母 -家族への感謝と共に-

カトリックでは8月15日は「被昇天祭」といって、聖母マリアがその人生の
終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという出来事を記念する祝い
日なんだそうです。
母は幼少の頃にカトリックの洗礼を受けていて、その洗礼名を‘ベルナデッタ
’といいます。
彼女が嫁いだのは、22歳。
当時では早くなかったのかもしれませんが、今、彼女の当時の写真を見ると屈
託なくやや幼い母がいます。
しっかりもの、頭がいい、スポーツも出来て、と、祖母からすると自慢の娘で
あった母。
洗濯物を干しながら、笑顔をファインダーを覗く父にまっすぐに向けているの
が、よく分かります。


この、「被昇天祭」のその朝に、母は天国へと旅立ちました。
神戸の海を見晴らすことができる病室で、汽笛の音と鳥のさえずりを聞きなが
ら。
この日は、実は大阪で行われていた神戸メンタルサービス主催のワークショッ
プ5日間のうちの4日目。
私が母の病状も気になりながらも、このワークショップには参加を決めてお
り、3日目のお昼に家族に呼び戻され、母の旅立ちを見送ることになりました。
妻を亡くした瞬間に、解き放たれると共に泣き崩れる父。
最終的に介護は、ほぼすべて父がやってくれていました。
昨晩は、あまりの介護疲れが目に余り、母の病室の隣の部屋で仮眠をとっても
らっていました。
訪問看護に来てくださっていた看護師さん、その晩の当直の看護師さん、お世
話になった先生方、清拭をしてくださるヘルパーさん、私たちにゆっくりたっ
ぷりの時間を頂きながら、母の顔を見に来てくださる関わってくださった医療
関係の皆様。
その方たちの協力を頂きながら真っ先に私が探そうとしたのが‘神父さま’。
10代の後半からでしょうか、母の想いの側にいました。
何度も聞かされていたのが、「私は日本式のお墓はちょっとコワいのよね、骨
になったら教会にいたいな」という言葉。
いちばん。
私が側にいなければいけない、と、思っていた時期。
つまりは、父と母の間で、葛藤だとか隙間だとか、夫婦ならではの問題があっ
たであろう時期。
私たち、日本人にとって「お墓」というのは格別の想いのあるものだと思いま
す。
「お墓に入りたくない」と言った母の気持ちのうらにどんな苦労があったのか
、宗教の問題だけではない感情を多少なり察することができる年になっていた
ようです。
わたくしも無宗教のようなところがあり、よく、理解していなかったのですが
冒頭に書かせていただいた「被昇天祭」、カトリックの中では1年で1番大切
にするお祭り、とのこと。
地の利がない場所で、いまの地元の教会になんども朝早くから電話をかけ、留
守電にある携帯電話を聞きだし、状況を理解していない私は超多忙である神父
様に懇願。
母の願いなんです!と。
出張まで取りやめて、来てくださることとなりました。
式場も同時に探したのですが、ほとんどの式場に断られたものの、一軒のご担
当の方が「お気持ちは理解できます、場所は押さえます、申し訳ないのだけど
聖職者だけはそちらで手配してくださいね、そうしてくださればなんとかしま
すので」と。
そして、バタバタと1昼夜をこえ、母のための2日間。
百合の匂いに満たされたお部屋に、石原裕次郎の音楽。
急遽駆けつけてくださる方々。
母の顔を見た、ほぼ全ての方が「よく頑張ったね」と褒めてくださいます。
全く始めて、母とあってくださった方もたくさん居たのに。
大事にだいじに、さいごにはつれあいのめんどうをみた父は、喪主としての言
葉を求められ。
始めは式場の方が用意してくださった、文章をそのまま読むつもりでいたよう
でした。
ただ、彼はその短い文章の書かれた紙を途中で手放し、自分の言葉で語り始め
たのです。
このような形式のお葬式は、彼女の願いであること。
その願いをかなえようと、娘(ワタシですけど)が尽力したこと。
またそれに応えようとしてくださった聖職者の方への感謝。
そして、なによりも、一生かけて、いのちをかけて、好きでいてくれた母への
感謝。
