2017年1月17日

綺麗になることが怖かった

女性であれば、一度はあこがれる"マシュマロのようなつや肌"ってありますよね。
女性向けの雑誌にはいつも、綺麗な女優さんのドアップが表紙を飾っています。
雑誌だから綺麗なのは当たり前です。
何ともいえない屈辱や負けを感じるのは、実は、自分の周りにいる
肌のキレイな女性たちを近くで見るときだったりするんですね。

小学校6年生のときだったか、周りの子たちと比べて顔にニキビが出てくるのが
早かったと思います。
「お前、なんでそんなに赤いの?ギャハハ!」と男子にからかわれ、
嫌な顔をしていると、その男の子はさすがにしまった!と思ったのか、
「アトピー??」と聞き返してきました。
そのとき、思わず頷き、自分が嘘をついてごまかしたことを未だに覚えています。

そこから私の青春はニキビとの闘いとなりました。
中学生になるとますます症状がひどくなり、
見かねた母親が皮膚科へ連れて行ってくれました。
医者からは「年相応のホルモンバランスによる影響だから仕方ない」と言われ、
消毒薬と塗り薬、飲み薬をもらったものの、ある程度の年齢が来たら良くなるもの
だと信じていたので、それっきり皮膚科には行かず中学生を乗り切りました。

ところが、高校生になってもなかなか終息せず、
額ニキビから頬や顎の辺りに移動してきました。
額なら前髪で隠せるものが顔面の目立つところにできてしまうので、
毎日鏡を見るのが苦痛に感じ始めていました。
年頃の女の子でしたから(一応ね。笑)好きな人ができたとしても
私には付き合うことはムリだと思い、人を好きにならないように
気持ちを抑えていたのです。
なぜ、付き合うことがムリだったのか。
それは、近くで見られたら絶対に肌が汚いって
思われて嫌がられるだろうって思ったからです。

高校を卒業し、専門学校へ通うようになってからは
周りが女の子ばかりだったので、男性からの目線は
あまり気にならなくなっていました。
それと同時に、二十歳近くなっても一向に良くならないニキビを
治したいとも思わないようになっていました。
それは、女としてキレイになることを諦めた瞬間だったような気がします。

周りの子が化粧品を使って可愛くしたり綺麗にメイクしたりしていても、
自分には無縁のものだと思い込んでいました。
違う世界の話だから、自分が化粧品コーナーに行くことすら
場違いなことだと信じていました。
学生生活では勉学や実習があり強いストレスにさらされていたこともあり、
肌のことどころか体のことさえ大切にせず、暴飲暴食していた時期もあります。

社会人となり働き始めてからも、諦めたとはいえ、
やっぱり鏡を見るのがつらいことには変わりありませんでした。
自分の顔を見て特に顕著に感じる苦しさは、
彼氏ができないという現実を目の当たりにすることでした。
かといって、自分の顔を理由にすることは人前で簡単にいえることではなく、
ずっと平気なフリをしてきたのです。
友達からは「もうちょっとだけ痩せたらいいんじゃない」とか
「遅刻癖は直さないとだらしない女だと思われちゃうよ」とか
言われたこともあります。
でも、それは私には全くヒットしない言い訳でした。
どこか、私の苦しみはきっと誰にもわからない、
という思いもありずっと口をつぐんでいました。

社会人3年目の頃、経済的にも余裕が出てきた私にチャンスが訪れました。
ある時、友人がフェイシャルエステに誘ってくれたのです。
最初は少し警戒心がありましたし、値段も高いなぁとも思いました。
お試しだけで終わろうかなと思ったのですが、
なんだか「今しかできないかもしれない」という思いがわいてきました。

思い切って10回コースを申し込み、
月に2回ほどのペースで通うようになりました。
自分以外の人の手がわたしの顔を優しく触れてくれたことが
気恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。始めのうちはニキビ
(というか、この頃はもう吹き出物ですかね。笑)が点在しており、
肌への蒸気や吸引機などの刺激もあって、
一時的に顔面が真っ赤になってしまいました。
それほどまでに敏感肌であることに、それまで全く自覚がありませんでした。

