2010年09月07日

8.18トリプル記念日

8月18日は、私たち夫婦の記念日です。

お付き合い記念日であり、プロポーズ記念日であり、そして結婚記念日なのです。


お付き合いが始まったときには、結婚までのすべての節目が8月18日になろうとは、想像もしていませんでした。
きっとご縁があれば、自然と結婚しようということになり、気づいたら結婚してるんだろうなぁ・・なんて、漠然と思っていたことを懐かしく思います^^


プロポーズを受けたのは、2006年の8月18日でした。

お付き合いが始まったのが2004年でしたから、ちょうど2年目にしてプロポーズを受けました。

そのころ夫は大学院生でした。今思えば、責任感が人一倍強い夫が、定職に着く前に決心してプロポーズをしてくれたのは、ものすごい覚悟と決意の上でだったんだろうな、と思います。

責任感が強いほど結婚に踏み切れない、ということはよくあることだからです。責任感が強い男性ほど、「俺が養うんだ」「何かあったら大黒柱は俺だ」「一家を支えられる男でなければ」という想いが強く、「何が何でも奥さんをしあわせにするんだ!」という気持ちを強く持つようです。
反面、その想いが強いがために、定職についてたくさん稼げるようになってからじゃないと、子どもができてもちゃんと食べさせることができるようになってからじゃないと、自信を持ってご両親に会いに行ける自分になってからじゃないと・・等々、“ちゃんと準備が整ってから”でないと結婚できないと感じ、そういう偉大な自分になれるまで自分が結婚することに対してGOを出せなかったりする、ということを知っていました。

だから本当に、ものすごい決心をしてくれたんだろうなと、いま思い出しても心がじ~んと熱くなります(^^)


そういう喜びに包まれてましたから、結婚もそのうちすぐだろうな~♪なんて思っていました。

ところが・・予想に反して結婚したのは去年、2009年8月18日。
プロポーズを受けてから3年後のことでした。

このことを周りに話すと、「よく待てたねぇ~」と言われます。
でも、不思議なくらい、私の中では“待っている”というような感覚はありませんでした^^
むしろ、“待たされている”と感覚がなかった、と言う方が正しいのかもしれません。

なぜなら、いつでも夫は目の前のことに一生懸命だったからです。
2年間働きながら大学院に通い、難しい修士論文を仕上げて大学院を卒業し、その後就職。この就職が2008年の春のことでした。1年間がむしゃらに働いての2009年春。そしてその夏に結婚しました。

こう文章にしてみるだけでも、このうちの一体何処に結婚準備をする時間があったのだろうと思ってしまうほどです。

でも、結婚式の準備にも、夫は一生懸命でした。
会場決定するのに、必ず自分の足で見に行き、料理も絶対試食して確かめ、足腰の良くないおばあちゃんのためにバリアフリーにこだわり、自分のやりたいことが出来るか何度も会場に確認していました。
ウェディングプランナーさんも、「こんなに彼が来てくださる、結婚の準備に関わってくださるカップルさま、そうそういないですよ!」と驚くくらいのがんばりだったのです。

さらにすごいことに、夫にとってそれらは“がんばりでもなんでもなかった”という事実です。
私たちはふたりとも田舎出身だったので、遠く離れて暮らしている、私たちの健康や無事をいつも祈ってくれている、大切な両親に安心してもらいたい。こんなにたくさんの友だちに囲まれているから東京でも大丈夫だよって、目で見て実感してもらいたい。
そして、私たちをここまで支えてくださった、またこれからもご縁が続く皆さまに、心から楽しんでもらいたい、感謝の気持ちを伝えたい。
そのためには、“これくらいやるのが普通でしょ”と思っていたようです^^

この時、私はちょうど仕事を辞めて無職でしたから、私にやらせようとすれば幾らでもできたはずなのに、夫は最初から最後まで一緒に準備をし続けてくれた、時には私よりもすごいこだわりを見せていた、これらは今でも本当に嬉しくて、この喜びはずっと心に残っています。

結婚式当日、やりたかったことは全部、できました!^^
自分たちも存分に楽しみ、来てくださった皆さまもみんな笑顔で、その中で祝福していただけるのが嬉しくて、皆さまを巻き込んでのイベントも大成功、そして、来てくださった皆さまに私たち夫婦を承認して頂いたことがこれまた嬉しくて。
結婚式をやって、本当に最後まで手を抜かずに創り上げて良かったと、今でも強く感じています。


