2017年3月21日

国会議事堂を見学した話

映画好きつながりのお友達から「国会議事堂の見学に行きませんか」と誘ってもらったのは年明けすぐのころ。

「紙谷さんて、めちゃめちゃシンゴジラ好きでしょう」
「あれ、なんでバレたんですかね」
「つぶやき見てればわかります。今度、シンゴジラ好き集めて関係地点をうろうろする予定なんですが、紙谷さんも東京遊びに来ませんか」
「国会議事堂?内部に入れるんです?」
「見学コースがあるんですよ。官邸・内閣官房周辺を歩いて、国会議事堂を見学して、科学技術館でご飯する企画なんです。
 議事堂内は映画には出てこないけど、矢口蘭堂(主人公。職業:副官房長官)の職場だし、なかなか個人で見学する機会なんてないでしょう」
「行きます」

と、いうわけで。
快晴の一月末、わたしは国会議事堂裏口前にいました。

公式本を抱えたシンゴジラ好きの集団は、そこから見える景色を指でなぞって

「再上陸したゴジラが熱線吐いたとき、官邸と国会議事堂は破壊されたんですよね」
「外務省は壊れて、警察省はぎりぎり残ったってセリフがあるので」
「じゃ、ここからこう。真っすぐカアアッと」
「そうですね。そのまま、こっちの方向に進んで東京駅で停止したんですね。
 ちなみ皇居の向こうにある科学技術館屋上が、ラストシーンのロケ地です」
「ほー」

と、ひそひそ語りあいます。

見学開始を待ちながら、わたしはワクワクした気持ちを噛み締めていました。

癒しに取り組みはじめて大きく変わったことのひとつがフットワークの軽さです。
もともとは重度の出不精だったのですが、癒しが進んだいまでは、面白そうだな!と感じたときにはサラリと動けるようになりました。
無意識に禁止していた"楽しむこと"を自分に許可したぶん、"楽しむこと"に敏感になり能動的になったのですね。

見学を開始しまーす、との警備員さんの呼ぶ声に慌てて通路に並びます。
議事堂内は暗いらしく、足元に気をつけるように注意を受けて見学が始まりました。

赤絨毯。階段の木製の手すり。
本当に暗い廊下を抜けたさきに、深緑のクッションが貼られた椅子がならぶ部屋に入ります。
衆議院議場です。

「すごい...」
「ホンモノだ...。国会中継で観たことある...」
「意外と狭い...」

思わず、ため息が出るわたしたち。

議場の天井はイギリス製のステンドグラスが貼られていて、磨り硝子越しの柔らかい光が手もとに落ちてきます。

「議場内もけっこう暗い。これは、気持ちとしては眠くなるの分かる」
「矢口先生は寝ないでしょう。泉先生は寝てそう」(映画の登場人物)
「赤坂先生は上手に寝そう」(映画の登場人物)

現実と虚構の入り混じった会話を交わしながら、警備員さんの後に着いて赤絨毯の階段を上がります。
急に視界がひらける場所にでると、警備員さんは、こちらが中央広間です、と言って吹き抜けの天井を指さしました。

「四隅をご覧ください。春夏秋冬の日本の四季を描いた油絵があり...」

正直、政治も歴史も建築も詳しくないわたしは、国会議事堂がこんなに美しい建物であることを知りませんでした。
派手過ぎず素朴過ぎない品のあるデザイン。
ここに国の中枢があるのだという見えない重みを感じながら、ぽかんと広間を見渡します。

「現在は立ち入り禁止になっていますが、この天井の上の7階はダンスホールになっています。
 数あるエレベーターの中で、このダンスホールに通じているエレベーターは一機だけです」

ダ、ダンスホール!!

ぴくっと背筋を伸ばすと、同じくぴくっと顔を挙げた仲間と目が合いました。
この辺りが、創作を愛するひとたちの集まりで。
浪漫の匂いに敏感だなあ、と他人事のように可笑しくなりました。

見学終了後に、ダビデの星の散る科学技術館でご飯にしつつ、スマートフォンでおめあての画像を探して頭を寄せ合います。

「ダンスホールの画像ありましたよ。数年前にマスコミに公開されたことがあるみたいです」
「マジですか、どれ?」
「おおお、本当にダンスホールだ。しかも中央の螺旋階段がある。カッコイイ!!」
「良いことを知れて嬉しい。いや、国会議事堂の7階にダンスホールがあることを知ったからといって、日々の生活に役に立つわけじゃないんだけど」
「でも、ダンスホールの存在を知っている人生と知らない人生なら、知っている人生のほうが何となく豊かじゃないですか」

詭弁を言いながら小さな画面を覗いて、あ、自由だ、とわたしは思いました。
知らないものを知ったとき、美しいものを目の当たりにしたとき、わたしは心の底から湧き上がるような自由を感じます。
世界の広さや奥行きの深さの一端に触れることで、自分を縛る窮屈な観念がゆるむからです。

それにはやっぱり、動くことって大事ですね。
おっくうがらずに日常からぬけだしてみてはじめて出会えるものがあるんだなあと、
そんなことを改めて再確認したひと時でした。

読んでくださってありがとうございました。

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2017年3月14日

「人生は旅」を地で行く人

『クレイジージャーニー』というテレビ番組が好きです。

毎週、独自の価値感やこだわりで日本や世界を飛び回るちょっと(だいぶ?)クレイジーな人たちがスタジオに現れて、MCたちに体験を語ってもらったり、スタッフが同行して撮った本人のビデオを視るというスタイルのバラエティ番組です。
(MCはダウンタウンの松本人志・小池栄子・バナナマンの設楽統)

今まで誰も入ったことのない洞窟に潜っていって地図を作っている人や、真冬のアラスカで5ヶ月間たった一人でキャンプをしている写真家など、ちょっと常人には理解しがたい人たちが出てきて、規格外の凄まじい体験を話してくれるのですが・・・

その価値感やこだわりは、かなり一般の感覚とはかけ離れていて、観るたびに私は「自分の知ってる世界ってホントにちっぽけだったんだなあ」と思い知らされています。

その衝撃は「驚き」というより、「驚愕」と言った方がピッタリきますね。

ただ、その一方でちょっとだけ(ホントにちょっとだけですが)憧れる部分や、共感できる部分もあるんですね。
それは、出演する人たちがみんな「自分の『好き』に本当に正直」なところです。

私にも、心のどこかに「こんな生き方がしてみたい」「自分の『好き』を徹底的に追及してみたい」。そんな想いがあって、無意識のうちに彼らに魅かれている気がします。

私たちが夢として、あるいは憧れとして抱えながら実現を諦めていることを、出演している狂気の旅人(クレイジージャーニー)たちは諦めることなど考えもせずに突き進んでいる姿のカッコイイこと。