また、エステティシャンの方からも肌の手入れを教えてもらったり、
ちょっとした変化に対して一緒に一喜一憂してくれたりしました。
そうしていくうちに、自分の肌を丁寧にケアしていくことの
喜びを感じ始めていました。
そして、それは私が自分への自信を取り戻していくプロセスでもありました。

10回コースが終わる頃には肌の状態もずいぶんと改善し、
自宅でのセルフケアも手慣れたものになりました。
自分で自分を大切に扱う、ということは、
何か特別なことをするのではなく、普段から何気なくやっている
一つ一つの行動から変えていくことなのかなぁと思いました。

美容に何万円もかけている人を見てあまりいい印象をもっていなかった私が、
こんなに充実したお金の使い方をするとは思ってもみませんでした。
私は、自分が綺麗になれるなんて信じていなかったので、
そうなることが怖かっただけなのかもしれません。

一番怖いのは、ずっと諦め続けてしまうことなのかな、とも思います。
自分が欲しいものをもう一度認めてみると、案外願いは叶うのかもしれませんね。

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2017年1月10日

過去を振り返って

皆さま、こんにちは。源 やすこ(みなもと やすこ)です。
初めて「心理カウンセラーのコラム」を担当させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

新しい年を迎えましたね。
皆さま、どのような年末年始をお過ごしになられたでしょうか。
今年一年の計画を立てられたり、去年を振り返ったりされた方も多いでしょうね。

私の年末年始は色々と忙しくしていたのですが、去年、プロカウンセラーとしてデビューさせていただいたこともあり、プロカウンセラーになってから起きた出来事を思い返したり、出会った方々のことを思い出したり、カウンセラーになるまでの過去を振り返ったりもしていました。


かつての私は、自分のことが大嫌いでした。
私なんていなければ良いし、その方が周りの皆にとって幸せだとずっと思っていました。 
生きることが何だかとても苦しくて、自分ひとりで何とかしようと思って格闘していましたが、それも難しくなり、心理学の門を叩きました。

カウンセリングサービスの母体の神戸メンタルサービスのカウンセラー養成コースに入り、心理学を学び始めて間もなく、「自己嫌悪」をテーマとした講座を受講しました。
自己嫌悪とは、文字通り、自分を嫌うことです。
これって自分のことだなあと思い、その講座が始まる前からとても楽しみにしていました。
講座が始まると、講師の話はとても面白く、あっという間に時間が経ちました。
そして、講座の終わりに、講師は「自分の良いところを思い付くだけ書くように」と言いました。

冷や汗が出ました。
私に良いところなんてどこにもない。
すごく悩んで自分の良いところを考えている中、周囲の受講生たちはたくさん自分の良いところを書いていきます。人によっては何十個も。
とても焦りました。
そして最後に、近くに座っている人たちとグループになって、書き出した内容を発表し合う時間があったのですが、私には発表できる自分の良いところが何もなくて、制限時間を全て使っても、良いところを一つも思い浮かべることができなくて、講座が終わった後、情けなくて、とても悲しくて、一人で泣きました。

そこから、学びと癒しを深めてちょうど一年後。
偶然、同じ講師による同じ講座が開催されました。そして、講座の終わりに、講師は課題を出しました。
「自分の良いところを思い付くだけ書くように」

一年後の私は違っていました。
5つ、自分の良いところを書くことができました。
他の人はもっとたくさん書いていました。けれど、自分にとっては充分。
良いところを5つも書けたことに、胸に熱いものが込み上げてきて、それを他の受講生に言ったら、皆が笑顔で喜んでくれました。
皆が喜んでくれたことも、そして何より、良いところが書けたことが嬉しくて、涙が流れました。

一年前と一年後、講座で泣いていた事実は同じだけれど、悲しみの涙が、喜びの涙に変わっていました。

その一年間で、そしてそれ以降も時間をかけて、私は、本来の私を発見し、見つめ、見方を変え、自分を好きになっていきました。
本来の私自身と出会う旅に出ていたのです。


そんな過去の諸々を振り返った年末年始でした。

今、自分に良いところなんてないと思っている人も、そうでもないけれど自分の悪いところばかり見えてしまっている人も、きっと、変わっていくことはできると信じています。
私ができたように。

今、私は、自分の良いところを5個よりもずっと多く書けます。

あなたは自分の良いところをいくつ書けますか?