それからは、お友だちの結婚式に招待して頂く度に、自分たちの結婚式を思い出して感涙します。
目を閉じれば、あのときの情景が、祝福が、笑顔が、すべて鮮やかに浮かび上がります。

結婚して、もう1年が経つなんて、びっくりです。
まだまだ、去年のあの時の感動に、心は何度も震えます。
そして、2004年からのふたりの軌跡を、ふたりで思い出しながら、「あの時は、ああだったよねぇ」と話すことが、これまたすごく嬉し楽しかったりします。


人生いつの時も、次の瞬間には何が起こるか、誰にもわかりません。それでも。

『きっと、ずっとこの人とこうやって、笑い合ってばかやって、おもしろたのしく暮らしていくんだろうなぁ^^それって、最高にしあわせだなぁ。』

そんな感覚に包まれています。

もちろん、根拠なんてありません^^
でも、なんとなくそう感じられて、きっとこれからはこの“なんとなく”が積み重なって、ふたりは気づいたらおじいちゃん&おばあちゃんになってるんだろうなぁ・・なんて思います。

おじいちゃん&おばあちゃんになっても、手をつないで、笑い合って、ハグし合って。
家族に囲まれ、みんな笑顔で、たまにふたりっきりで旅行に行って、豪華なお食事して、後は日々しあわせな日常を暮らして。しあわせをどんどん積み上げて。

一日一生のつもりで、そんな風に毎日生ききって、その先に光り輝く人生のゴールがあるような、そんな人生を。これからも夫とともに、るんるん歩んでいきたいと思っています(^^)

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2010年08月31日

ひき籠もりの父

父が亡くなって何年か経ちます。父はもともと頑固で、年をとるにつれて更に難しくなっていったように思います。

何かにつけメモするのが、父の晩年の習慣で、時折ボールペンの強い筆跡でびっしり書かれた文字が数ページ、一文字も間違っていないのを見ると、すごいというか恐いと感じる事もありました。

字はその時によって違い、弱い筆跡で書かれている部分もあり、その中に線でグチャグチャに塗り消してある漢字を見つけました、よく見るとそれは「ひき籠り」の籠という漢字でした。

そのときあらためて父の人生は「ひき籠もり」だったことに気づきました。

たったひとりでひきこもっている訳ではありませんでした。どうしようもなく懲りてしまった物事があり、自分に対してなのか、人に対してなのか、多分両方ダメージを受けた事が、「ひき籠もる」きっかけだったように感じます。

父はエリート意識が強くバリバリと仕事をしてきた人で、外では社交的にふるまっていたのかもしれませんが、家では庭仕事が好きでろくに家族と話しもせず、花はすぐ枯れてしまうからと敬遠し、蛙を見つけては喜んでいました。

仕事では猪突猛進する「猪」のように努力家でありながら人には気を遣い、会社から帰るとピリピリしている事もよくありました。重病を境に同様の会社員には二度と戻りませんでした。

外に出ないとか、仕事をしない籠もり方ではなく、傷ついて誰にも本心を見せない「心を籠らせているような状態の人」は、むしろ沢山いるような気がします。

ひき籠もるの「籠」は「かご」と読み、竹で編まれた籠は、「篭」とも呼ばれ、物をやさしくかこってくれます。「籠もる」とは、お寺に籠もるなど、いろいろな意味があるようです。

人に触れられては困るほどの傷ができたとき、それをかばうように身を護りながら、心を養い育て、またどう生きたらいいか模索(思索)する時期として「ひき籠もる」事にも意味がありそうです。

時として怒りや恐れで一杯になり、そのいっぱいの感情が人と接する際に不都合になり、一人でいたいとも思います。

人間関係が煩わしい、一人になりたいと思うこともありますが、人と離れきってしまう事が何かと不都合で、ひき籠りが問題とされる場合もあります。

人がいつ傷つき嫌になってしまうか、その可能性が全くゼロの人も、本当はいないといってもいいのかもしれません。

不況下の就職事情も厳しく、がんばったのにリストラにあう等、高度成長期とは明らかに違う流れが押し寄せています。

一人になりたいと思うときに無理なく一人でいられ、自然と心が癒え、人と接したいという気持ちが出てきて、外に向かっていけるのが理想なのですが、そううまくいかない場合もあるでしょう。