とは言え、その突き詰めかたが半端なく徹底しているので、とてもマネのできるものではないなあとも思ってしまいますね。当たり前ですが。

ふつうの『好き』のレベルを遥かに超えた「自分だけの生き方」。だからこそ、引きつけられてしまうのかもしれません。

私はこれまでほぼ全ての放送を見てきましたが、中でもダントツに魅了されてしまった旅人が一人います。

その人は永瀬忠志さんといって、通称「リヤカーマン」と呼ばれているかたです。

リヤカーに必要な荷物をすべて積んで、それを引きながら歩いて旅をしているのですが、やってきたことが常軌を逸していると言う他ないくらいの内容なのです。

砂漠やジャングルや高地を、200キロくらいの荷をつんだリヤカーを引いて旅すること40年以上。

世界で一番暑い場所と言われる、アメリカ・デスバレーを歩いたり、
アフリカからフランスのパリまで約1万4千キロを1年以上かけて歩いたり
とにかく歩きたおして、その総距離は40年で地球一周をとっくに超えているとのこと。

新婚旅行すら歩いて旅したそうです。(奥様は普通にバスや電車で先に移動している)

放送を見たときのご本人の印象は、ちょっと日焼けしたごく普通のオジサンだと思ったのですが、じつは冒険家にとっての憧れであり、勲章でもある『植村直己冒険賞』を受賞しているのです。

ほかの旅人たちの放送を見ると、それぞれの活動を紹介する映像は楽しそうだったり、ハイテンションだったり、張り詰めるような集中力を見せていたりするのですが、永瀬さんはちょっと違っていて、毎朝「また朝が来ちゃったなあ。歩きたくないなあ」とか、歩きながら「ああ~、ヤダヤダ」とか愚痴が多いんですよね。

一度アフリカで旅の途中にリヤカーを盗まれた時には「やったあ~!これでもう歩かなくて済むぞ!!」と思ったそうです。
でも日本に変える日に盗まれた場所へ行ってみたところ「やっぱりもう一度ここへ来よう」という気持ちが湧いてきて、数年後にもう一度チャレンジして今度は歩ききっているのです。

なんだかちょっと不思議な雰囲気の人だなあ、でもなんだか妙に気になるなあ。そんな気持ちで画面を見ていたことを思い出します。

永瀬さん自身「なんでこんなことしているのかなあ?」と言ったり、「でも最初にリヤカーを引いて歩いちゃったから、しょうがないんですよねえ。」と笑いながら話す顔は、本当に好きでやっていることが滲み出ているのが分かってしまうんですよね。

「何にも変わったこと、特別なことはしていない」
「そのうち歩けなくなるのだから、歩けるうちに歩いておきたい」
「旅をする理由は・・・分からない」

飾り気のない語り口にのって出てくる、もはや哲学的とも言える言葉を聞いているうちに、いつの間にか地味に見える冒険がとてもカッコイイものに感じられてしまいました。

永瀬さんのことを調べていて出てきたエピソードです。

「旅をしていて砂嵐で思い通りに進まないとき、
風に向かって『この野郎。もういい加減にしろ』と怒鳴る。  
2分か3分、風に全身で怒って居ると、また自然に心が静まってくる。又それで作業を続ける。
旅の途上で振り返ったときに『俺はこんなときにこんなことを思うんだなと。あんな時のあんな行動をするんだなと。自分でも知らない自分に出会う楽しみを見つけた 』」

旅が自分の気づいていなかった自分に光を当ててくれる。
一歩踏み出してみると、新しい世界が見えてくる。

人生を旅に例えることはとっくに使い古された言い回しですが、永瀬さんの姿を見ているとそれが何の違和感もなく受け入れられてしまうのです。

理屈も理解も超えている旅のように見えてしまいますが、地道に文字通り一歩ずつ進めていく歩みは、私たちが人生という長旅で踏み出す一歩と何も変わらないようにも思えます。

その旅の辿りつく先に何があるのか?よりも、じつは
歩き続けるという行為と、そのプロセスで出会う体験が
生きるということそのものなのかもしれません。

私がこれまで心の世界を旅することを選んでこれたのも、たくさんの人との出会いがたくさんの「私の知らなかった私」を教えてくれたおかげだったことに気づきました。

いつの日か後を振り返って、それまでの道のりを眺めるときまで、私もこの旅を歩けるだけ歩いてみようと思うのでした。

近藤あきとしのプロフィールへ>>>

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2017年3月 7日

震災から6年...力強くいきる魂①

東日本大震災とよばれるようになった未曽有の大災害から
丸6年をむかえようとしています。
震災の後、今なお長期にわたり起こっている二つの話題について
「力強くいきる魂」と題してお送りします。

~ターゲットとなった子どもたちの、いきる力~

震災後ほどなくして福島では原発から放射能漏れがおこり、
その周辺はひろい範囲で今も立ち入り禁止となっています。
立ち退きを余儀なくされ、親戚や知り合いを頼って
別の地域に転居した家族も全国にたくさんいます。
なかでも、子どもたちは友達同士が離ればなれになってしまったのです。

新たな地域で暮らしている子どもたちですが、
残念なことに全国各地で「福島いじめ」という現状がおこっているのです。

どういうことかというと、福島から転居してきた子どもたちをターゲットにして
「福島へ帰れ!きたない!汚染される!」などという言葉を浴びせられるようなのです。
こんな現状が全国各地で、しかも同じようなことが子どもたちの間で...
それにしてもなぜ、福島の子がターゲットになってしまうのか。

そこにはさまざまな要素が絡み合っているように感じられます。
その要素とは、ニュースなどで取りだたされている
原発そのものに対する報道や原発被災者への支援に関する情報です。
大人が目にする情報は子どもたちにも入ってきます。
そして、子どもたちは大人の受け止め方をマネすることがあります。

そもそも、震災直後から現在に至るまで一貫して
「不安や恐れ」という人間の心理があります。
程度の差はあれど、日本中の人々がこの不安や恐れを抱いてきたともいえます。

例えば、震災直後であれば、被災地から遠く離れた場所で「買占め」が起こったり、
原発に関するニュースが流れると野菜や米の売れ行きが伸び悩んだり・・・
こんな現象が日本各地で起こったわけです。
この現象を引き起こす心理が人のもつ不安や恐れといわれるものなのですね。
そして、人はわからないものに対して不安や恐れを抱きやすいものです。

さて、そんな不安や恐れは福島から転居してきた家族や
その子どもたちにも向けられることがあります。

「原発ってこわいものだ。そんなこわい所にいた人たちがやってくる!」
という恐怖がいじめという形で表れてしまいます。
子どもたちは時に残酷でストレートにものを言ってしまいます。

また、こんな情報も子どもたちはよく見ています。

「原発被災者には国から支援金が出ている。なんだか恵まれているようだ!」
という歪んだ認知がいじめにつながってしまいます。
自分たちは恵まれていないと思っている子どもたちは、この言葉を言ってしまいます。

そんな福島の子どもたちですが、実はいじめられてばかりではないようなのです。
福島から転居した子どもたちの周りには
いじめを制する正義の味方を担ってくれる勇敢な子もたくさんいます。

「帰りたくても帰れないんだから、そんなこと言わないの!」

そうなんです。「帰りたくても帰れない」
・・・そんな悲しさ、くやしさ、憤り、理不尽さ・・・

福島の人が一番理解してもらいたい気持ちとは
本当は帰りたい、そんな故郷への思いなのかもしれません。


どうか、日本中の人々が福島の人のいきる魂を大切にしてあげられますように。

どうか、日本中の人々がもっていた不安や恐怖を、誰かを理解してあげる愛に変えられますように。

庭野智美のプロフィールへ>>>

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2017年2月28日

愛を受け取りませんか?

