与えるということ

最近、「与える」と言うことについて、よく考えます。
誰かのために何かをする。そうして、それが自分の喜びである
相手のために、自分が何を貢献できるのか?
またまた、大きくは、会社のために、社会のために
自分が何を貢献できるのか?そうして行動をしていきます。
でも、そこには、無理が無くて喜びがあるのです。
もちろん目指すことがあれば、その為の四苦八苦やら
その為の、紆余曲折はあるのだけど、それが苦にはならない。
何が出来るんだろう?何かやれることがあるはずだ。
どうやったらいいのかな?もっと試してみよう。
こんな風な気持ちが心の中に溢れかえっていきます
与えるという事は、とても楽しいことなんです。
でも、実は、私にとって、この「与える」と言うことは
長らくとっても難しい課題でした。
「与える」と言うことと、「犠牲」「補償行為」との違いが
よく解りませんでした。
犠牲と言うのは、誰かのために、一生懸命やっているのだけど
それは、自分の喜びでは無くて、我慢があったり、自分自身は
受け取ることが無いという行為になります。
補償行為と言うのは、始めに罪悪感があって、申し訳ないとか
埋め合わせをするために行なうので、喜びではなく
やらせてもらえて、やっとホットできるような・・・
そんな感じだったり。
どちらも「受けとらない」と言うことになります
どちらも。実は相手のためではなく、自分の心の痛みを
埋めるために行なっていることになるのです
しかしながら、「行動」であらわしている部分は同じでも
心の持ちようで、与えることだったり、犠牲になったり
補償行為になったりする事も大いにあると思います。
たとえば・・・子どもを育てている場面などでは
しょちゅう、揺れ動いていた私がいました。
同じ「子どものご飯を作る」と言う状況であったとしても
子どもが喜ぶ顔を見たくて、子どもの好物をメニューに加えたり
少しでも健康で元気に毎日を過ごしてほしくて、
栄養のバランスを考えたり。
食事の後に、ビタミンが摂れるようにと果物を用意したり
それが、とってもワクワクしながら行なうことが出来る日もあれば
毎日の事となってしまって、ただ、なんとなく仕方がないから
やってるってこともあったり。手作りのものを作ってやらないと
悪い母親になった気分がして、作ったり。コンビニでお弁当を
買ってくることに、とっても罪悪感を感じてしまうから
仕方がないから作ろうと想って頑張ってみたり。
そんな事がたくさんありました。
どれもこれも、人間ですから、持ってしまう感覚だったり
感情だったりします。
良いとか悪いとかでは無くて、そんな事もあってOKなのだけど
「与える」って状態で居たほうが、子どもも私もとっても「楽」
なんですよね。
たとえば・・・・「今日のご飯は、イマイチやわ~」と言われても
与えるって感じの状態だったら。
「そう?味加減?どうしたらええと想う?」と聞いてみたり
今度は、こんな風にしてみようかな~と工夫が生まれます。
でも、作らねばならない!と想い作った料理で「イマイチ~」って
言われると「なに~!こっちも頑張って作ったのに!!!」と
怒りに変換をしてしまう・・・・なんて事もありました。
日常のこんなほんのササイな事でも、そうでしたから
仕事や社会とのかかわりとか、色んな場面でこの揺れる感覚は
本当にたくさんありました。
でも、意識を「与えること」にクセをつけていくと
だんだんと上手になり出来るようになってきたなぁ~と想います。
また、反対に、一生懸命与えれば与えるほど、こちらも
元気になってきたり、反対にこっちが癒されたりすることが
とっても多くなりました。
与えると言う行為は、自分の内側から出て、相手を見る
関心を持つ。相手に興味を持つ。そうして愛する。
自分の力を信頼する。今を生きる行為になります。
今、目の前のこの人が大切だ。
今、目の前のこの人のために、何が出来るのか?
考えてみる。そうして聞いてみる。行動してみる。
是非、取り組んでみてくださいね。
上手に出来る事が目的ではありません(~o~)
目的は、お互いが幸せになることなのですから

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