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2016年12月27日

どんな自分になりたいですか?

ありがとうございます。
岡田郁美(おかだいくみ)です。

もう少しで今年も終わり、新しい年になりますね。
今までの自分を振り返り、ご自身の変化を感じていただき、
来年、どんな自分になりたいか、思い描いてみませんか?


私の話になりますが、
カウンセラーになりたくて、4年前にカウンセリングサービスの母体、
神戸メンタルサービスのカウンセラー養成コースに入会し、
昨年、念願のプロカウンセラーになりました。


私は、普段は看護師をしています。
この4年間に、離職と復職を経験しました。

私は子供の頃から、自分の感情を感じないようにしてきたようでした。
それに気づいたのは、心理学を学び始め、
ヒーリングワークというものに参加したのがきっかけでした。

ヒーリングワークとは、
カウンセラー養成コースのカリキュラムにある癒しを体感するセミナーです。


頭では、寂しいや悲しい、嬉しいや楽しいなどの感情を理解できていましたが、
心で感じるということが、出来ていなかったようなのです。

ヒーリングワークに初めて参加した時は、なんだかわからないけれど、
とても感情が高ぶっていて、「また、行きたい」と思いました。

何回かヒーリングワークに参加しているうちに、
「仕事を辞めたい」と思うようになりました。


職場では、1年に何人もの方が、いろんなかたちでお亡くなりになります。

事故で亡くなられる方、
長い闘病生活の末に亡くなられる方、
ご家族に看取られ,亡くなられる方、
お一人で亡くなられる方、
本当にさまざまです。

感情を、心で感じるようになってからは、それに耐えられなくなったようでした。


病院を退職してからは、デイサービスで働いていました。
デイサービスは、お元気な高齢者の方が、主にご利用になります。

実際に看取ることはありませんでしたが、1年半の間に、数名の方の訃報がありました。
「どこで働いていても、私の仕事は、人の生死と関わることなのだ」と感じました。

哲学的な話になりますが、
自分の生まれてきた目的や使命みたいなものを受け容れたという感じです。

今年デイサービスを退職し、新規オープンのサ高住という高齢者施設に就職し、
訪問看護師として、施設のスタッフとして、入所者さまのケアをさせていただいております。

そこのスタッフはみんな転職組です。
そこで、スタッフが気持ちよく働けるようサポートしたいと思っています。

新しい職場で、カウンセラーとしての経験も活かせ、人の役に立てることがとても嬉しいです。

心理学を学び始めた頃、感情を抑える自分のパターンが、
子供の頃の親子関係にルーツがあると知り、親を恨んだこともありました。

心理学を学ぶだけでなく、実際にカウンセリングを受け、癒しをすすめていき、
時間はかかりましたが、親を許せるようになりました。

感情を感じないように抑えるパターンは、
感性の繊細さや優しい心を、辛い経験から守るためであったようです。


仕事柄、感覚というものがとても大切になってきます。
もちろん、人を思いやる優しさも。

癒しをすすめて、自分の持っているよいものを、ずいぶん受け容られるようになりました。

また、感情を抑えて仕事をすることは、
緊急時に、冷静な判断ができるというメリットがあるということも、最近実感しました。


このようなことを、「問題の向こうにギフトがある」といいます。

この「ギフト」というのは、その人の持っている個性や才能のことです。


私は、紆余曲折しながらも、癒しをすすめ、自分の個性や才能を受け取り、
「仕事が楽しくてしょうがない」と思えるようになりました。


私の幸せは、
まわりの人が幸せを感じて、笑顔でいてくれること。
その人が、その人らしく生きるために、役に立てること。


心から、そう思えるようになったことに、本当に、感謝しています。


今、辛い状況におられる方、
自分が苦しいのを何とかしたいと思われている方、

必ず、そこから抜けられます。


そして、あなたの素晴しいギフトを受け取り、
幸せを感じられるようになると、信じてください。


どうか、あきらめないでくださいね。


自分の使命みたいなものを受け容れる時、
「私は、どうしたいか?」
を考えました。けれど、迷いが出てきました。

次に、
「私は、どうありたいか?」
を考えました。

・ご機嫌でいること
・笑顔でいること
・自分から、挨拶する
・してほしいことは、自分からする
・自分に正直でいる
・自分を受け入れる
・自分を信頼する
・目の前の人を喜ばせる
・あきらめない
など、
自分のあり方について、書き出しました。


