”今日は死ぬのにとてもよい日だ”
 これは、ナンシー・ウッドという人の詩です。
 彼女の詩は、ネイティブ・アメリカンの「生死感」を伝えています。
 (ま、私も雑誌で知った程度なので、偉そうには語れないけどね。^^;)
 一見、「はぁ???」ってなるようなこの一遍の詩が、なぜだか、私から離れません。なので、みなさんにも紹介しますね。
   今日は死ぬのにとてもよい日だ。
   あらゆる生あるものが私と共に仲良くしている。
   あらゆる声が私の内で声をそろえて歌っている。
   すべての美しいものがやってきて私の目のなかで憩っている。
   すべての悪い考えは私から出ていってしまった。
   今日は死ぬのにとてもよい日だ。
   私の土地は平穏で私を取り巻いている。
   私の畑にはもう最後の鋤を入れ終えた。
   わが家は笑い声で満ちている。
   子どもたちが帰ってきた。
   うん、今日は死ぬのにとてもよい日だ。 
最近、知り合いが増えた分だけ、残念な事に、「お葬式」の機会も増えました。
 自分の父親が死ぬまでは、全くと言っていい程無縁だったし、「人の生き死に」について、考える事もありませんでした。
ある意味、”大人”になった訳です。
 ”人は誰でもいつかは死ぬ。
  それまでの「生」の質をどれだけ良いものにするのか ”
 「パッチ・アダムス」という映画の中で、こんな感じのセリフがあったんです。
 これも、私から離れない言葉の一つです。
 世界中見渡してみれば、今日の、今の一瞬にさえ、どこかで誰かは死んでる訳で、でも、今日も「私は生きている。」
 父親が自殺してしまったあの日から「そっか、私は”生かされてる”んや」と、思うようになりました。
 何気なく、ボ~、っと過ごしてしまった今日でさえ、大事な一日だったんだ。
 って。
 ・・・でもね、な~んか、しんどいし、重たかったんです。
 ”生かされてる”ってのは。
 (ま、思いっきり「受動的」だしね。)
 んじゃ、”生きる”ってなんなんや???
 ど~いう事やねん!ナルイヒロミ~!!!ってなってました、ここ最近<^^;)
 北端さんから、「ナルイちゃん、”ちょっと一息”にまた書いてみない?」ってチャンスを貰えてから、漠然と「”生きる事”にしたいな~。だってナルイヒロミの今のテーマ、まんまやから。」っと思ってはいたものの、さっぱり浮かばず、「なんなんや???」は、深まるばかり(^^)
 そりゃもう、大変ですよ。(>_<)
 でもね、フッっと思い出したのが、最初に書いた、ナンシー・ウッドの詩でした。
 「あ~、コレだ。こう言う事やったんや~。」って感じました。
 そりゃ~、どうりで、(本当に)一回しか目を通していないこの詩が、頭から離れない訳ですよね???
 最初、私はこの詩を”死に方”だと考えてたんです。
 でも、違ってた。
 「今日は死ぬのにいい日だ」なんて思える、”最高の日”を送りたいと私は思います。
満たされた、平穏な日々を送りたいと思います。
 そういう”生き方”をしたい!っと思います。
 同じ、”生きてる”のならね。
今回は、ちょっと哲学チックな、ナルイヒロミでした(^^)
 
 