 「離婚届けにサインして!」

 半ば強制的に旦那さんに言い渡し、私が勝手に家を出ていってから、4年の月日が経ちました。


そして今、私達夫婦は再婚し、とても仲の良い夫婦となっております。(同じ方と再婚です)

それは私が、愛を受け取れるように、なったからだと思います。

今日は、私が愛を受け取れるようになるまでの、お話しをさせていただきます。


まず、 最初に我が家の話を少しさせてくだい。

 私の祖母は、私からみると、家族の問題児のような女性でした。
嫉妬深くて、執念深い、そして嫌味なところが私はすごく嫌いでした。

勿論、それは私の勝手な思いこみからの、祖母の姿です。


皆さんの中にも苦手な人っていますか?「あーはなりたくないな」って思う方とかね。


そこには私の罪悪感がありました。幼い私には大好きな両親や祖父が、
祖母のせいで、辛い思いをしているように見えたのです。


余りにも幼すぎた私は、大好きな祖父や両親を、助けることが出来ずにいる
辛すぎる自分の感情から、祖母が悪いからなんだと、思いこんでしまいました。

無論、それは私が勝手に作り上げた、祖母が加害者で、私が被害者でいる物語でしかありません。
 

私は、罪悪感の気持ちでいっぱいでした。

 罪悪感という感情は、自分は罰せられるにふさわしい、という思いから、
幸せになってはいけない、という思いに至るようです。

故に私は、人からの愛を、受け取ることを完全に拒否していました。
だって私は、幸せになってはいけないから、、、、


 そしてもう一つ、私は勝手な自分の思いこみがありました。
私の思うような形の愛ではないから、「その愛はいりません」とも思っていました。

皆さんはどうですか?自分の思うような形の愛でなくても、その愛を受け取れていますか?


 私が誰かと話をしていて、「そうなの、大変ね」と私の気持ちをわかって欲しいのに、
全く違うことを言われ、なんか嫌だなもうこの人とは、話したくないなと思ったりしていました。

その人はその人なりに、私の事を思って、話してくれているのに私は、
その人の気持ちを、その人の愛を、全く理解しようとはしませんでした。


 そんな私ですから、旦那さんとは、「私は悪くない」という、正しさの闘いを、日々繰り広げていたのです。

「今忙しいのに何故、家事手伝ってくれないの?」「子育てにもっと協力してよ」等
自分の思い通りに動いてくれない、私の思うような愛をくれない、旦那さんに私の不満は、募るばかりでした。


挙句に離婚までしてしまったのです。


 皆さんも「自分は悪くない」という、正しさの闘いってすることは、ありませんか?
この闘いって、恋愛に限らず、人間関係でよくありがちかもしれませんね。

そして自分の思うような愛の形ではないので、「そんな愛はいりません」と思ったりしていませんか?


今となってみると、旦那さんは仕事で疲れて、家でくつろいでいるだけだと、わかるのですが、当時の私は
「私のお願いを、旦那さんは聞いてくれない」「私の思うような愛をくれない」と、物凄く怒っていました。


日々の漠然とした生きづらさから、私はカウンセリングや、心理学のセミナーを、受けるようになりました。
そこでいかに、当時私がどれだけ、自分を責めていたのか、自分自身を大切に出来ていないのか、ということに気づかされたのです。


私は自分自身を、徹底的に癒すことに、専念することにしました。

だって今まで私がいた場所は、愛とは全く無縁の、孤独でとてもさみしい世界でしたから、もうそこの場所からは、卒業したかったのです。

自分が被害者でいる、物語からの脱出です。


自分を癒していくと、罪悪感という感情が軽減され、自分を大切にできるようになり、「私、幸せになってもいいんだ」と
思えるように、少しずつなっていきました。


 心理学の先生が、よく話されていることがあります。

「自分の欲しい感情は人に与えるといいですよ。そして与えれば与えるほど大きな愛の人になります。」

私の一番欲しい感情は、「自分をわかって欲しい」ことでした。
ですから私は色々な人を理解しよう、わかろうと思ったのです。

色んな人を理解しようと、意識して日々過ごしていくと、私に沢山の人が、愛を送ってくれていることに、気が付きました。

それは同僚だったり、家族だったり、友達だったり、それはもう沢山の人達です。


 私が勝手に嫌っていた、祖母も愛を送ってくれていた事に、気がつきました。
私が幼い頃に、一緒に写っていた写真の祖母は、満面の笑みでしたし、私が落ち込んでいる時も祖母は「頑張れ」なんて励ましてくれていたんですね。


全ては私が、「愛をいりません」と、みんなからの愛を、拒否していたのです。


 自分の癒しが進み、今まで皆からの、愛を受けとれていない事に、気づいた私は、
旦那さんと話し合いを、することにしたのです。


それは旦那さんの言動を、振り返った時に、旦那さんも沢山の愛を送ってくれていた事に、気づいたからです。
旦那さんは、言葉で私を労うことは、あまりありませんでしたが、私に対する不満の言葉もなく、穏やかに毎日いてくれていました。


そして優しい旦那さんは、私と会うことに快くOKしてくれました。


そこから旦那さんとは、どんどん愛が深まり復縁する事になったのです。
快く今の私を受け入れてくれた、旦那さんに感謝しかありません。


 自分が被害者でいる、世界から抜け出したいという強い思い、そして自分の思うような、愛の形ではなくてもいいので
、愛を受け取ろうと思うことが、幸せなパートナーシップを築く、一番の近道のように私自身は思います。

もしかしたらそれは、人間関係全般にも、いえることかもしれませんね。


最後までお読みくださりありがとうございました。

高塚早苗のプロフィールへ>>>

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2017年2月21日

「大切な人の障害や病気」に「ショックや絶望」を感じるのは「深い愛」が隠れているから

最近、年下の友達が出産することが重なっています。フェイスブックなどにアップされている「赤ちゃん」の写真を見ると、わが子が赤ん坊だった頃のことを思い出します。

思い出すのは赤ん坊だった息子のかわいいしぐさや表情ばかりなのですが、友人たちの「初めての子育て」での奮闘ぶりや、不安な気持ちが書かれた文章を読むと、「あぁ、わたしもそうだったよなぁ・・」と、普段はすっかり忘れてしまっている「不安でいっぱいだった頃」の気持ちや出来事が思い出されます。

24時間以上かかった出産で、体力を消耗したのでしょうか?息子は、体は大きく生まれたのですが、産声を発するまでに少し時間がかかったうえ、数時間ではありますが保育器で過ごしました。

「保育器に入る」と聞いて、わたしが真っ先に思ったのは、
「わたしが上手に生んであげられなかったから、弱らせてしまったんだ。お母さんなのに・・、息子をそんな目にあわせるなんて情けない。」ということでした。

