自分と分かち合う幸せ

皆さんは、どんな時に幸せだと感じますか?
何が、あなたの幸せでしょうか?

今の私は、「朝に一杯の温かいコーヒーを飲むこと」「誰かと雑談してる時間」だと答えます。
でも、昔の私だったらきっと、全然違う答えを返していただろうなと思うんです。

「仕事で役に立つこと」
「結婚すること」
「成功すること」

そんなふうに、何かを現実的にカタチにしていくことが幸せなのだと信じて疑っていない時代がありました。
でも、実際に何かをカタチにしてみた時に幸せだったのかと聞かれると、私の答えはNOでした。

もちろん、嬉しいとは感じるんです。
家族や友達、パートナーも喜んでくれますし、たくさんの祝福をいただきました。
それは、とてもありがたいし嬉しいのです。
でも、その成功の瞬間を「幸せ?」と聞かれると、私は素直に幸せとは言えませんでした。

誰しも、自分にとっての成功に必ずたどり着けるわけではありません。
私も友達が仕事で成功したり、結婚したりして「羨ましいな」と思ったことは数知れず。
人と比べて「私なんて何もできてない」と言う劣等感を隠して、貼り付けたような笑顔で人の輪の中にいることしかできない自分のことが情けなくて大嫌いでした。
そして、嫉妬しながら、そんな自分のことを嫌いになりながら、周りで同じような感情を抱えながらも必死になっている人を見ると、そのしんどさも何となく共感できて苦しくなっていたりするわけです。

だからこそ、手に入れた成功が幸せかと言われると手に入れた瞬間に悩ましくなるのです。
だって、それだけ足掻いて手に入ったものは、結局ずっと丁寧に磨いて維持し続けないといけない骨董品のようになってしまったからです。
骨董品じゃなくても、何かで成功するとずっと走り続けたり、もっとより良くならなくてはいけないと言う感覚を持ったりして、喜びと怖さの感情のジェットコースターを行ったり来たりするような感覚を感じる方もいたりするんじゃないかなと思います。

今思うと、当時の私は自分にとって幸せと感じる時は、どんな時なのかもよくわからずにいました。
それよりも、「結果が出せない自分に何か悪いところがあるんじゃないか」「周りの人は頑張っているのに、自分は頑張っていないんじゃないか」と心の中で自分を嫌いになるような言葉ばかり繰り返していたように思います。
そして、いつの間にか幸せと言うものを、自分を好きになるためには欠かせない道具のようにしていた気がするのです。

でも、何か結果が出ても「自分が嫌い」と言う心の声は相変わらず残ったままですから、結局、思ったような結果が仕事で出ても、パートナーができても、自分が嫌いな自分に、それが本当に相応しいと思えなかったりするんですよね。
だからこそ、過剰に何かもっと頑張らないといけないような気がして、自分よりも、もっと成功していると感じる人を探して自分と比べたりしていました。

それは向上心とも呼べる良い部分でもあったと思うんです。
でも、同時にものすごく疲れてもいました。
そして、そんな疲れて八方塞がりな時に事件は起こったりするんですよね。

当時、付き合っていたパートナーに仕事の愚痴を言っていた時にそれは起こりました。
その時の私は、職場で後輩の育成をしていたんです。
人手不足の関係で仕方ないとは言え、何人もの後輩を見ながら自分の仕事もするのは、結構、私にとってはストレスでした。
客観的に見ると後輩にも「わかりやすい。優しい」と言ってもらえるし、上司からの評価も良くて問題はないように見えるのですが、教える時間を割きながら自分の仕事もして、さらに後輩のミスも巻き取っていた私は、もう限界だったんです。

でも、職場では気を遣って後輩を注意することもできないし、上司に相談もなかなかできませんでした。
そして、友達に言うにしても、この歳になると難しいと感じてしまうのです。
だって、子育てをしている友達もいれば、管理職になって私以上にバリバリ働いている人もいれば、仕事が上手くいかなくて悩んでいる人もいて、相手の状況を考えると言いにくいと感じていました。
後から考えると、「充実しているよね」とか「もっと頑張れ」と友達に言われたくなかったんです。
それは、自分が誰かに感じていたような羨望や劣等感を、相手の中に見たくなかったからだと思うんです。