どうしようもなく傷ついたときに、たった一人で這い上がっていくことは、本当はとても難しいことです。そんな時に自分はひどく「弱い」と思いこんでしまう人も多いように思います。

私の父は弱さを嫌いました。そんな父に私は若い頃何度か「お前は弱いから駄目だ」と言われ、更にダメージを受けた事もあります。今では誰でも弱い部分は持っているものではないか、と感じています。

自分も世界も嫌になった時、嫌っている自己像を映し出す、自分以外の人が持つ別の鏡があり、違う部分を映し出してくれると、自分自身の思い込みに気づける事もあります。たったひとりではないと思える事が必要な場合もあります。

本人が頑なになっている原因には、そう簡単にわかってもらないような物事を抱えている場合もあり、本音を吐ける場所を持てず、そのうち自分の本当の気持ち、または自分自身の長所にも気づけなくなってしまう場合もあるからです。

時として腫れ物みたいで、そこにうまく触れるのが簡単ではない場合もありそうです。

「おとうさんはひき籠りだったね。」と亡くなった父に言ったら「ふざけるんじゃない!」と怒ると思います。「人をあてにしても仕方ないし、それほどの人もあまりいなかったからね。」と言えば少しうなずくのかもしれません。

いつも前向きな考え方、しかも自分を表現しながら誰にでもオープンな気持ち、決してそれだけではいられないのが本当のところで、どこかで自分の心を守ろうしながら生きているものかもしれません。

釣りに行ったり、仕事だけにのめりこんだり、衝動買いをしたり、お酒を飲んだり、ちょっとひきこもったり・・・・etc。

実際父はがんばるときにはがむしゃらで、努力家で前向きで、今の時代の「ひき籠り」には何故かとても否定的でした。

亡くなってやっと父はずっと見せたことのない穏やかな表情をしていました。随分戦っていたんだな・・よく生きてくれた、本当におつかれさま・・と感じました。

もしかしたら父は「ひき籠り」の部分の自分を断固として否定しながら戦っていたのかもしれない、と思ってみると、そのあまりの必死さを思い出します。

心の底に「こんな自分こそ最低・・・」という意識もどこかにあり、必死でそれを感じまいとしていたのかもしれません。

時代は移り、時としてわかりあえない部分もあるけれど、よく考えて見れば同じ所もあり、父自身そんな自分の劣等感を拭い去って「俺もひき籠もりだな・・。」と穏やかに言えたのなら、もっと楽に生きられたのかもしれません。

そんな父も本当は子供のように無邪気で、才能も豊かな面白い人だったな・・・と昔のできごとを懐かしく思い出します。

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2010年08月24日

想い出の、夏~~空にいる友人たちに逢える季節~~

 『祐子は駆け足で夜の駅前を走ってゆく。新しい冬の到来。町は綺麗に星々の瞬きで忙し(せわし)なく輝いている。
 “先生、私はこんなに元気になったのよ。ホラ!”』 
(「サプライズ 世界で一番幸せな片想い」阿端萌窪著 文芸社)より抜粋

 冒頭は、約2年前、49歳の誕生日を目前に、空に戻っていった友人が残した私小説的闘病記の始まりの部分なのですが、彼女は5年余りを病気とともに暮らし、「私は本当に幸せ者やわ」と言い残して、空に帰っていきました。

 特に、入退院を繰り返していた時期の行動力は、元気だったころを上回っていたのではないか、と思わせる節も多々あり、彼女の歩く後には生命力のオーラが尾を引いているようでさえありました。
 
 繰り返す再発。副作用。どれだけ不安だっただろうか。私に何ができたのだろうか。

 自問自答は尽きないのですが、彼女がくれたたくさんのギフトを今、紐解いてみようと思います。

 彼女はまさに、「明日はないものと思え」と考えていたのでしょう。亡くなる3週間前までワークショップに参加をし、友人に逢いに行き、3日前には私たちを病院に呼び出し、3時間あまりを涙と笑いですごしました。