1か月検診で、先天性の心臓疾患が見つかったときには
「生まれるのに時間がかかりすぎて、本来なら生まれたときにちゃんとふさがるはずの心臓の穴がふさがらなかったんだ・・。お母さんのせいで、ごめんなさい」と思いました。
(実際にそうかどうかはわからないのですが、その当時「赤ちゃんの心臓はお腹の中に居るときには小さな穴が残っていて、生まれて産声を上げたときに、その穴もふさがるらしい」という話を聞いたことがあったので、こんなふうに思ってしまったんです。)

日々の生活の中でも、赤ちゃんが泣いている原因がわからないときや上手にあやせないとき、「お母さんなのに・・」「ダメなお母さんでごめんなさい。」と感じていました。

息子になにかあれば、全部自分のせいのように思っていたんですね。

そんな心理状態だった私にとって「心臓疾患の告知」や「手術の必要性の説明」は、自分の無力感で打ちのめされる出来事でした。

母親である自分ががんばってなんとかなることなら、頑張ればいい。でも、心臓の穴は、わたしにはふさぐこともできないし、息子の代わりになることもできません。どんなに小さくても、手術を受けるのは息子なのです。

どんなに大切でも、いとおしくても、息子の感じる苦しみや痛みは息子のもので、母親だからといって交代することはできない。そう思えば思うほど、「ちゃんと生んであげられなかった」と自分を責め続けました。

当時のわたしと同じように子どもに何かあれば、「自分のせいだ」と自分を責めてしまうお母さんは多いのではないかと思います。

心理学を学んで気がついたこと。
それは、「自分のせいだ」と責める気持ちと同じくらい、「この子が大切だ」と思う気持ちがある、ということでした。

「大切なわが子」なのに、その子がつらい思いをする、だなんて耐えられない!!
「大切なわが子」にそんな思いをさせてしまう自分はなんて非力で無力でちっぽけな存在なのか・・。そう感じてしまうのは、「大切だからこそ、無力な自分が許せない」からなのです。

このことに気づいたとき、わたしにとっての「長年の謎」が解けました。

わたしにとっての「長年の謎」というのは、「わが子に障害がある、と知った時、どうして両親は絶望するんだろう?障害があるということは、両親を絶望させるほど『悪いこと』なんだろうか?」ということでした。

知的な障害を持つ妹とともに育った私にとって、「障害がある」ことは特別なことではなかったのだと思います。もちろん、その障害のために「理不尽な仕打ち」や「差別」に苦しみ、悲しみ、怒る妹を身近に見てきた分、社会に対する「怒り」は人一倍感じてきたのですが、それと同時に、わたしにはない「心の美しさ」を持った妹に嫉妬をしたこともあるし、妹の人生を、すぐそばで見ていた分、「なんとかなるよ」と思えていたんですね。

だから、絶望する両親の姿を見るたびに、「そんなに絶望しなくてもいいんじゃない?」と思っていたし、「障害を持っていたら、愛せないの?」とも思っていました。

両親の絶望は、
自分たちの望んでいた子どもではない、という絶望
こんな子供がほしかったわけじゃない、という絶望
そんなふうに思い込んでもいたのです。

でも・・・。
そういう問題じゃなかったんだな・・とわかったんです。

大切でいとおしい存在だから、「この子を幸せに育てられるんだろうか?」と不安になるんですよね。かわいくて大事だから、「どんなにちいさな傷」であっても、「けがなんてしてほしくない」「痛い思いなんてさせたくない」と思うんですよね。

それほど大切でいとおしい存在の「わが子」なのに、親である自分たちの力が及ばないレベルで「わが子が苦しむかもしれない」という現実を突きつけられたら・・。
そして、そんなわが子を「どう支え、どう育てたらいいかわからない」と感じたら・・・
目の前が真っ暗になるほどの絶望感を感じるんじゃないでしょうか?

幸せにしてあげたいのに・・・
どんな苦労もさせたくないのに・・

障害や病気があるから「その子を愛せない」と思っているのではなくて、「かわいくて、いとおしいからこそ、その悲しみも大きいのだ」ということにやっと気づけたんです。

絶望せずにはいられないほどの「深くて大きな愛」。

もし、あなたが誰かのことを「愛することができない」と悩んでいるのなら、あなたは、どれほど「人を愛したい」と願っている人なのでしょうか?

そんな「優しいあなた」に、穏やかな時間が訪れますように・・。

那賀まきのプロフィールへ>>>

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2017年2月14日

1人じゃなければ

心理学を学ぶようになってから、そこで出会った友人4人とグループLINEを作って、
色々な出来事を話すようになりました。
そのグループLINEが出来上がって、かれこれ3年くらい経ちます。

この3年の間に、私たちには様々な出来事が起こりました。
5人中4人は職業が変わりましたし、1人は新しくパートナーを見つけて結婚しました。
日常の悩みなどをお互いに話していると、その友人たちに対して、
私は家族のような親密感を感じるようになりました。

先日、その中の1人がグループLINEでこう言いました。

「朝からエアコンをめぐって夫とケンカしたので、プチ家出をしてアウトレットモールをうろうろ中」

その発言に対して、他の友人たちが返信します。

「それなら、うちにおいでよ?」
「嫌な気持ちはここで、全部吐き出しちゃえばいいよ」

1時間後、彼女から私たちに返信がありました。

「店員が歌を歌うアイスクリーム屋さんでアイス買ったら、なんかほんわかしてきた」
「アイス食べて満足したから、そろそろ帰ろ?!」

さらに、1時間後。

「無事仲直り出来ました。みんな、ありがとう!」

彼女が無事に旦那さんと仲直りが出来て、他の友人たちも「良かったね?」と、
安心したようでした。
私たちは、こんなやりとりを3年間、何度も繰り返してきたような気がします。

◇◇◇

人間の心理とは不思議なもので、どんなに辛いことがあってとしても、
それを分かってくれる人の存在を感じることができるだけで、心は劇的に軽くなったりします。

私は元々アルコールの問題を抱えてカウンセリングを受けるようになったのですが、
カウンセラーや心理学を学んでいる友人たちにいつも言われていたのは、
「アルコールの問題が爆発しそうになったら、とにかく1人になるな」ということでした。

心理学を勉強し始めて、アルコールの量が徐々に減ってきた時期に、
それまでの努力をすべて無駄にしてしまうくらいに、めちゃくちゃ飲んでしまう時がありました。
私が普段隠し持っている怒りや悲しみ、悔しさや寂しさを、日常のふとした瞬間に強く感じると、
私は大量のアルコールを飲んでいました。
それは、まるで自分の中のネガティブな感情をすべてかき消すかのような行為でした。

そんな時、私はいつも1人でした。
知らない飲み屋で人と話すことはたくさんありましたが、心理的な意味で、私は1人でした。
私は誰にも本当の自分を見せないようにしていましたし、見せたら嫌われると思っていました。

