ときに、あたたかい飲み物と一緒に、ふと心に浮かぶ風景があります。
たとえば、焼きリンゴの甘い香りが、ふいに記憶の中から立ち上がってくるような、そんな静かな午後のひととき。
少しだけ、物思いにふけってみたくなるような時間です。
今日は、そんな「焼きリンゴ」のように、じんわりと心にしみてくる、ある人たちのやさしさについて綴ってみました。
あまり人と群れないけれど、そのぶん深く、人を思う気持ちを持っている、そんな「孤高な人」のやさしさにふれたときのことです。
よろしければ、どうぞゆっくり読んでみてください。
あまり人と群れるようなことのない「孤高な人」だからこそ滲み出る、奥深いやさしさがあると思うのです。
日々カウンセリングをしている中で、時々そういう方と出会います。
とても優しい気持ちを持っているのに、なぜかそれが周囲に伝わらない。
良かれと思ってしたことが空回りしてしまったり、まったく認めてもらえなかったり。
本当に、つらいことだと思います。
悔しくて、悲しくて。
それでも、そんな気持ちを抱えながら生きている人に、私はできる限り寄り添いたいと思うんです。
おこがましいかもしれないけれど、それが正直な気持ちです。
もちろん、心理学的にはいろいろな見方や理論があると思います。
でも、人の評価を求めすぎると、日々、心が折れそうになるようなことばかり。
心がますます苦しくなってしまうのではないでしょうか。
たとえ少なくても、たった一人でもいい。
頻繁に会ったり連絡を取り合ったりする関係じゃなくても。
文章のやりとりや、たまの電話でも。
「自分にはそういう人がいるんだ」と、心のどこかに持っておくこと。
それだけで、同じ孤独でも、心の折れ方が変わってくるんじゃないかと思うのです。
また、だからこそ、やさしい気持ちが内面でじっくりと醸成されていくのでしょう。
誰にも言えないような寂しさや葛藤を通じて、心の奥深くで少しずつ熟していく優しさもあるのではないでしょうか。
そして、それは、いつか必要なタイミングで、誰かとわかちあえる時がくると思うのです。
そんな思いをめぐらせていたとき、ふとリンゴのことが心に浮かびました。
ちょうど最近、そのリンゴに人の心の働きが重ねて見えてきたのです。
私の地元のスーパーで売っているリンゴって、まだ完熟していない、青みがかったようなものが多いのです。
皮をむいてそのまま食べると、甘くない。むしろ酸っぱい。
正直、あまり美味しくないなと感じてしまうことがあります。
でも、そんなリンゴでも、工夫すると、美味しくなる。
熱を加えて煮詰めると、まったく別物のように甘くなるんです。
私はよく焼きリンゴにしたり、最近では、皮をむいて少量の水でやさしく煮詰める「コンポート」を作ったりしています。
あまり手をかけなくても、ほんの少しの火と時間で、あの酸っぱくて固かったリンゴが、驚くほどまろやかで、甘く、優しい味になる。
なんだか、それって私たち自身のことにも似ているように思ったのです。
「まだダメだ」「まだ固い」「まだ熟していない」
そんなふうに感じる時期でも、その時間をかけて、内側から熱が通っていくような体験を経て、ようやく「甘さ」が引き出されていく。
あんなに苦かったものが、まるで別の果物のように、やわらかく、優しい味に変わっていくのです。
人生にも、そんな“煮詰まる時間”って、実は必要なのかもしれません。
そして、焦らず、その過程を生きていけたらいいなと。
そんなふうに思った、ある朝のことでした。
私たちは、自分の中の“善意”や“願い”が伝わらないとき、それだけで「自分が間違っていたのでは」と自分を疑ってしまいます。
でも、その優しさは消えていない。
ただ、届くまでに時間がかかるだけ。
焼きリンゴがじんわり甘くなっていくように、私たちのやさしさも、時間をかけて伝わっていくものなのかもしれません。
今日も、あなたの心が少しでもあたたかくありますように。
そんな願いをこめて、そっとこの文章を結びたいと思います。