会いたい人に会える壷

 僕の祖母は、女手一つで実家の料理屋を築いた人ですが、その気質
もいわゆる豪傑と言っていい人で、まるで島田洋七さんの
「がばいばあちゃん」の話のようです。
 そんな祖母にはたくさんの逸話があって、店に脅しをかけにきた、
やくざまがいの男達を一喝した事件とか、試作段階のラーメンをお客
さんが食べてしまった「ラーメン不味い事件」など、紹介したら一冊
の本が書けてしまうのではないかと思うくらいです。
 祖母は、豪快なところだけでなく、人間としての器の大きさも持ち
合わせていた人でした。
 我が家の宗教は、日本ではとてもオーソドックスな宗派の仏教です。
 僕の父も、孫である我々兄弟もお盆とお正月等、節目の時にしか
きちんと仏壇にお参りをしないアバウトな仏教徒ですが
(自慢出来ることではないですけれど)、祖母は、敬虔な信者だった
ように思います。
 面白いのは、それにもかかわらず、祖母は世界にあるすべての宗教
を認めていたことです。
 祖母は、NHKの宗教の時間を毎回観ていたのですが、仏教だけでな
く、キリスト教をはじめとするあらゆる宗教の話について熱心に耳を
傾けて、結局どの宗教も根本は同じだと語っていました。
 さて、そんな祖母の逸話の中でも僕がとても印象に残っているお話
を書かせていただきたいと思います。
 それは、タイトルにあります「会いたい人に会える壷」を祖母が見
せられたという話です。
 これは僕がすでに成人して、祖母が悠々自適な隠居暮らしができる
ようになってからの話です。
先にも書きましたように、祖母は自分の信仰する仏教を大切にしてい
ましたし、人間的にもよくできた人だったので、胡散臭い話には全く
反応しない人だったのですが、ある時、どうしてもやむえない事情が
あり、少し怪しげな団体の本部に行くことになったそうです。
 祖母が案内されたその場所は、とてもしっかりとした建物だったか、
部屋だったそうで、中にはきちんとした方が、なにやら宗教めいた話
を祖母に向かって丁寧に解説をしてくれたそうです。
 祖母はこの種の話を聞いても、自分が納得できることは素直に聞く
し、納得できないものは最初から相手にせず、きっぱりと「この部分
が矛盾している」と言える人でした。
 そうした祖母の態度をみて、その相手の方は、話を切り上げて、
祖母のところに大きなりっぱな壷を運んできたのだそうです。
 そして、この壷について、説明し始めました。
「この壷は不思議な力のある壷です。
この壷をのぞくと、会いたいと
願う人に会うことができるのです。

「あなたも会いたいと思いながら会えない人がいるでしょう。その人
にもう一度会いたいと思いませんか?。そう思ったら、この壷をのぞ
いてみてください。必ず会うことができます。