◇◇◇

そんな生活の中で、このグループLINEは私の心の支えになりました。
自分の中の見せたくない自分の姿も、その友人たちには少しずつ見せることができるようになりました。
ネガティブな気持ちが上がってきて、アルコールを飲みたい衝動にかられても、
その気持ちを聞いてもらえるだけで、心が落ち着く感じがしました。
自分の本当の気持ちを話して、それを受け入れてもらうことで、私は大きな安心感を感じていました。

そして、それぞれの友人たちの悩みや辛さを聞いているうちに、私たちはとても仲良くなっていきました。
それに伴い、私のアルコールの問題は解消されていきました。

心理学の有名な言葉で、「親密感はすべてを癒す」という言葉があります。
私はそれを実体験で感じることができたように思います。
自分の本当の気持ちを話すことはとても勇気のいることですが、そこを超えて人と関わると、
今まで感じたことがないような親密感が感じられるようになるのかもしれません。

◇◇◇

私と友人たちの人生には、これから先、たくさんの出来事が待っていると思います。
それはきっと、嬉しいことだけでなく、多くの辛いことも待っているでしょう。
しかし、今までのことを考えると、どんなに辛いことがあったとしても、1人じゃなければ、
結局何とかなるんじゃないかと思います。
旦那さんと仲直りして、嬉しそうにしている友人のLINEを読んで、そんなことを思いました。

森川陽介のプロフィールへ>>>

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2017年2月 7日

記憶と思い出を書き換えた、ちょっとドタバタな年末年始 ~想いは時空を飛び越える~

こんにちは、建部かずのぶです。

新年が明けて、1月余り経ちました。
古い暦では、2月4日ごろが正月だそうで、ちょうど今が新年とも言えますね。


今回のコラムでは、この年末年始の出来事を書いてみます。

年の瀬が押し迫ってきた、ある日のこと。
不意に、奥さまの電話が鳴ったのです。

聞こえてくるお話から、どうやら彼女のお兄さんからの様子。

私たちは、それぞれが親族の付き合いが薄い家柄ということもあり、
普段のやり取りも少ないので、何か緊急の出来事があったのだと分かりました。

後から聞けば、奥さまの叔母さんの容体が良くないとのこと。
なので年明け早々に、「みんなでお見舞いに行こう!」という話でした。

病院はやや遠方で、一度、奥さまのルーツと関係ある街として訪れたことはありましたが、
遠方故、奥さまもあまり訪れたことがなく、殆ど記憶もないそう。

そんな中での、急な連絡。
奥さまのご家族が、「大阪辺りに集合して、みんなで車で行く!」という流れでしたが、
何となく、私も一緒に行った方がいいかと思い、「こっちも車出すよ!」と答えてました。

もちろん叔母さんとは初対面なので、現地に到着してから車で待機してもいいかな?とも思いました。


その数日後、叔母さんの容体が急変したとの連絡がありました。
私たちは予定があって動けなかったのですが、奥さまの実家の方々がすぐに駆けつけたそうです。

危ないと聞いていたので、気になってはいましたが、まずは峠を越えたとのこと。

「お正月だし、それなら、今は行かなくてもいいかも・・・」と言う奥さまでしたが、
ホテルも予約してあるし、先方とも久々に連絡を取り合っているし・・・。
しかも、叔母さんのお世話をしている従姉妹さんが、奥さまが小さい頃は親しかったとのことで、
奥さまの実家の方々と入れ違いに、私たちだけで最初に決まっていた日に出かけました。

ちょうど、年末年始の大渋滞の時期です。
道路情報を気にしながら、直感を働かせながら何とかやり過ごし、目的の街に到着しました。

実は早く着きすぎてしまって、先方は慌ててましたが、2人でのんびりとランチをして過ごしてました。

待ち合わせの時間が決まり、病院へ。
「ほとんど何も知らずに行くのもどうかなぁ・・・、どうなることやら??」と思ってましたが、
従姉妹さんは、私たちを温かく出迎えてくださいました。

最後に奥さまと会ったのも、もう10年以上前のことでした。

「叔母さんはほとんど動かないし、しゃべらない。でも峠は越えたから、大丈夫」
と主治医から聞いていると教えてくれました。

叔母さんの耳元に従姉妹さんが呼びかけますが、あまり反応がありません。
次に奥さまも声を掛けると、徐々に反応が出てきて、その姿を見て従姉妹さんは涙ぐんでいました。

以前はふっくらしていたそうでしたが、今はその面影もなく、その病気の大変さを感じます。

やがて3人で雑談タイムになり、当然、見ず知らずの私の話になります。
「結婚したとは聞いてたけど。」
あれ?そんなふうに伝わってたんだ、と今までのギャップを埋めるような話が続きました。

そこから思い出話に変わります。
約束の時間まで余裕があったので、プラプラと周り道をしたり、途中で道を間違えたりもしてたのですが、
皆さんの思い出がある場所が、少し前に通っていたその沿道にほとんどあったという驚きも。

神社守をしていたという従兄弟の弟さんも合流し、
全然知らなかった土地なのに、まるで知ってるかのように話が弾みます。


そんなやり取りの中で時間が流れ、そろそろ帰る時間に。

もう一度、奥さまが叔母さんにご挨拶すると、声にはならないけれど、口を動かしながらいっぱい反応してくれるんです。
「その口がありがとうと言ってくれてるね」とは、みんなの一致した意見でした。

奥さまは、どちらかと言えば、自分は役に立たないという思いが強い人。
でも、ただその場にいるだけで、周りの人を喜ばせる力があるのだと私は感じました。

従姉妹さんもすごく喜んで下さいましたし、後でご実家から報告の電話があったときにも、
遠方を駆けつけたということで、親族の皆さんがみんな喜んでくれていたと教えてくれたそうです。

ただ彼女がお見舞いに来ただけで・・・。
でも、そんな力があるなんて、彼女も全く自覚していなかった様子。

こういう機会に訪ねてみて、始めて分かったことがあります。
奥さまと久々に対面した従姉妹さんが言ってらしたのが、「ずっと妹みたいに思ってたんだ」。

2人が最後に会ったのは、云10年前のことだったのですけれどね。

これから新たな気持ちで、この街に訪れることがありそうだなぁ。
そう思いながら、キレイな夕陽を浴びながら、隣でスヤスヤ寝ている奥さまを見ていたのでした。


この年末年始、実家に帰省をして家族とお正月を迎えた方も多くいらっしゃるかと思います。
中にはイヤイヤ腰を上げた方、あえて用事を作って帰らなかった方も?

