猫的生活の勧め

我が家には猫が三匹います。

もともと野良猫だった親猫が、家の近くで子猫を産みました。
子猫を連れてくるともれなく親猫もついてきました。

この親猫は黒いのでクロちゃんと呼ばれていました。
クロちゃんが我が家に来るようになったのは、クロちゃんの旦那のパンチに連れられて我が家に来だしたからです。

もともと飼いたいなと思っていたのはパンチの方です。
鳴き声がとても可愛いかったからです。
手懐けようとミルクをやったら飲みに来るようになりました。
かなり近くまで来るようになって、撫でてやろうとすると、目にも止まらぬ速さで猫パンチが出てくる。
そのあまりの速さにそれ以降パンチと呼ばれるようになりました。

最初はパンチだけで我が家に来ていましたが、ある時からパンチとクロちゃんが二匹でよく顔を出すようになりました。
一日のうち、何時間かを我が家の庭で過ごすようになりました。

数ヶ月して子猫出産騒ぎがあって、クロちゃんと子猫が我が家に引き取られました。
パンチはというと、それ以降我が家にくることはありませんでした。

最初の日、わたしたちとクロちゃんの間に、なんとも言えない緊張感が漂っていました。
クロちゃんのわたしたちを見る目にすごい警戒心がありましたし、わたしたちはわたしたちで、クロちゃんがとんでもない行動に出るのではないかという警戒心。

お互いが、警戒心を出してそれはそれは緊迫した感じだったことを覚えています。

飼った当初は、何回猫パンチを出されたことか。
流血騒ぎも何度かありましたが、今となって、そういうことはなくなりました。

いま飼っているのは、クロちゃんとその子猫二匹の三匹です。
猫パンチをたまに出すのが一匹いますけど、それも原因はわかっているので、基本、いい関係を築けていると思っています。

猫との生活が10年になりますが、これは見習いたいなあと思うことがあります。

猫はこだわりません。
猫にはお気に入りの場所というのがあります。いつもいるところ。くつろげる場所。
お気に入りの場所がぼくが座るソファだっりすると猫はぼくにのけられるわけですね。

のけられても、争うこともなく、スーッとどこかに行って、何事もなかったようにまた別の場所で寝そべっています。
最近は、学習能力が出てきたのか、ぼくの顔を見ると自分からスーッと場所を移動していきます。
ここでないとダメとか、ここは自分が先に場所をとったとか主張しません。

猫は起こったことを受け入れる名人です。
受け入れた現状の中で何が一番快適かを選んでいるように思います。

受け入れるとは、起こったことをとやかく言っても仕方がない。終わったことだから。
終わったことに固執するより、いまどうすることが一番いいことなのかを考えているように思います。

さて、ここでぼくに起こったある出来事の話をします。

先日、電車に乗っていると、急に音楽が聞こえてきました。
けっこう大きな音なのです。
うるさいなあ、と言う感じで音のする方を睨んでいる人が何人かいます。
誰かのスマホからだと思います。
操作ミスかなあ、と思っていたのですが、その音楽がなかなか止まりません。
操作ミスか故意かも定かではないんです。
猫ならどうするかなと、考えてみました。
すると、少し行動が変わりました。

いつものぼくならこう考えます。

操作ミスであろうが故意であろうが、悪いのは音楽を鳴らしているそいつ。
そいつが悪いのだからなんとかするのもそいつである。
そいつが鳴っている音楽を止めるべきだ、と。

ところがこの考え方を突き詰めると、そいつがなんとかしようとしない限り、ぼくは、聞きたくもない音楽を、我慢して、ずーっと、聞き続けないといけない、のです。

ここで猫的思考をするとどうなるか?と考えました。

猫なら、自分が悪くなくても、不快な目にあっているのは自分だから、もっと快適な場所に移動しよう、と思うと思います。

つまり快適な車内で大きな音楽が鳴り出して不快な車内になっているのに、自分が悪くないのにと固執すると不快な車内に居続けないといけない。
自分に原因がなくても、自分が乗っている車両を変えるという行動を取ることで、不快な状況を快適にすることもできるのです。

猫は意地をはりません。
誰が悪いとも思いません。
いまより快適になれるのであれば、自分から進んで快適な場所に移動します。
自分が悪くないのに移動させられたとは思っていないでしょう。
不快だから、自ら快適な場所に身を移したと言うことだと思います。

正しいのは自分で、悪いのはあっちなんだから、どうしてわたしが移動しないといけないの、と思うと、我慢するしか方法がない。
確かに、正しいかもしれないが、結果は不快な状況は何も変わらないのです。

猫って、実に自由です。
執着しません。
正しい間違いも判断しません。
ただ、快適な方を求めいる。
そのためなら自ら動くことも辞さないのです。
自ら動いたことで、動かされた、という変なプライドを持ち出すこともないのです。

ぼくは、うちの猫ちゃんたちならどうするかなと考えて、そうだ自らがこの不快な車両から、快適な隣の車両に移ればいんだと思って移動したら、音楽は聞こえなくなり、その嫌なこともすぐに忘れ去ることができたのです。
なんとかしろという怒りが湧いてくることもありません。

こうやって、猫は、嫌なことをいつまでも引きずらないのでしょうね。
嫌なことに遭遇したら猫ならどうするかな?と考えるといままでと違う行動ができるかもしれませんね。
猫は、意地を張らず、快適を求めて行動できる達人だと思います。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

職場や家族間の対人関係、パートナーシップ、自己肯定感の実現を得意としている。欠点としか思えなかったことを長所に変えるものの見方の提案と、楽になるためにの考え方の提案を行う。気づきを得てもらうことで「腑に落ちました」「そう思っていいんですね」「安心しました」と好評である。