けれど、限界がきた私は、パートナーにはわかって欲しくなって愚痴を言ってしまったんです。
パートナーも「もっとこうしたらいい」と助言してくれるのですが、当時の私からすると「そんな上手くはいかない」と言うものばかりでした。
パートナーもいい加減、うんざりしていたと思います。
そして、ある日、彼は私にこう言いました。

「それって、自分が好かれたいからやってるだけだよ」

その言葉を聞いた時、自分の中で何かがバキッと折れるような音がしました。
そして、「そうかも」と彼の言葉にうなずいた私がいたのです。
その後、どんな言葉を話したのかも今はよく覚えていませんが、反論することもなく同意してしまうくらいに自分の中で「痛いところをつかれた」と思ったことは覚えています。

自分でもオーバーワークになっていることはわかっていたんです。
最初は、後輩が苦労しないようにと仕事の進捗を見ていたり、相手がつまずかないようにアドバイスすることも苦ではありませんでした。
でも、後輩のミスも巻き取ったり常に横でフォローをしていると、何人かの後輩がずっと依存している状態になってしまっていました。
中には、すぐに休憩に立ってしまう人もいたりしたのですが、私はそういう注意も相手の反応を気にして上手くできなかったんです。
上司も昨今のハラスメント事情を気にして注意できずにいたので、業務バランスがおかしくなっていました。
そんな時に「好かれたいからやっているだけ」は、その通りでした。

細かくチェックせずに、もっと後輩を信頼して任せたり、ミスも可能な部分は対応してもらえばよかったのですが、「嫌われたくない」と言う気持ちや「上司から任せてもらったのだから、しっかりやらなくては」と言う気持ちばかり大きくなっていたんです。
今思うと、パートナーだって仕事で頑張っているわけですから「もっと頑張れよ」と思っていたと思うのですが、それを言うともっと自己嫌悪に私が陥ってしまうことを知っていて、言わないでいてくれたのでしょう。

そして、折れてしまってから私は改めて自分の幸せを考えてみる時間を作れたのです。
私が「幸せ」を感じる状態は、果たして上司や後輩から評価されることや好かれることなのか…と考えると、嬉しいけれど、そこまで「幸せ」とは感じられませんでした。
それよりも、コーヒーをゆっくり飲んでいる瞬間や、好きな人と美味しいものを食べている時、綺麗な景色を見ている時の方が何倍も幸福だったんです。

そう、私は仕事で成功したり、無理に結婚したりして上へ上へと上がっていたり、コミュニティを広げるよりも、どうやら淡々と続く日常に幸せを感じるタイプだったのです。

これに気付いた時に、「あぁ、それはしんどかったわけだ」と合点がいきました。
私は、周りにいる上昇志向の人と自分を比べて、できない自分を責めたり嫌っていたりしたんです。
でも、私の心が本当に大事にしたい「幸せ」がその中にないのだとしたら、いくら手に入っても頑張ることも苦しいと感じるのも当たり前かもしれません。
それくらい自分の心が感じる「幸せ」を私は自分で認め、分かち合おうとしていませんでした。
それが結果として、自分を追い詰めていただけではなく、パートナーと分かち合う幸せも減らしていたのかもしれないと思うと、あの時のパートナーの言葉は、今から思い返すと事件ではなくて、幸せを教えてくれるものだったと思えるのです。

皆さんも気づけば、自分が何を幸せと感じるかを置き去りにして、周りの言う幸せに振り回されていることはないでしょうか。
そんな時は、何に「幸せ」と感じるか少し自分と分かち合う時間が必要なのかもしれません。
最後まで読んでくださってありがとうございました。

この記事を書いたカウンセラー

About Author

お客様からは「話していて安心できる」「気持ちが落ち着く、整理できる」と定評がある。自身の過去のいじめから来る対人恐怖(男性恐怖)、過食症を克服した経験を持ち、繊細な感受性でお客様ひとりひとりの心に寄り添い、どんな時もお客様の魅力と光を見続けるカウンセリングを心情としている。