家族や親族との関係って、近しいが故にイロイロとあって難しい・・・とか、
一生懸命向き合いながらも、どうしても分かり合えないという声も聞きますね。

その一方で、遠い場所から、あなたのことをずっと想ってくれている誰かも、実はいるのかもしれません。

最近私が親しくなった、家庭環境が複雑なので、存在は知ってるけどずっと会ったことがない兄弟に初めて会えた、という人がいます。
半世紀も経って会ったけれど、ただ喜びしかなかったと聞きました。

長い年月をかけて創り上げられる"家族"、"親族"は、たとえ遠く離れていても、ふと思い出せば、一気にその時の自分自身に戻っていきます。
人は故郷に帰省することで、ココロのアルバムを開けて昔の自分を確認しながら、
周りとの関係性を結び直したり、もう一度原点に立ち返っていこうとする、とも言えますね。

もちろん人によっては、もう思い出すのもイヤになったと言いたくなることもあるでしょう。
ケースは様々ですが、自分の目にとまらない場所で、実は大切に思ってくれていたり、そっと応援してくれる誰かがいる。
たとえ今は会えなくても、その巡り合わせは、自分の居場所を再確認するための『ご縁』なのかもしれませんね。

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2017年1月31日

父の思い出

今年も間もなく父の命日がやって来ます。
人が生まれてから生きていくうえで、一番大きな影響力を持っているのは親だと言います。
それはそうでしょうね。
父が亡くなってから、もう20年近く経ちますが、今くらいの時期になると、どうしても父の思い出が胸をよぎります。

大正生まれの人でしたから、それこそ厳格で頑固一徹な"昔の日本男児"のようなイメージが思い浮かびそうですが、案外そうでもなかったのですよ。
戦前生まれゆえ、戦争中は長年兵隊として戦地へ行き、苦労もしたようです。
生きながらえて無事日本に帰って来てから、母と遅い結婚をしました。

父はその年代の人にしては、妻である母を大切にしていましたし、私たち子ども(姉と2人姉妹)にも、厳しいだけでなく優しく深い愛情をかけてくれていたと思います。
もし父が戦死していたら、私という人間はこの世に存在しなかったんだな、などと神妙に考えたこともあります。

父はさほど愛情表現に長けた人ではありませんでしたが、子どもの心情については、かなり的確に理解していたと今になって思うことがあります。
父の人生のどこで、どうやってそんなことを身に着けたのか不思議です。
私が大人になってから、何かの機会に母から聞いた話なのですが、
「子どもにウソを言ってはいけない。約束したことは必ず守らないといけない。」
と常に言っていたそうです。

この言葉だけをとらえると、しごく当然で当り前のことを言っています。
けれど実生活の中では、大人は大人の事情で結果的に言っていたこととは違うことをやっている場合があります。
それが子どもの目から見た時【大人は嘘つき】に見えてしまう、ということを父は言いたかったのではないかなと思います。

゜゚*☆゜゚

その昔、事情があって父母は父の兄の息子を預かって、育てていたことがあります。
つまり、父にとっては甥っ子で、私にとっては従兄ですね。
父の兄が早くに亡くなってしまったので、伯母の生活のメドがつくまでということで、しばらく預かることになったそうです。

従兄は子どもの頃、かなりのゴンタ坊主で、父親のような存在が必要だったというのも理由の一つのようでした。
私たち姉妹は従兄を「おにいちゃん。」と呼びましたし、
従兄は私の両親を「おとうちゃん、おかあちゃん。」と呼んでいました。

実の兄妹であっても、ちょっとしたことで親の愛情を取り合って、すねたりひがんだりするのは日常茶飯事です。
ですから、自分の子どもと甥っ子を分け隔てなく育てるということは、父母にとっても大変なことだったと思います。

ある時母が、従兄に何気なく言った言葉で父に叱られたことがあったそうです。
今だに時々思い出して言う話ですから、よほど印象に残っていたのだと思います。

それは、母が従兄と話をしていて、どこかに遊びに行きたいという話になった時
「そしたらそのうち、おとうちゃんに連れて行ってもらおうな。」
と、母が言ったのを父が聞いて、
「子どもにそんないい加減な約束をしてはいかん!」
と、たしなめられたのだそうな・・・。

よくある会話ですよね。

もちろん、大人としてはその話をしている時には、子どもに
『そうしてあげたい、喜んでもらいたい。』と思っている訳です。
子どもは大喜びで、連れて行ってもらえるものだと思って毎日ワクワクしながら待っています。

ところが、日々の忙しさにかまけて、具体的に"いつ"とも決めていなかった口約束は、
「ねぇ、いつ連れて行ってくれるのん?」
「そうやなぁ、そのうちにな。」
こんな会話を繰り返しているうちに、立ち消えになってしまうこともあります。

それこそ前記したように、大人は大人の事情で言っているのですが、子どもにとっては大きな失望なんですよね。
何度かそんなことが繰り返されると、大人に対する不信感につながってしまいそうです。
もしかしたら、父自身もどこかで子どもに対してそんな曖昧な対応をして「おっちゃんの嘘つき!」と言われたことがあったのかもしれません。

大人の事情を理解できない子どもには、小さなことでも誠意をもって対応すること。
小さなことに誠実な人は、大きなことにも誠実でいられるはず。
このような父の考えの元で育ち、約束事は必ず守ってもらってきました。
けれど、子どもの頃にはそのことがどれほどの価値のあることだったか、気付けていなかったような気がします。

゜゚*☆゜゚

従兄は中学校に上がるのを機に、伯母の元に戻っていきました。
その後も我が家にはしょっちゅう顔出しして、育ての親である父母を慕っていました。

時は流れて父も伯母も亡くなり、今やもう従兄自身がかなりな高齢者になってしまいましたが、時折
「今の自分があるのは、おとうちゃんのおかげや。」
などと言うことがあります。
本音だと思います。

親の深い思いには、年齢を重ねてようやく気付けるものも沢山あるようです。
今、改めて父に「ありがとう」の思いを込めて感謝したいと思っています。

お父さん、ありがとう。

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2017年1月24日

母を許す~「自分を生きる」ということ~

先日、NHKを見ていたら、新年に新しく始まるドラマの紹介をしていました。
『お母さん、娘をやめていいですか?』、この原稿を書いている現時点では、まだ放送は開始されていないのですが、ちょっと意味深なタイトルとその内容に思わず引き込まれてしまい、観たくなってしまいました。


このドラマは「母子癒着」をテーマにした作品のようですが、私にとっても「母子癒着」はライフワークともいうべき重要なテーマだと思っています。
私自身が娘たち――、とくに長女に対して無意識に強く依存していて、それが彼女を苦しめる一因となっていたことから、私は「母」と「娘」の関係にとても強い関心を持っていて、娘のように苦しい思いをする人を一人でも減らしたいと願って、カウンセラーとして活動して来ました。

それはもちろん、私の罪悪感からくる補償行為(間違ったことや都合の悪いことを隠したり、埋め合わせたりする行為のこと)という側面もあるでしょうけれど、決してそれだけではありません。
私自身もまた、多少なりともこの「母子癒着」に苦しんできた経験があるからです。
私だけでなく多分私の姉も、十数年前に亡くなった弟も、そうだったのだろうと思います。

特に弟は、両親にとっては遅くにやっと恵まれた待望の長男だったこともあり、その過保護や過干渉の対象となることが多く、相当に苦しかったはずです。
弟が亡くなった当時の私には今のような知識はありませんでしたが、それでも私は数年前まで、心の奥底では弟を死に追いやったのは両親だと固く信じていたように思います。
そして、もしも弟が生まれていなかったら、たぶんそうなっていたのは私だったはず、とも思っていました。