そして、
「自分のまわりの人を幸せにしたい」
「そのために、自分が幸せを連鎖させる人になろう!」
そうコミット(覚悟を決める)ことができました。

すると、まわりから頼りにされるようになりました。
なりたい自分に近づいていきました。

あなたは、どんな自分になりたいですか?


この機会に、思い描いてみてくださいね。


上手くイメージができない時や、迷った時は、

「自分は、どうしたい?」
「自分は、どうありたい?」

と、ご自身に問いかけてみてくださいね。


自分の幸せにコミットできるかもしれませんよ。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

よいお年をお迎えくださいませ。

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2016年12月20日

部屋の片づけに想う

みなさん、お部屋の片づけは得意ですか?
お部屋の片づけに関する相談を受ける事は時々あったりしますが、みなさんはどのようなお部屋にお過ごしでしょうか。

実は私は、あまり片付けは得意ではありません。
もう少し言えば、ちょっと散らかっているぐらいが好きです。

たまに何かの拍子にやる気を出して、「よし、今日は片付けをするか!」とやり始めると、これは結構楽しいのですが、30分もするとすぐに片付いてしまいます。
でも、片付いた後の部屋は、なんだか妙にサッパリしていまっていて、「前の方が落ち着くなぁ・・・」なんて思ったりする事もあります。
しまったばかりの本やCDを、「あ、まだ読みかけだったんだ。どうせまた出すから、近くに置いておこう」なんて、また出してしまう事なんかもあったりします。


よく、テレビドラマなどで、山のように書類の積まれたデスクで仕事をしている記者さんや刑事さんなどが出てきて、同僚にデスクの事を言われると、「俺はこの状態が一番仕事がしやすいんだ!」なんて言っているシーンを見かける事があります。

私はそういうシーンを見ると、「ああ、わかるわかる」とちょっと思ってしまいます。
多分、その人にとっては、どこに何があるのかわかっていて、すぐに手の届く所においてあるんだろうなーとか、片付けに使う時間も惜しいぐらい仕事をしたいんだろうなーとか、その人なりのポリシーがあるのだろうなと思います。


考えてみると、個人のお部屋の中というのは、その人の最もプライベートな空間で、その人の個性が最も反映される場所と言えます。
お部屋の中においてあるモノは、自分が買ってきたものであったり、もらってきたモノであったり、あるいはたまたま捨てていないだけであったとしても、みんなどこかに「自分の意志」が反映されている事になります。

少し大げさに言えば、「お部屋の中は、自分の心の中」みたいだと言ってもいいかも知れません。
キッチリと片付いたお部屋に住みたい人は、人生もキッチリと片付いていて欲しい、と思いやすそうです。
どこに何があるかすぐにわかるのがいい、という人は、人生に対してもそうかも知れません。


最近では、お片付けに関する本なども沢山出ているようですが、読んでみるとなかなか面白かったりします。
お片付けのプロから見ても、片付けは単なるテクニックの話ではなく、心の中の状態と関係がある、という見解を持っている人が多いようです。

そういう本を目にすると、「うーん、この本の作者さんは、人間心理をよくわかってらっしゃるなぁ!」と感心してしまいます。
そして、少し散らかっている自分の部屋を見て、「この部屋は、私のどんな心理をあらわしているのだろうか・・・」なんて自己分析をしてみたりもします。


***


ところで皆さんは、家族やお友達のお部屋に入った時に、自分の部屋と全然違っていてびっくりした事は無いでしょうか?
私は、結構よくあります。

たとえば、私の弟の部屋は、モノが少なくて、デスクとパソコンとベッドがあるだけ、床の上にも何も落ちていない、シンプルな部屋です。
私は、自分の部屋の事を棚に上げて、「よくこんな部屋に住めるなぁ」と思ってしまいます。

