人の心が本当に離れていくときというのは、実は「怒ったとき」ではない…というお話をしたいと思います。
多くの人は、怒りが関係の終わりを告げるものだと思いがちです。
「もう我慢できない」と声を荒らげたとき、
「あんな人、二度と関わりたくない」と吐き捨てたとき、
それが決定的な別れだと思うかもしれません。
けれど、怒っているうちは、まだその人の存在が心のどこかに残っているものなんです。
怒りという感情は、
「分かってほしい」
「変わってほしい」
「終わらせたくない」
という気持ちの裏返しでもあります。
心理学でよく言われるのは、怒りは感情の蓋であって、怒りの下には本当の感情が押し込まれていると…。
「愛してほしい」
「助けてほしい」
「わかってほしい」
つまり、怒っているということは、まだその関係性に希望があるということなんですね。
人は、本当にどうでもいいと思った相手には、そもそも怒りすら感じないんです。
だからこそ、怒っている間は、どこかで未来を信じている状態だと言えます。
「まだこの人と分かり合えるかもしれない」
「この関係はやり直せるかもしれない」と、
心の奥で信じているからこそ、私たちは声を上げ、感情をぶつけるのだと思います。
けれど、心が「呆れた」とき、言葉も出ず、体の力が抜けて、「ああ、もういい」と手を離してしまうあの瞬間…
それはもう、これまでと同じ土俵の出来事ではなくなるんです。
ある意味で、心のステージそのものが変わってしまうんですね。
そこには、怒りの熱も、涙の湿り気もありません。
ただ、期待という名の炎が消えていくんです。
そうなんです。
怒りに包まれているときの私たちはまだ、この関係せエイに期待していたのです。
そして、私たちはそのとき知るんです。
「ああ、もうこの人は私を愛する意思がないのだ」と。
あるいは「この人にはこれ以上愛する力そのものが残っていないのだ」と。
私たちが本当に絶望を感じるのは、実はここなんです。
相手の中に愛する気持ちがもうないと知ったとき。
そして、たとえ気持ちがあったとしても、それを表現する力や関係を育てる力そのものがもう尽きてしまっていると気づいたときです。
それは、怒りよりもずっと深く、悲しみよりもずっと心を凍らせてしまうような痛みなのです。
「この人はここまでが限界なんだ」と悟ったとき、心はもうかつてのようには動かなくなります。
どれだけ願っても、どれだけ伝えても、その先へはもう届かないのだと分かってしまうからです。
本来なら、そこで関係は終わってもおかしくありません。
怒りが消え、呆れに変わり、心が手を放す…
多くの人間関係は、そうやって終わりを迎えることが多いものです。
そして、私たちはそれを「仕方のないこと」として受け入れ、過去へと流していきます。
けれど人生にはときどき…ほんの少しだけ違う選択をしてみようと思える瞬間があるんです。
それは「この関係にもう一度だけ手を伸ばしてみる価値がある」と思えたときです。
その時に出来ることは、もう一度信じるということではないかと思います。
「変わるかもしれない」と願うことではなく、「一緒に向き合ってみよう」と決めることなんだと思います。
もちろんそれは簡単なことではありません。
再び傷つくかもしれないし、同じ失望を味わうかもしれない。
それでもそれを選ぶということは、怒りや執着ではなく、“信頼”というものを土台にしてもう一度関係を築いていくということなんですね。
人は、怒りの中では別れません。
別れることは出来ません。
本当に別れを決めるのは、呆れが訪れたときです。
言い換えれば『絶望』です。
けれど、その呆れの先に、もう一歩だけ踏み出す勇気があるなら、その先に広がる関係は、きっと以前とはまったく違うものになっていくはずです。
それは、かつてのような“期待”ではなく、もっと深くて穏やかな“信頼”という土台の上に育っていく関係です。
そして、私たちは知るのです。
あの「呆れ」という終わりの感覚《絶望》は、本当は「はじまり」にもなり得るのだということを。
新しい関係性の始まりになり得るという事を。