 さて、その時、僕の祖母はどうしたと思われますか?
 もし、あなたの目の前にこうした壷が置かれたら、
 あなたはどうしますか?。
 
 会いたいと願っていても、会えない人がいるとしたら。
 例えば、もう亡くなってしまった大切な人がいるとしたら。
 事情があって、会うことができなくなっている
 大切な人がいるとしたら。
 僕だったら、のぞいてしまうかもしれません。
 僕は、親しい友人を何人か亡くしています。
 また、会いたいと思ったことはあるけれど、今どこにいるのか調べ
ようがなくて会えずにいる人もいます。
 そうした人の顔を見てみたいと思うのは、自然な気持ちである気が
します。
 祖母にはたくさんの亡くなった親しい人がいました。
 また、会いたくてもどうしても会えない人がいました。
 その人の顔が見たいと思う強さは、僕の思いをはるかにしのぐ
大きなものだったと想像します。
 波瀾万丈な人生を送ってきた祖母だからこその強い思いがあった
はずです。
 さて、祖母はどうしたか。
 祖母は、壷を持ってきた人に向かってこう言ったそうです。
 「わしゃ、瞼を閉じればいつでもその人に会える。
  壷なんかいらんわえ。」
 祖母はそのまま外へ案内されたそうです。
 祖母もかなり高齢になり、今ではこの話の詳細はよくわかりません。
 けれど、折に触れて思い出す、僕の大好きな逸話です。
 祖母は、若いときは苦労に苦労を重ねてきましたが、父に店を譲り、
我々孫が結婚して独立してからは、口癖のように「わしゃ幸せじゃ」
と言っていました。
 毎日、好きな畑仕事をしたり花を育てたり、曾孫と遊んだり。
 折々に集まってくると14人を超える大家族になる自分の子孫達と
食事をしたり旅行に行ったりする機会には、いつも「本当に自分は
幸せだ」と言っていました。
 幸せを感じられる時、人は自分自身を愛することができます。
 そして、自分自身を信じることができるようになります。
 祖母が壷を前に語った言葉は、自分を信じることができていたから
こそ、言えた言葉だったのではないかと思うのです。
 人は、自分を信じることがなかなかできません。
 そのために、自分が幸せになれることを信じることができなくて、
意識的にあるいは、無意識に、幸せになれないような言動を起こした
り、問題を作り出してしまうことがあります。
 けれど、逆に言えば、自分を信じることができるようになれば、
自らの人生は大きく変わるとも言えます。
 祖母が自分を信じられるようになったのは、自分の人生を生きて
いく中で、その宗教観や商売を営む上で培った人生観から築き上げて
きたものです。
 どんな方法だっていいと思うのです。
 そのひとつがカウンセリングであると僕は思っています。
 あなたもやってみてください。
 目を閉じて、会いたい人に思いをはせましょう。
 その人はあなたの目の前に現れましたか?
 どんな顔をしてあなたを見ていますか?
 その人はどんな言葉をあなたにかけてくれますか?
 誰だって会いたい時に会えるはずなんです。
 それができない時、
 それは自分が信じられない時なのかもしれません。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

名古屋を軸に東京・大阪・福岡でカウンセリング・講座講師を担当。男女関係の修復を中心に、仕事、自己価値UP等幅広いジャンルを扱う。 「親しみやすさ・安心感」と「心理分析の鋭さ・問題解決の提案力」を兼ね備えると評され、年間300件以上、10年以上で5千件超のカウンセリング実績持つ実践派。

4件のコメント

  1. 今 会いたい人がいます。
    でも 会えなくて 悲しくて つらくて 
    どうしていいか 判らなくなっていました。
     
    自分に自信がなくなって 信じることができなくなっていてました
    瞳を閉じて  今なら 少しだけ その人の面影を 辿れるように思います。
    時々 このサイトに 遊びに来てもいいですか?
    心に雨が 降ってしまった時にでも。。。

  2. こんにちは。
    素敵なお話を、本当にありがとうございました。
    素敵なおばあさまです。
    私は現在、別居中の夫に会いたいです。
    結婚1ヶ月目で夫が家出、3ヶ月目に離婚調停。
    来月1月には子どもも生まれます。
    夫婦問題が多く、「なぜ離婚しないのか」と周りは離婚を勧めますが、それでも私は夫に戻ってきてもらいたいです。
    今月末に2度目の調停を控えておりますが、私は自分を信じたいと思います。
    双方代理人を立てており、離婚回避の可能性は皆無だと言われております。
    それでも、悔いのないように・・・
    最後にもう一度、素敵なお話をありがとうございました。

  3. ずっと好きで、逢いたいのに、逢えなくて、以前は頻繁にやり取りしていたのに、今ではなかなそれもなくて。
    辛くて、もう私の心の中から追い出そうと思っても、なかなか出て行ってくれません。
    私という身体と心が葛藤しています。
    なんとなく「逢いたい人にあいたい」と検索して、この題名が気になり訪れましたが、文章を読んで涙が溢れてしまいました。
     「わしゃ、瞼を閉じればいつでもその人に会える。
      壷なんかいらんわえ。」
    なんと、心強い言葉なのでしょう。
    「幸せを感じられる時、人は自分自身を愛することができます。
     そして、自分自身を信じることができるようになります。
     祖母が壷を前に語った言葉は、自分を信じることができていたから
    こそ、言えた言葉だったのではないかと思うのです。

    本当に、そうですね。私は幸せと感じていた気がするのですが、自分自身を信じられていないのかもしれません。
    自分自身を信じるって難しいです。
    でも、頑張ってみようと思いました。
    とってもやさしい、すてきな文章、ありがとうございました。

  4. とっても素敵なお話です。
    でも、会いたい人がいる人は実際に実物の本人に会いたいのです。
    触れてみたいのです。
    夢の中で会うだけじゃ虚しいだけです。