妹の部屋は、どこの国のものだかよくわからない民芸品とか、全然かわいくないマスコットキャラとか、何に使うのか分からないインテリアグッズみたいなものが置いてあったりします。
これにも、びっくりしてしまいます。

父の部屋も、なかなかです。
職人なので、工具などが壁一面にかけられており、お部屋というよりは工場の中のような様子です。匂いも、生活臭が無く、機械の油のような、自動車修理工場のような匂いがします。

父の実家のおばあちゃんの家は、家全体にモノが何もなく、「本当に人が住んでるのか?」というぐらい生活感がありません。しかも、そんな状態が、私が子供の頃から、ずっとそのまま続いています。

どの部屋を見ても、「よくこんな部屋に住めるなぁ」と思ってしまいます。

でも、きっと、他の人が私の部屋を見ても、同じように思うのかなと思います。
部屋の中は、その人の個性そのもの。人がそれぞれ違っているように、お部屋の中の様子も違っていて当然なのでしょう。
ついつい、「片付けなくては!」とか「もっとオシャレでなくては!」と思ってしまいそうですが、あなたにとって居心地の良い部屋であれば、それでいいのかも知れませんね。


みなさんは、どんなお部屋に住んでいるでしょうか?
片付いている?ちょっと散らかっている?漫画がたくさんとか、ゲームが沢山?
美容器具や健康器具でいっぱい?インテリアグッズなどは使う方、一切使わない方?必要なものが、すぐに取り出せる?

どんなお部屋でも、あなたにとって居心地の良い、住みやすいお部屋であるといいですね。
そして、気分を変えたいときや人生を変えたいとき、まずはお部屋の中を変えてみるのも、ひとつの方法かも知れません。

私も、まずはゴミを出して、床の掃除をして、出しっぱなしの本やCDを片付けようと思いました。
でも、今日はちょっと疲れたので、また今度やろうと思います・・・^^

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2016年12月13日

一冊の雑誌が、私にもたらしたもの

今年の春から秋にかけての半年間、NHKの朝の連続ドラマは「とと姉ちゃん」で、雑誌「あなたの暮し」を刊行した女性の物語でした。
私はこのドラマをずっと見続けたわけではありませんが、この雑誌のモデルが「暮しの手帖」と聞いて、とても懐かしい思いに駆られました。

「暮しの手帖」は長い間、母が定期購読していた雑誌でした。
昭和30年代あたりからの本が、我が家の本棚に並んでいたのを覚えています。
母の読んでいた雑誌ですから、その頃小学生だった私には何の興味もなかったのですが、ふとしたことから私も読むようになりました。

それは小学校4年生の冬休み。
私は元々扁桃腺が弱くて風邪を引くとすぐに高熱を出していたので、冬休みの間に扁桃腺の手術をすることになりました。
「クリスマス前に手術すれば、お正月は家で過ごせるよ。」
そう言われていました。

私はやんちゃな子どもだったので、しょっちゅう叱られていましたが、入院なんてすると急に母が優しく接してくれたので、それは何だか嬉しく感じました。
普段は「勉強できんようになるから、マンガは読んだらあかん。」と言われていましたが、入院中は"少女フレンド"だとか"マーガレット""りぼん"など大好きな少女マンガをいろいろ買ってくれたものでした。

ところが、だんだん飽きてくるんですよね。
『もう、これも読んだしあれも読んだ、つまんないな~!』

ふと、サイドテーブルを見ると付き添いの母が家から持ってきていた「暮しの手帖」がありました。
『大人の雑誌って、何が書いてあるんやろ?』
好奇心に駆られて、ペラペラとめくってみました。

日々の暮しに必要な、さまざまな商品のテストを重ねて、徹底的に調べ、検証していくことで有名な雑誌ですが、その頃の私はそんなことなど知りません。
その時見た特集記事は"火事"でした。
おりしも季節は、火事の多発する冬。
何と、家一軒を燃やして実験し、家庭で火が出た時の対処法について、こと細かく書いてありました。
子ども心に、食い入るように見てしまいました。
『ずごいなぁ、こんなこと実験してるんや~。』

