自分を大切にすることの意味

「自分をもっと大切にしよう」
「自分を大切に出来ないと、人を大切に出来ないよ」
みたいな言葉、皆さん一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

それらは、自分が幸せに生きるための方法として見聞きすることが多いと思うのですが、私はこれを聞くたびに、
『自分を大切にって、一体どうやったら良いわけ?!』
と、長い間分からずにいました。

自分にご褒美をあげるとか、やりたいと思う事はとりあえずやってみるとか、十分に休養を取るとか、良いと思われるものを色々とやってみるのですが、なんかしっくりきません。
それどころか年を追うごとに生きづらさが増すようになってしまい、自分一人ではどうにもならなくなって約10年前に初めて、カウンセリングを受けることにしました。

その当時複数のカウンセラーさんから、
「子どもの頃の自分を癒してあげたらいいよ」
「子どもの頃、親に言えなかった言葉を言えるといいよ」
というようなこと言われたのですが、私はそれらを華麗にスルーしていました。
『そんなこと、今更振り返ったって意味ないよ。もう終わったことなんだし』
『確かに寂しいとかあったけど、それを今感じたところで辛いだけだからもういいよ』
その場では「そうなんですね~。やってみますね」などと言っていい顔をしていましたが、心の中ではこんな風に思っていて、実際にやろうとはしませんでした。
これらの提案をやらなかった理由は他にもあって、
『そんなことを親に言ったら、親自身が自分を責めるんじゃないか』
って思ったんですよね。もしかしたらそれが、一番やらない(やりたくない)理由だったのかもしれませんが、それくらい、抵抗感満載だったんです。

これってどういうことかって言うと、
【私は親を責める気満々です】
【それだけ親に怒ってます】
ということですよね。

でも私は、大人になった今、もう親を責めるつもりもないし怒ってもいない。
昔のことを持ち出してあの時はあーだった、こーだった、と言うのは大人げないし意味もない。
だから、そんなことは忘れて前に進もう。

この時点ではまだ、常識的で良い人でいたい。カッコつけしいの自分がいました。
しかし、カウンセラーさんが子ども時代の気持ちを・・・という理由は、ちゃんとあったんです。

+  +

私が育った家は夫婦で自営業(食堂)をしていて、両親はいつも忙しく働いていました。
日曜・祝日にも休むことはなかったし、夕食は基本、お兄ちゃんと二人か私一人で食べるのが当たり前だったので、夏休みの家族旅行とか、夕食の一家団欒とか、うらやましいと思う以上に
【うちでは望んでも無理】
と思っていました。
また、もしそれらを欲しい!って言ったら、きっと困った顔をされるに違いない。そんな顔を見るくらいなら、諦めて言わない方を選んだ方が何倍もマシだ、とも思っていました。
それだけ懸命に働いても裕福には程遠く、6畳と4畳半の収納がほとんどない2部屋に家族4人で生活し、思春期になっても自分の部屋を持つことも夢のまた夢で、
『自分だけの個室が欲しい、日曜日には旅行も行きたいし、家族4人でゆっくり美味しいものを食べたい』
といったことは口に出してはいけないこと、望んではいけないことになっていきました。

その後私は看護師になって1人暮らしをはじめ、お給料も自分の好きに使って良い状態となり、日曜祝日はお休みでないことも多かったですが、連休をとって友人と海外旅行に行ったり、彼とドライブに行ったり、好きなものを手に入れることが出来るようになりました。

そうなるとどうなるか。

『今こうしてお金にも困っていないし、彼も友人もいて仲良くもしてもらえる。欲しいものが手に入っている。』
そう思いますよね。

なのになぜか、生きるのが時々無性にしんどくなるし、生きづらさも増してくる。
その理由が分からないので、余計に混乱するし不安も感じていました。

そんな時に、よく母から言われた言葉が脳裏に浮かんでくるんです。
「あんたは恵まれているんだから。もっと感謝しなきゃダメよ」と。

確かに恵まれているし、持っているものも沢山ある。
なのにこんなに苦しいのは、自分の頭がおかしいのだろうか?感謝も出来ない自分は、なんて卑しく、図々しく、ダメな人間なんだろう、と自分を沢山責めるようにもなりました。

