせねば」を課していると、人にも「ちゃんと」を課すようになる。

当時は気づいていなかったけれど、どうやら私は ”良妻賢母” で在らねば、と思っていたようだ。

自分が良妻賢母で在らねばと思っていると当然、夫にも良い夫、賢い父を求める。

「私は良妻賢母(ちゃんとせねば)で在らねば、と思っているんだから、あなたも良き夫で賢い父で在るべきよね」

この考えをグイグイ押し付けていた。
もちろん、無意識に。

無意識なので
「おいおい、それは自分の考えを無理やり押し付けているだけで、そんなことされると相手はウンザリするよ」
ということには気づけない。

しかも、「ちゃんとせねば」とは思ってはいるけれど「ちゃんと出来ているわけではない」ので、その出来ていない自分を「ダメな奴」とどこかで責めている。

すると、自分で自分を責めているのと同じくらいか、それ以上にちゃんと出来ていない(私基準で出来ていないと認定した)人を、責める。

後に離婚した元夫だけでなく、父や兄に対してもそうだった。
私が結婚する前に母は他界していたので、私が実家の家事もこなしていたのだが

「お兄ちゃん、なんでいつもトイレの前でくつ下脱ぎっぱなん?」
「ちょっとお父さん!またパチンコ?ご飯のときには帰って来てよ」

そんな調子で常に ”ちゃんとしていない!” と文句を言い、不平不満を垂れ流していた。

父や兄、元夫に日常的に小さなイライラを抱えていたのだった。
(要所要所で大きな怒りも炸裂させていた)

これらの近しい人達に、日常的にイライラを抱えていた私は「自分は、人を愛せない性質なんだ」「そんな私は、凄く冷酷な人間なんだな」そう思っていた。

なので、子供の保育園のママ友たちからランチや遊びのお誘いをもらっても、ほとんど参加しなかった。

地元の友達は私という人間をある程度知ってくれているから、そんなに気を遣わずにいれたけど、新しく知り合う人間関係はメンドクサイと思っていた。

メンドクサイのは “人を愛せない自分” “冷酷な自分” を隠すために気を遣うから。

メンドクサイと言いながら本当は、人を愛せない冷徹人間な自分を知られるのが怖くて、新しい人との関りを持つことはしたくなかったのだな、と今ならわかる。

けれどもっというと、人との関りを持つことを恐れるのは、本性がバレるからではない。
本性がバレたときに ”受け入れられなかったらどうしよう” と思い、恐れるのだ。

「誰がどう思おうと、どうでもいいさ」ということであれば、恐れる必要なんてなかったはずだ。
恐れるということは、本当は人との関りを求めていたのだ。

しかし当時は、人と関りを持つことに自分が恐れを抱くような弱い人間だとは思いたくなくて ”メンドクサイ” にすり替えていた。

そして自分のことを、人を愛せない冷酷な人間として扱い卑下することで、人を愛するということをサボっていた。

私は、この手のすり替えや誤魔化しがとても上手なのだ。

弱くて寂しがりな自分が意識上に上がってきそうになると、そのような自分は瞬時に抹殺して、強がってクールぶって「メンドクサイ」にすり替え、誤魔化す。
その素早さといったら、エゴの仕業なのに神業級だ。
※エゴとは愛の対極の、怖がりで疑い深いもう一人の自分

だから、自分の本当の感情がすぐに迷子になる。

自分の本当の感情とはぐれた私は随分長いあいだ、自分のことを人間嫌いなんだと認定してきた。
さらには心理学を学びだしてからも、巧妙に恐れを感じることを避け「恐れ?なにその感情」というくらいに自分の弱さを誤魔化していた。

が、あるときカウンセリングサービスの母体である、神戸メンタルサービスのワークショップでエライ目に遭った。

ワークショップでは、ロールプレイという手法を使う。
ロールプレイとは役割演技ともいわれる手法で、参加者の何人かに役割を演じてもらい疑似体験を通して心の傷を癒してゆく、というものである。

たとえば、何年も口を利いていない夫と仲直りしたい。
けど、意地を張って自分からは話しかけられない。

というような問題を抱えている場合、ワークショップに参加している、まったく赤の他人の男性に夫役をしてもらい5メートルほど向こうに立ってもらう。そして、歩いて近づく。
というようなことをする。

あるときのワークショップで、私がこのロールプレイをしてもらえることになった。
そのとき自分がどのような話しをして、何の役で5メートル向こうに男性に立ってもらったか覚えていない。
とても慕ってくれていた、元夫の弟役で男性に立ってもらったような気もする。

毎月のようにワークショップに出ていたが、5メートル向こうに立ってもらったその男性は初対面だった。

「ハイハイ、5メートル歩けばいいんでしょ」と思いながら、男性と向き合って立ち、歩き出す。
1歩、また1歩、と進んでゆくうちに、なぜか手が痺れてきた。
「あれ?」と思いつつ、また1歩。

今度は足が痺れてきた。
足の痺れがどんどん上半身にまで上がってくる。
痺れがどんどん体中に広がる。

背中の痺れが、しまいには頭にまで到達し、今度は顔にまで降りてきた。
顔面に痺れが拡がり、最後に視界だけが残った。
が、その視界までも狭くなってきて、なぜか
「早くあそこ(立ってもらっている男性)に行かなければ、死ぬんだ」と思った。
「でも、ここで死んだらみんなに迷惑が掛かる。早く行かねば」と必死に男性を目指した。
あと1歩、もう1歩、と死に物狂いだった。

全身痺れるわ息はあがるわで、必死の形相で近づいてくる初対面の女を、男性はしっかりと受け止めてくれた。
男性からすると、さぞかしおぞましい光景だったろうに。
そして、不思議なことに男性に触れた瞬間、私の全身の痺れが解けて温もりを取り戻し始めた。

そのロールプレイ実習のあと「実は私って怖がりだったのか!?」と、まだ往生際悪く「?」をつけて気づかなかったことにしようとしたが、一緒に参加していた友達(心理学では大先輩)に恐る恐る聞いてみた。

「私ってかなり怖がり?」
「えっ?知らんかったん?笑」

衝撃だった。
色々既にバレていたのだ。
しかも私は恐る恐る勇気を出して聞いたのに、ゲラゲラと笑いながら「それがどした?」くらいの軽い感じでの返しだった。

その笑いには、怖がりでヘタレな私であっても「そんなこたぁどーでもいいがな。恐れなんてみんな持っとるわ」というニュアンスが含まれていて拍子抜けした。
と、同時に救われた気がした。

「そうか!私ってビビりだったのか!ただのヘタレなのであって、人を愛せないわけでも冷酷なわけでもなかったのか」

そう認めてしまうと怖がりな自分が小さくなってゆき、人と関りを持つことを選ぶことが出来る強さを持てた気がした。

もちろん、あの、とんでもなくボロボロで必死の形相の私で近づいても、そこから去らずに待ち続け受け止めてもらえた体験をしたことが、大きく影響していることはいうまでもない。

今は「私って、なんだかんだ人が好きだよな」と思っている。

この記事を書いたカウンセラー

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恋愛や夫婦、浮気、離婚などのパートナーシップから対人関係、子育て、また、死や自己受容のテーマなど幅広いジャンルを得意とする。 女性的で包容力があり、安心して頼れる姉貴的な存在。クライアントからは「話しをすると元気になる」「いつも安心させてくれる」などの絶大なる支持を得ている。