このコラムを書くに当たって、本当にそんな記事が載っていたのか調べてみました。
もしかしたら私の記憶違いかもしれませんから。
すると、確かに昭和41年発売の第87号に「火事をテストする」というタイトルで載っていました。
子どもの時の記憶って、すごいですね。
それ以来、私はすっかり「暮しの手帖」のファンになってしまいました。

その後もずっと、我が家ではこの雑誌を購読していましたが、そこに書かれていることは集約すれば【日々の暮しの大切さ】ということに尽きるのではないかと思うのです。
当たり前の日常を大切にすることは、自分を大切にすることにつながります。
自分を大切にする人は、自分以外の人をも大切に出来ます。

先日、本当に久しぶりに最新号を手にしてみました。
表紙を開くと、創刊号から変わることなく書かれている一文があります。

「これは あなたの手帖です
 いろいろのことが ここには書きつけてある
 この中の どれか 一つ二つは
 すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
 せめて どれか もう一つ二つは
 すぐには役に立たないように見えても
 やがて こころの底ふかく沈んで
 いつか あなたの暮し方を変えてしまう
 そんなふうな
 これは あなたの暮しの手帖です 」

天才編集者と呼ばれた花森安治氏の言葉です。

豊かな暮しとは、豪邸に住んでセレブな暮らしをすることだけを言うのではなく、日常のホンの小さなことにスポットを当てて、大きく喜べることではないのかな?
と、今の私が思うのは、この雑誌の影響が少なからずあるなと改めて感じます。

長年愛読してきた雑誌でしたが、阪神大震災の時に自宅が全壊し、取り壊さざるを得なくなった時、「暮しの手帖」も処分してしまいました。
それ以来、たまに手にする程度になってしまいましたが、私の日々の暮らしの中に、【こころの底ふかく沈んだ】考え方は生かされているようです。

人でも物でも、長く関わってきたものには、大きな意味と影響力がある・・・

私はそう、思っています。

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2016年12月 6日

100万分の1の奇跡

超自立で生きている時はわからなかったこと、見えなかったことが見えてきたり感じられるようになって、ちょっと前の無知だった自分を恥ずかしく、それでいて愛おしく感じることが多々あります。

それはそれで自分なりに「私が何とかしなかれば!」とがんばった証に違いないのですが、「あら、まあ」といった具合に、受け止めることができるようになった時のお話です。

今でも時々、無駄に肩に力が入ってしまうことはあるのですが、本当にあの頃は、自分がどれだけ肩に力が入っているのかさえ気づけないほど、夢中で駆け抜けてきたのだと思います。

たとえそれが試練でも、自分にとって受け取ることが当然の試練だと思っていると、もっと楽で簡単に抜けられる方法をたとえ誰かに教えてもらったとしてもなかなか受け取れないものです。

当時の私は、逆境にも負けずに困難を乗り越えてひたすら進んで行くのが自分らしいと信じて疑わなかったんでしょうね(笑)

「自分の現実は自分が創造している」とはよく言ったものです(汗)

「止まったら動けなくなるのではないか?」
そんな恐怖心とストレスをいっぱい抱えて生きていたんだと思います。

* * *

では、その意味が少しばかり理解できるようになった今の私は、その頃と何が違うのだろうかと、少し振り返ってみました。

昔の私は、自分の限界がすべての限界だと思っていたけど、今の私は、あの頃にはなかった『奇跡』というものを信じれるようになっているのだと思います。

そう、自分のパワーだけが頼りだったあの頃は、自分の可能性と能力を試したりできる代わりに自分自身がその限界にもなっていました。

心理学やスピリチュアルを学びはじめて私に起こった変化は、これまでの限界を打ち破り、別の可能性への道を開いてくれました。

それそのものが今思えば、私にとっての奇跡のような体験でした。

「ひとりでがんばらなくてもいいんだよ」

この言葉にどれだけ励まされたことか。

* * *

「ひとりでがんばらなくてもいいんだよ」

少し後になってからのことですが、実際は、日常の中でもこんな風に手を差し伸べようとしてくれていた人が、沢山たくさんいたことを思い出して、涙が溢れるようなときもありました。


この限界を認めるのって本当に辛くて苦しくて悔しいのだけど、今思えば、もっとサッサと抜けても良かったのに・・・と思うところなのであります。


もし、今、あなたが、何らかの限界を感じて、行き詰っているのなら・・・。
もし、今、あなたが、絶望のふちにいて、動けないでいるのなら・・・。
もし、今、あなたが、悲しみの海に溺れかけているのなら・・・。
もし、今、あなたが、怒りの炎の中にいて自らを丸焦げにしそうなら・・・。

100万分の1でいいから、奇跡を信じてみませんか?

