「もし悔いが残っていることがあるとしたら、生きている時に「ありがとう」って言えなかったことでしょうかね」
  知人の美容室オーナーが、お父さんが亡くなったことを話してくれた時のことだ。
  
  お父さんが病気で入院したのは最近のことで、けれど、先月、病状は悪化し危篤となり、
 1週間後に、亡くなれたのだ。
  その1週間、オーナーはずっと病床で父親を看病していた。
  兄弟の中で、唯一、自由が利く職業だったから、それは本当に幸運だったと言いながら
  その時間は本当に貴重な1週間だったと話してくれた。
  父親は彼の父親は、自ら事業を興した人だった。
  とても苦労をした人だったという。
  そして、一心に仕事をする人だったという。
  オーナーもまた、自ら事業を興し、仕事を一生懸命やってきた。
  その原点は、やはり父親だった。
  1週間の間、あらためてそれを思い出した。
  そして、父親が今までしてくれたこと、自分達にかけてくれた愛情について、思い出し、どれほど父が愛を持って接してくれたかを感じた。
  それは、父親にお礼がいいたいとう思いになっていった。
  けれど、なぜか言えない。どうしてか言葉にできない。
  「ありがとう」
  それが言えたのは、心音が消えたその瞬間だった。
  オーナーの話を聴きながら、もし、自分の父親が倒れて、その最期を看取ることになったらどうするだろうと思った。
  そんなこと、具体的に考えたことがなかったことに気がついた。
  僕の父親は、愉快な人だし、話す時は大変饒舌になるが、自分の真の心の内を語ることは少ない人だ。
  
  父親が今まで苦労してきたこと、本当に辛かったこと、そして、僕自身が今まで生きてきて辛かったこと、してほしかったこと。
  そうした会話をきちんとしたことは一度もなかった。
  
  結婚式で、両親に感謝の手紙を読むかどうかについて、花嫁はいろんな意味で迷うというが、そうした何かに背中を押してもらう機会がないと、感謝の言葉というのは、なかなか言えないのだと改めて感じた。
  
  こんなに言いたいと思っているのに。
  
  熱い熱い何にも例えられないほどの思いなのに
  どんなに心の奥深くにしまってあっても、それに気づいてしまったら
  どうしようもなくなるほどの思いなのに
  
  それを表に出すことが怖いのだ。
  
  そんなことをしてしまったら、今まで恨み辛みだと思い込もうとしていたものが
  崩れてしまう。
  誰もが、自分が辛い現状を誰かのせいにしたいと思う。
  そのために、誰かのことを恨んでいたいと思う。
  
  けれど、その誰かだって、その時のしかたのない状況や心情があるかもしれないのだ。
  ましてや、それが親ならば。
  子を愛していない人などいないのだから。
  
  僕達は、誰もが両親に文句を言いながら生きているのかもしれない。
  そうすることで、今の自分でいられるから。
  でも、本当は、そうしているのは他でもない自分自身だ。
  文句は他の誰でもない、実は、自分自身に向かっての言葉なのだ。
  
  そして、そんな理屈をつけて、本当に大切なこと
  「愛されていたのだ」ということを感じないようにしているのだ。
  
  死の間際というギリギリの瞬間がこなければ言えないほどに
  その思いは深い。
  
  けれど、文句を感謝に変えたとき、それは両親だけでなく、自分自身をも救う。
  
  
  「亡くなった瞬間であったとしても、「ありがとう」の言葉は、きっとお父さんに伝わりましたよ」
  僕はオーナーにそう伝えた。
  オーナーは、笑顔でうなずいてくれた。
  
  ひとつのメイクが、ひとつのカットが、その人の人生を変えることがある。
  「美」と通して人々の心を豊かにすること。
  それを自分の人生の使命と語るオーナーは、それも父親の意志を継いでいるということなんでしょうね、と語った。
  お父さんの力を得て、そのビジョンは、ますます実現に近づいていくだろう。
  
  
  僕もこの夏、父と飲みにいこうと思う。
  言えるかどうかはわからないけれど、「ありがとう」の言葉を胸に。
  
  
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