実際、弟が亡くなってからは余計に母の心配や過干渉が重苦しく感じられて、母と一緒に居るのが苦しかったり、怒りを抑えられなかったりもしました。
母にしてみれば、それが神なのか、運命なのかはわかりませんが、最愛の息子をその手から奪われてしまったことで、私や孫たちまで失う恐怖に耐えられなかったからなのだろうとは思うのですが、それが私には苦痛でたまらなかったのです。

心の距離が近すぎて、相手の感情と自分の感情の境目が付かなくなってしまうことを心理学では「癒着」と言います。
私が幼いころからすでに母はものすごく不安の強い人でしたから、母と「癒着」があった私は、ずっと母のネガティブな感情や思考に巻き込まれていましたし、母の影響を強く受けてしまうところがありました。

でも、子どもの時はいざ知らず、例え親子であっても、大人同士の関係で「癒着」は不自然なものです。
多くの「母子癒着」で悩む方たちと同様、私自身も母に対する怒りがどんどん大きくなっていき、実家に帰省するたびに些細なことで怒り、母に対してそれをぶつけたりしてしまっていました。
それでも、実家から家に帰るころには頭が冷えて、母にあたってしまった自分に自己嫌悪して、勝手に苦しくなっていたりしたのです。

なにしろ母の行動は、それがどれだけこちらにとって「ありがた迷惑」であり、「越権行為」だったとしても、元々はすべてが「好意」であり、「善意」です。
母なりに私たちのことを想い、良かれと思ってそれをしてくれるわけですから、それを受け取れないということは、まったくあちらに「悪意」がないだけに、こちらが一方的に「罪悪感」を引き受けなくてはいけないので、かなりしんどいのですね。

それに、今にして思えば母にとっては「愛」であるそれらも、昔の私にとっては、心の深い場所に人知れず創り上げた聖域を無理やりに暴かれて、土足でめちゃくちゃに踏み荒らされ、汚されるような感覚さえ感じられるものだったと思います。
もしかしたら大げさに聴こえるかもしれませんが――、でもこういったことは時に、子どもの心にとってとても大きな傷となったりもします。
それらが私の心に長い間積み重なり、怒りに変わって、これ以上抑えきれないくらいに大きくなっていたのですね。

本来、人に何かをしてあげたい、与えたい気持ちはそれ自体が「愛」でとても美しく、尊いものですし、喜んで受け取ってもらえたなら、私たちはとても大きな喜びを感じられるでしょう。
けれど、相手の状況や気持ちを考えず、自分自身の気持ちだけで、無理やり押し付けることはただの「欲求(ニーズ」であり、「愛」とは違います。
時にそれは、相手に「苦痛」をもたらすことにさえなりかねません。

なぜって、人は本来であれば誰でも、誰かに強制されることなく、自分の好きなように何かを感じたり、ものを考えたり、行動したりしたいはずだからです。
たとえそれが、自分のためでなく誰かのためにすることであっても、それを決めたのが自分自身の意思である限り、心だけは「自由」でいられる。
そしてそれは食べることや、水を飲むこと、呼吸をすることのように、ひとにとっては必要不可欠なことではないでしょうか。

「自分を生きる」ということ。。

しかしながら、「癒着」のある関係性は、それを私たちに許してはくれないのです。
自分の心や意思を殺して他人の思い通りに生きようとすること、つまりは子どもが自分の意思でなく、親の希望通りに生きようとすることは、とても辛いことです。
今、それを選んだのが自分自身だと私が知っているからこそ、私の中の母を責める気持ちはだいぶ無くなりましたが、数年前の私はそのことに対して激怒していました。

それでも、どれほど母が誰かを愛したかった人なのか、本当はどれほど人を喜ばせることが大好きな人なのか、今の私はとてもよく知っています。

母は本当は欲しいものを欲しいということが出来なかった人でした。
言えずに我慢して、我慢して、我慢し続けて来た人でした。
ですから、私たちも欲しいのに遠慮して言えないのだと、思いこんでいるようですなのですね。
私や娘たちの言葉を聞かず、強引に押し付けてくるようなお節介の数々も、母なりに私たちのためを思ってのことであり、かつての母が誰かにそうして欲しかったことなのでしょう。

そして、母が弟の死に対してどれほど自分を責め続けているのかということも、また弟だけでなく姉や私にも、「私が母親でごめんなさい」という思いを強く持っているのだということもわかるようになりました。
だからこそ、私は母をずっと許せなかったのだと。
娘をあんなにも苦しめてしまったと自分自身をどうしても許せず、罰したくてたまらなかった私は、私と同じように自分の子供たちを結果的に苦しめることになってしまった母を責めることで、自分の罪悪感から逃げていただけでした。

そう気づけたころには、長女はだいぶ元気になって来ていて、私はようやく「母を許したい」と思えるようになりました。
母を許そう、母を「子ども」としての、「娘」の目線でみるのでなく、ひとりの人間として、対等な「大人」としての目線から、母を見ていこうと思えるようになりました。

そうして私は、もしも私の目の前に母が赤の他人として現れたら、そして一人のクライアントとして彼女の話を聴く機会があったとしたら、私はどう答えるだろう、どう彼女を愛そうとするだろうと初めて考えたのです。

「あなたは悪くないですよ」
「あなたの所為じゃない」
「今までよく頑張って生きて来られましたね」

ごく自然にそんな言葉が出てきて、ゆっくりと胸に浸み込んでいく感覚がありました。
そこで私はようやく、母との「癒着」を少し手放せたのだと思います。
また、心理学の先生に母への怒りを扱っていただいたセッションで、私は母の、深い深い「悲しみ」に触れることがあり、またそこで大切な気づきがありました。

「悲しみの海」と表現されるその深い悲しみ、たぶんそれは誰の中にもあるものかもしれませんが、――私はそこで、母の「悲しみ」をただ、ひたひたと感じることで、母が私を縛っていたのではなく、「私が」癒着してまで母を何とかしたかったのだと、やっと気付くことが出来ました。
私の娘がそうであったように私もまた、母を心から愛していたということ、何とかして救いたいと願っていたこと、そのためには自分を省みなくてもいいと思っていたこと、母を救えなかった私が、母に対してひどい罪悪感をもっていたということを、ようやく認めることが出来たのです。

「罪悪感」を感じさせる相手からは、距離を取りたくなります。
そして「罪悪感」を感じているその相手に、私たちは「愛」を感じることは出来ません。

でも、「罪悪感」があるのは、そこに「愛」があるからです。
愛してあげたいのに愛せない――、そんな自分を責めているからこそ「罪悪感」を強く感じてしまうのです。

私はずっと無意識に自分自身を罰し、自分に終身刑を課していました。
母もまた、そうでした。
だから私は、母が自分を無罪にしてその牢獄から出て来なければ、私も絶対に出ないと誓いを立てていたのかもしれません。
幸運なことに私はその後、娘のおかげで、そこを自ら出てくることを選択できたのですけれど。