~行きたい所に行き、やりたいことをするの。今まで我慢ばっかりだったから。

そう言っていたのは実は最後に逢った亡くなる3日前。もうほとんど何も食べないで補液で栄養を摂っていたのに、アイスクリーム1個を完食し、周りを驚かせていたな。

~誰と一緒に食べるのかが大切なのよね。
 
その光栄に預かったわけなのですが、このひと時こそ、私にとっても、生きることについての本音・・・「誰といるかが大切」ということが、浮上してきた大切な瞬間でもありました。

 最近は、緩和ケア医療にかかわっていることもあり、様々な方の人生の終着点に触れる機会が増えました。緩和ケア自体は、心身の痛みを和らげる医療の一環なのですが、治癒を目指すことが難しいケースも結構あるからです。

 そういったケースでは、・・・人生においての時間は、誰であってもいつかは必ず終わるのですが、その時期が遠くはないことをご自身が知っている訳です。私の友人のように、自分のやりたいことにひたすら向かっていく方もいれば、一番近くにいたい人・・・多くはパートナーなのですが・・・と少しでもいい時間を持ちたいとただ願う方も、とっても多いように思います。

 私が出逢った方の中には、言葉を発する力がもはや無くなっていても、最後の力で愛する人の手を握り返し、かすかに頷いて応える姿が何人かおられました。
 
 そこに灯る命の火は神々しく、見守っている家族や親しい人のみならず、関わっている医療従事者の胸にさえ、いつまでも深く刻まれるのだと思います。

 旅立っていく人、見送る人、それぞれの胸には、時にはただただ想いだけが、時には出来事としての思い出が去来するのかもしれません。

 ―――降り注ぐ蝉時雨を払いのけるように見上げたら、そこに懐かしい笑顔があったような気がしました・・・本当は、眩しいほどに白い雲がただ浮かんでいるだけなのかもしれないけれど。

 いつの日か、私も白い雲と漂うようになる時には、優しい笑顔たちが私のことを待っていてくれるのかな。随分と先なんでしょうけどね。

 なんてことを書いていると、空から叱っているように雷鳴が・・・。まだまだ来るなってことかな。

 日々一刻を重ねて、人生と言う美しい風景を織り成している、最後の仕上げを、ほんの少しだけ垣間見させていただいているわけですが、思うに―――最期の数日間、には数時間を一緒に過ごす相手を、人はどこか深いところで選んでいるのかもしれないな、と。

 限りがあるから美しい、と語るほどには達観できていない私ですが、最近はそんな風にも考えることが多くなりました。

 メメント・モリ(memento mori、「死を想え」というラテン語)と言いますが、陳腐な表現ではありますが、悔いないように生きるには、いつか来るその日を想うことはとても大切だと、私は思うのです。
 
 それは、どんな人にも赤ちゃんの時代があったことを考えるのと同じくらいに。

 白い雲を見ては、冒頭の「祐子さん」をはじめ、帰っていった友人たちの笑顔や、数知れないたくさんの人生に思いを馳せる今年の私、です。

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2010年08月17日

戦争と平和 ~あなたの幸せは、あなただけの幸せですか?~

 この初夏、海外の心理学セミナーに参加した時に、人と人との争いを再現して癒
していくという試みを体験する機会があった。
 戦争の源を探り、それを癒すというのだ。
 正確にはこんな簡単に説明できないものだったのだが、すべてを書ききることが
できないので、僕なりの視点で思い切って簡単に説明させていただきたい。

 そのセミナーには、世界の様々な国から様々な人種の人たちが100名ほど参加
していた。

 その中から、各国にいるトレーナー、つまり、心理学を教える側に立っている人
たちが代表で、20名ほど前に出て、「被害者」と「加害者」に分かれて立った。

 同じ国の人でも、「被害者」側に立つ人もいれば、「加害者」側に立つ人もいた。

 それぞれの国が持つ歴史があり、それぞれの人が持つ過去がある。
 同じ国、同じ人種でも、それはその人で、どちらに立つと感じるのかが変わって
くるのだと、わかりやすい形で目に飛び込んできた。