父の実家には、それぞれ感情の複雑さがないわけではありませんでした。
戦前にときおりあったような、葛藤が解消されていないご親族もいらっしゃい
ました。
正義といえば全員が正義なのでしょうが、それゆえの想いも見受けられました。
その矢面にたっていたのも、昔、母でした。
そして、父は、この場面で完璧に母の味方であることを、そして彼女を選んだ
ように思います。
そして、ムスメがしてやられたな、と思ったのは、この瞬間。
私は随分と、母の性格を誤解していたようです。
忍耐強くシャイで優しく、はがゆいぐらいに奥ゆかしいところがある・・・。
と、思っていましたが。そういう側面もあるので私は自分がわがままであるこ
とを責めていました。
それこそ母の臨終直前まで大好きなワークショップに出るような行為を内面で
は一部責めていたのですけれど。
全ては彼女がしたかったことなのだ、と、気づいたのです。
父に充分に面倒を見てもらう晩年も、父からのこういう愛情も、生き方も、そ
して逝きかたも、全て。
私は、彼女のやりたかったことを手伝っただけだったのだと、と。
そして、彼女はやっぱりこの儀式をもって、いのちをもって、私に本当の母の
願いを伝えてくれたように思います。
「好きなように生きなさい、思うように羽ばたきなさい」と。
葬儀の際。
まだ社会に少し慣れていない姉をしっかりと援助してくださったのは、お友達
とそして式場のスタッフの方。自宅療養の長い姉自身、自分が行くと家族や親
族に気を使わせるのではないかと思っていたようですが、式場の方が式の最中
に少し不安がる家族にピッシリと言ってくださいました。
「私たちが、お姉さまにお母様をちゃんと見送らせてあげます。」と。
喪の儀式、というのはとても大切で、充分にさせていただくことが遺されたも
のの後の人生に大きく影響すると考えています。だからこそ、私も祈るような
気持ちで姉を見守っていました。
その気持ちを理解してくださったこと、感謝しかありません。
プロとは、素晴らしいなと思いました。
そして、式も終わり。
徐々に日常に戻り。
それぞれの‘喪’の時間をゆっくりといただいています。
父は、母と毎日対話をし。
姉は充分に哀しみを感じながらも、母の好きだった風景にお花を買ってきて。
私はというと、誰よりも淋しがりなのでしょうか、仕事に出来るだけ早く戻り
たがり。
実は、がんの患者さまの会だったり、がん患者様に対するグループカウンセリ
ングの養成講座だったり、そこここで、また、母との体験をお話させていただ
く機会を予定通りにこなしています。
これもひとつの私の‘喪’の過ごし方なのだと思います。
がんの患者さまの会で、聞かれたことがひとつ。
折りしも選挙の近辺で、介護保険の話題に絡め、あなたがた若い人たちは(質
問してくださった紳士は親世代でしたので・・・。)親の介護が出来るのか、
する覚悟はあるのか、と。
たまたま、うちの母の場合は。
ほぼさいごの数週間まで、トイレに自力で行ってましたので。私がオムツをか
えるような機会は、たった数回だったこと。母はまだ、しっかりしていたので
、当然のごとく、それを恥ずかしい気持ちであったこと。
申し訳ないのだけど、換えないわけにいかないし、自分がイヤだと言うわけで
なく‘赤ちゃんの時にしてくれたのよね’と思うと愛おしく感じたこと。
ただ、愛する人なら大丈夫だけど、そうじゃなかったらどうなんだろう、と考
えたり。老人だから、そういう状況だからといって、デリカシーがないのはな
んだか辛かったり、といろいろ考えたことを伝えてみました。
確かに、この数ヶ月、母が癌の転移を告げられ余命を宣告されてから、直面す
ることは初めてのことばかり。
年代としては、考えておいてもよいのかしらと思います。
学んだことは、準備は物品ばかりでなく(物品も必要なのですが)それは生き
ている間から、いかに愛するか、そして愛される人であるか、それもとても大
切なのでしょうね。
母を想い、母のために。
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