心の世界を勉強してから知ったことですが、自分を責め続け自己嫌悪が強くなってしまうと、それを外の世界に映し出してしまい(これを【投影】といいます)、自分を守るために攻撃的になってしまったり、自分を責めるような人が増えたりして、人間不信になっていく。
その結果、「もう誰のことも愛さない」と、孤独を深めていったりするようなんですね。

私も、『こんなダメな自分のことは誰も愛してはくれないし、誰かを愛そうとして傷つくのは嫌だから、もう誰のこともあてにするのはやめよう』と思うようになりました。

こんな風に、なぜか分からないけど私は、めちゃくちゃ【罪悪感が強い人】だったみたいなんですよね。

【罪悪感】というのは、自分は罪深く悪い存在だ、を感じてしまうことを言います。

気付くとすぐ「ごめんなさい」と言っていたり、何かよくない事象が起きると、「私のせいでこうなった。もっと私が○○しておけば良かったのに」などと、多くを背負いすぎる。

そんなところからも、多くの罪悪感を持っていたことが分かります。

そしてもう本当にどうにもならなくなって、カウンセラーさんの言うことを少しずつ(笑)聞くようになり、子どもの頃の自分の気持ちと向き合うようになる中で、こんな問いかけをするようになっていきました。

【本当に私がしたいことは何だったのか?】
ということです。

私は確かに、早く大人にならないといけなくて、寂しい思いもしたし甘えたい気持ちもありました。
それらを叶えてくれなかった親に、一杯文句もありました。
でも、それをぶつけて親を責めることや、ごめんなさいと言わせることは嫌でしたし、自分がごめんなさいを一杯言ってきて苦しかった分、親にそれを感じて欲しくはなかったんだとも思います。

それよりも私がしたかったこと。それは、
【愛する人たちと、愛で繋がること】
でした。

+  +

愛するってどういうこと?っていうそもそも論もあると思いますが、
【相手を思いやる、気遣う、声掛けをする、挨拶をする、好きな料理を作ってあげる、頼みごとをきいてあげる(頼みごとをする)、話を聞く(聞いてもらう)、反応する、一緒に笑ったり泣いたりする、感謝する(感謝を受け取る)・・・】

日常生活で愛を感じ繋がる行動というのは、多岐にわたって存在するんだ、ということは今では分かりますが、罪悪感が大きすぎると、これらのことがちっぽけに感じてしまう(こんなんじゃ、私の大きな罪は許されないのよ!みたいな感じ)。
そんなことが起こっていたように思います。

【本当は大きな愛を持っている自分がいて、それを使って愛で繋がれたら、自分も周りも幸せになるって知っているんだけど、何らかの理由でそれがうまく使えていないって思うと、その分だけ大きな罪悪感を背負いやすくなるんだよ】
ということも教えてもらいました。

大きな罪悪感を背負っている人は、大きな愛を持っている人だ、ということのようです。

『自分を大切にすること』は、
【本当に自分がしたいことって何だろう?】
この声に、ちゃんと耳を傾けてあげることであり、
正しいとか間違っているとかの判断は抜きにして、受け止めてあげて実践する勇気を持つ。
そんなことかなぁ、と思うのです。

そうなると、まだまだやりたいことってあるよな、と改めて感じる今日この頃の私なのです。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

『日常でも使える具体的なアドバイス』を提供し、お客様が気付いていない才能・魅力に光を当て、 自らが輝いていけるような、パワフルな”応援力”を備えている。 圧倒的な受容する力を持ち、心理面からの分析・アプローチと、直観力を使ったバランスが良いカウンセリングスタイルが好評。