 「被害者」と「加害者」に分かれた人たちは、お互いが見つめ合って立つ。
 そのちょうど真ん中に線があり、平和を感じることができたら、この真ん中まで
進む。

 それが実際に始まると、「被害者」と「加害者」に分かれて立った人たちは、様
々な思いを表に出し始めた。
 泣く人、怒りをあらわにする人、無表情の人。
 悲しみにくれる人、申し訳なさに苦しんでいるようにみえる人。
 憤りの顔、目を剥く顔、能面のような顔。

 僕は、それを見ながら、今、世界で起こっていることを、そのまま見せられてい
るような気持ちになり、あまりの悲しみから知らないうちに涙を流していた。

 しかし、その状態がしばらく続いた後、一人、二人、また一人と、少しずつ中心
に向かって歩みより始めた。

 一人、二人、また一人。
 中心で向かい合った人たちは、お互い抱きしめ合って、泣いた。
 そして、最後には全員がひとつになって、笑いあったのだった。

 このセミナーは、確かに、いろんな国々の人たちがいたが、世界中のすべての国
の人々が、すべての人種が集まっていたわけではない。
 また、ある程度の経済的余裕がある人達が集まっていたのかもしれない。
 そう、一定の条件の元で行われたことなのだ。

 けれども、僕は、深く感動した。
 確かに、感動したのだ。

 それは、僕の中の「平和への敷居」を下げてくれた気がした。
 そしてまた、自分が信じて積み重ねてきた、この心理学の学びの中で培ってきた
ことが間違いではなかったことを感じたことでもあった。
 それは、「まず、自分が幸せを感じ、それを周りの人と分かち合うこと」。
 今、このセミナー会場にいる人、全員が感じていると思った。
 僕が感じているように。
 「まず、自分が幸せを感じ、それを周りの人と分かち合うこと」が平和の源だと
改めて思ったのだ。


 僕は、昔から、戦争が起こるのは、人が幸せになりたいと思うからだと考えてい
た。
 そのことをずっと悩み続けていたような気がする。

 その考え方が180度変わったのは、心理学を学んだ時だ。

 例えば、「笑顔」。
 「笑顔」がどれだけ人を幸せにできるか、という話がある。

 あなたが、今日から、入る様々なお店の店員さんに、心から笑顔で会話しようと
決めたとしよう。
 すると、店員さんはどんな気持ちになるだろうか。
 いらっしゃいませ、の言葉に笑顔で応える。
 ありがとうございました、の言葉に笑顔で応える。
 店員さんは、きっと、気分がいいに違いない。
すると、次にやってくるお客さんを、気分のいい笑顔で迎えることができる。

 「笑顔」は本気でやったら伝染する。

 だったら、それを自分の家族にやれたら。
 家族はどんな気持ちになるだろうか。
 自分の周りの人にやれたら。
 周りの人はどんな気持ちになれるだろうか。

 そして、その気持ちは、その人からその周りの人に広がっていくかもしれない。
 そして、その気持ちは、日本中に、世界中に広がっていくかもしれない。

 かもしれない。

 いつも笑顔でいるのは大変な時もあるだろう。
 かっこつけてると思ってしまうかもしれない。
 笑顔を向けても、見てくれないかもしれない。
 逆に不機嫌になる人もいるかもしれない。
 そもそも、広がっていかないかもしれない。

 かもしれない。
 でも、それは「不可能」とはイコールではないはずだ。

 誰かのことを心配するなら
 誰かに手を差し伸べたいと思うなら

 まず、自分が幸せになること。そして、それを周りの人に分かち合うこと。

 大きな視野で世界を見渡すことは、必要不可欠なことだ。

 けれど、今、目の前の幸せをおろそかにして、世界を見ることができるだろうか。

 今、ここでできること。
 そして、自分にしかできないこと。

 それは、自分を幸せにすることだ。
 そして、それは、自分だけを幸せにすることではない。
 周りの人を幸せにすることだ。
 それは、いつか、たくさんの人を幸せにすることにつながるのだと思うのだ。


 あなたの幸せは、あなただけの幸せですか?