そんな風に自分を癒しながら母との関係を見つめ直していくうちに、以前は帰省して一日目にはもう母の言動にキレてしまっていた私も、ここ数年は一度も怒らずに帰って来られるようになりました(笑)。
もちろん、「私もまだまだだなあ、もっと優しくできたのになんでこうなっちゃうんだろう」って反省することも多いですが、けれどそれでも、母の毎回同じ話を笑顔で聴いてあげることが出来たり、母のお節介を喜んで受け取ることも出来るようになってきました。
少し子ども返りしてきた母に対して、幼稚園の子に話しかけるような感じで相手が出来ていることもあって、「私も大人になったなあ」ってこっそり自画自賛していたりもします(笑)。

昔の私は、母に、どんな人にでも自慢できる、尊敬できる母であって欲しかった。
「なんでこんなにこの人はこんなに幼いんだろう、性格が悪いんだろう」なんてよく思ってもいましたが、それもすべて、自分自身の投影でしかありませんでした(笑)。
今、母のいいところ、素晴らしいところが見えるようになって、私の素晴らしいところは母にもらったものだと素直に思えるようになりました。
「ありがとう」と母に心から言うことが出来て、とても楽になりました。

母を許すことが出来始めてようやく私は、ひとりの「大人」としてしっかりと、自分の足で立てるようになれた気がしています。
私自身がやっと、自分に「自分を生きる」ことを許せたのでしょう。


「許す」ということ――、もちろん、どうしても許せないことはたくさんあります。
もしかしたら参考にはしていただけるかもしれないけれど、あくまでこれは私個人の経験であり、誰かに強要するものでは無いですし、無理に自分の気持ちを殺してまで、あなたが誰かを許す必要はまったく無いと私は思います。

でも、もしも――、「今は無理でもいつかはそう出来たら」と願うことが出来たなら、あなたは自分自身を自由にしたい、終身刑から解放してあげたいと思い始めているのかもしれませんね。
そしてそれこそが「自分を生きる」ことであり、誰かを愛することなのではないでしょうか。


あなたが、そしてこの世に生きるすべてのひとが、「自分を生きて」いくことができる世界でありますように......。
お読みいただいて、ありがとうございました(*^-^*)

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2017年1月17日

綺麗になることが怖かった

女性であれば、一度はあこがれる"マシュマロのようなつや肌"ってありますよね。
女性向けの雑誌にはいつも、綺麗な女優さんのドアップが表紙を飾っています。
雑誌だから綺麗なのは当たり前です。
何ともいえない屈辱や負けを感じるのは、実は、自分の周りにいる
肌のキレイな女性たちを近くで見るときだったりするんですね。

小学校6年生のときだったか、周りの子たちと比べて顔にニキビが出てくるのが
早かったと思います。
「お前、なんでそんなに赤いの?ギャハハ!」と男子にからかわれ、
嫌な顔をしていると、その男の子はさすがにしまった!と思ったのか、
「アトピー??」と聞き返してきました。
そのとき、思わず頷き、自分が嘘をついてごまかしたことを未だに覚えています。

そこから私の青春はニキビとの闘いとなりました。
中学生になるとますます症状がひどくなり、
見かねた母親が皮膚科へ連れて行ってくれました。
医者からは「年相応のホルモンバランスによる影響だから仕方ない」と言われ、
消毒薬と塗り薬、飲み薬をもらったものの、ある程度の年齢が来たら良くなるもの
だと信じていたので、それっきり皮膚科には行かず中学生を乗り切りました。

ところが、高校生になってもなかなか終息せず、
額ニキビから頬や顎の辺りに移動してきました。
額なら前髪で隠せるものが顔面の目立つところにできてしまうので、
毎日鏡を見るのが苦痛に感じ始めていました。
年頃の女の子でしたから(一応ね。笑)好きな人ができたとしても
私には付き合うことはムリだと思い、人を好きにならないように
気持ちを抑えていたのです。
なぜ、付き合うことがムリだったのか。
それは、近くで見られたら絶対に肌が汚いって
思われて嫌がられるだろうって思ったからです。

高校を卒業し、専門学校へ通うようになってからは
周りが女の子ばかりだったので、男性からの目線は
あまり気にならなくなっていました。
それと同時に、二十歳近くなっても一向に良くならないニキビを
治したいとも思わないようになっていました。
それは、女としてキレイになることを諦めた瞬間だったような気がします。

周りの子が化粧品を使って可愛くしたり綺麗にメイクしたりしていても、
自分には無縁のものだと思い込んでいました。
違う世界の話だから、自分が化粧品コーナーに行くことすら
場違いなことだと信じていました。
学生生活では勉学や実習があり強いストレスにさらされていたこともあり、
肌のことどころか体のことさえ大切にせず、暴飲暴食していた時期もあります。

社会人となり働き始めてからも、諦めたとはいえ、
やっぱり鏡を見るのがつらいことには変わりありませんでした。
自分の顔を見て特に顕著に感じる苦しさは、
彼氏ができないという現実を目の当たりにすることでした。
かといって、自分の顔を理由にすることは人前で簡単にいえることではなく、
ずっと平気なフリをしてきたのです。
友達からは「もうちょっとだけ痩せたらいいんじゃない」とか
「遅刻癖は直さないとだらしない女だと思われちゃうよ」とか
言われたこともあります。
でも、それは私には全くヒットしない言い訳でした。
どこか、私の苦しみはきっと誰にもわからない、
という思いもありずっと口をつぐんでいました。

社会人3年目の頃、経済的にも余裕が出てきた私にチャンスが訪れました。
ある時、友人がフェイシャルエステに誘ってくれたのです。
最初は少し警戒心がありましたし、値段も高いなぁとも思いました。
お試しだけで終わろうかなと思ったのですが、
なんだか「今しかできないかもしれない」という思いがわいてきました。

思い切って10回コースを申し込み、
月に2回ほどのペースで通うようになりました。
自分以外の人の手がわたしの顔を優しく触れてくれたことが
気恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。始めのうちはニキビ
(というか、この頃はもう吹き出物ですかね。笑)が点在しており、
肌への蒸気や吸引機などの刺激もあって、
一時的に顔面が真っ赤になってしまいました。
それほどまでに敏感肌であることに、それまで全く自覚がありませんでした。

また、エステティシャンの方からも肌の手入れを教えてもらったり、
ちょっとした変化に対して一緒に一喜一憂してくれたりしました。
そうしていくうちに、自分の肌を丁寧にケアしていくことの
喜びを感じ始めていました。
そして、それは私が自分への自信を取り戻していくプロセスでもありました。

10回コースが終わる頃には肌の状態もずいぶんと改善し、
自宅でのセルフケアも手慣れたものになりました。
自分で自分を大切に扱う、ということは、
何か特別なことをするのではなく、普段から何気なくやっている
一つ一つの行動から変えていくことなのかなぁと思いました。

美容に何万円もかけている人を見てあまりいい印象をもっていなかった私が、
こんなに充実したお金の使い方をするとは思ってもみませんでした。
私は、自分が綺麗になれるなんて信じていなかったので、
そうなることが怖かっただけなのかもしれません。

一番怖いのは、ずっと諦め続けてしまうことなのかな、とも思います。
自分が欲しいものをもう一度認めてみると、案外願いは叶うのかもしれませんね。

庭野智美のプロフィールへ>>>

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