 まずは、思ってみてください。そこからはじめていけばいいと思うのです。

 あなたの幸せが、あなただけの幸せではないということを。

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2010年08月10日

古新聞と暮らした女

 夏に相応しい少々ホラーなお話です。
 心臓の弱い方、大塚カウンセラーがとてつもなく素晴らしいと思っていらっしゃる方は、決してお読みにならないでくださいね。

 しばらく前まで、わたしの部屋は「新聞」でいっぱいでした。その量は、約5・6年分。部屋の四分の一は新聞に埋もれていたのです。新聞とは言っても、数年熟成させたら立派な「古新聞」。陽の光に焼かれてすっかり変色した山積みの古新聞と暮らす女…ホラーでしょう。

 ではなぜ、わたしがそこまで大量の古新聞を溜め込むに至ったのでしょうか。そこには数年間の心の軌跡があったのです。

 かつてのわたしには、読み物の中で新聞が一番落ち着くと思える時代がありました。新聞の文章には客観性があり、誤字・脱字のない適切な日本語が用いられています。本を作る仕事をしていた当時のわたしにとって、新聞の文章は安定と安心を感じさせてくれたのでした。新聞を毎日読み切ることができなくても、休日に一週間分をまとめて読んで楽しみ、充実感を味わう日々があったのです。

 ところがある日、職場で心が折れるような出来事が起こり、文章を読むことが苦痛で仕方なくなってしまいました。新聞を定期購読しても、見るのはテレビ欄だけ。本文は未読なので、いつか読もうと部屋の隅に積み上げていきました。時折、まとめて数日分を読み切って片付けることはありましたが、読み切る量は月日の経つ早さ(新聞が発行される速度)に追いつくことはなく、日に日に未読新聞の山は高くなり、部屋は新聞に占拠されていったのでした。

 人にこの話をすると、「読まないのならば処分すればいい。」「購読を止めればいい。」そう言われました。ごもっともです。でも、わたしにはそうできなかったし、したくなかったのです。傍から見たら理解不能なほど、新聞に執着していました。

 この頃、わたしの心の中で何が起きていたのでしょう。古新聞に囲まれて考えていたら、三つのことがわかりました。

 一つ目は、新聞を「読まずに捨てる」という行為に関する感情。当時、わたし自身が本を作ることに相当のこだわりをもっていましたから、「読まずに捨てる」ことを自分がしてしまうと、自分が丹精込めて作った本も開かれもせずに放っておかれるような気持ちを感じていたようです。新聞記者さんたちの想いを軽々しく扱ったら、まるで自分も適当に扱われるように感じる、心理学でいう「投影」がありました。

 二つ目は、「購読を止められない」理由。わたしにとって、新聞は社会性の象徴だったようです。心が折れて文章も読みたくなくなり、社会とのかかわりを避けるようにしていた一方、社会と距離ができることが不安で怖かったようです。新聞を購読することで、社会との関係を維持していたかったのでしょう。

 三つ目は、一つ目・二つ目に挙げた「心が何を求めていたのか」をわかっていながら、それでも古新聞を処分できなかったわけ。職場で起きた心が折れた出来事に対して、わたしはとても怒っていました。とにかく「正しさ」が味方に欲しかったのです。それが、物質的には「新聞」という形でした。客観的で誤りのない事実を掲載する新聞は、わたしにとって目に見える「正しさ」でした。たぶん、わたしが溜め込んだ新聞の量は、わたしが求めた正しさの量に比例していたのでしょう。それほどの量の正しさがないと、「わたし悪くない」と証明できないと思い込んでいたのです。

 これらのことに気がつけた時に、初めて「もう処分してもいいかな。」と思えたのでした。新聞本来の目的とは異なった使い方となりましたが、大量の古新聞は数年間わたしのこころを支える働きをしてくれていたのでした。ここまで納得して、ようやく古新聞に感謝して手放すことができるようになりました。

 部屋の状態は心のあり方を映し出すということ、それが実体験を伴って腑に落ちた経験でした。心理学は体で学ぶ派として、今後も我が身を素材に臨床経験を重ねていこうと思います。すでにおわかりいただけたかと思いますが、この「古新聞と暮らした女」のお話は「片付けられない女」の言い訳ではありませんよ。あくまで臨床経験、臨床経験(ということにさせてください…)です。どんな経験からも得られるものはあります。できるなら、楽しみながら見つけたいと思う大塚なのでした。

 最後までお読みいただきありがとうございました。


大塚統子のプロフィールへ>>>

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