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2016年11月29日

「感謝のチカラ」は、優しさと穏やかさを与えてくれる

11月になり、あちらこちらで来年のカレンダーや手帳を見かけることが多くなりました。
みなさんは来年のカレンダーや手帳を買いましたか?わたしは、見かけるたびに来年はどのカレンダーを買おうかな?今使っている手帳もいいけど、もっと素敵なものに出会えないかな?と思って探しているところです。

 わたしは、毎朝、1日のスケジュールを時間ごとに書き出すタイプのスケジュール帳を使っています。1ページで1日分になっていて、スケジュール以外の部分は、自由に書き込めるようになっているんですね。今までは、スケジュールとTODOメモくらしか書いていなかったんですが、ふと思い立って、スケジュール以外のフリースペースを3つに分けて使うようにし始めました。

3つのスペースの一番上の欄には、毎朝、その時に感じた「感謝」を。真ん中の欄は今まで通りのTODOメモを。そして一番下には、1日の最後に自分に対するねぎらいの言葉を。

毎朝書いた「感謝」を見直してみると・・・。

一番多いのは、家族のことでした。

夫や子供が元気でいてくれること、健康であること。離れて住んでいる母や妹、姑が元気でいてくれること。家族が健康で元気でいてくれるからこそ、わたしは仕事もできるし、自分の時間を取ることもできるんだなぁ・・と、そんなことを思うようになりました。わたしにとって、家族は大切な存在なんだと再認識もしました。そして、大切な家族のために、自分もまた健康でありたいとも思うようになったんですよね。

主婦で母で仕事もしていると、ついつい「やるべきこと」「やらねばならないこと」に心を奪われてしまい、自分のことは後回しになりがち。でも、家族への感謝を書き始めてからは自分の体や心を労わろうという気持ちを持ちやすくなりました。自分のために・・と思っていた時よりも、大事な家族といたいから・・と思い始めてからの方が、自分を労われるだなんて、おかしな話ですね。おかしな話ですが、人は「大切な人」のための方が頑張れたりするんですよね。

夫と暮らせること。息子と同じ時を生きることができること。それを「ありがたいなぁ」と思ってみると、その時間を大切にしたいと思うし、いとおしくも感じるようになりました。

わたしたちは、何かを大切にしたいと思ったり、いとおしいと感じたりしているとき、穏やかで優しい気持ちを感じます。そして、そんな気分の時には、優しい行動をとりやすいし、自然と笑顔になったりもします。

毎朝、「この人たちが元気ででよかった」と思っただけなのに、勝手に「笑顔で優しいお母さん」、「笑顔で優しい奥さん」になれるんですから、「感謝の力」って、すごい!ですね。

この記事を書くにあたって、書き始めてから1か月分くらいを見直してみると、友達や仕事でかかわりを持つ人に対して、「この人と出会えてよかった。」「この人がいてくれてよかった。」という言葉を綴っていたり、天候や気候に感謝したり、地球がちゃんと自転してくれている!と書いていたり、電気、ガス、水道などが自由に使えていることに「ありがたい!」と書いていたりしています。

普段意識するかしないかに関わらず、たくさんの人や人の手ではどうすることもできない自然の恩恵に囲まれて暮らしているということに改めて気づくことができているような気がします。

今、あなたが「感謝」するとしたら、それはどんなことでしょうか?

誰かに伝えるわけではなく、ただ自分が勝手に「感謝」する。
自分しか知らないことだけど、それでも「感謝」することで、自分が自分に優しくなれる。
そんな「感謝の力」を使ってみるといいかもしれませんね。

読んでくださった「あなた」に感謝を送ります。

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2016年11月22日

無音の音楽を『視る』という体験から感じたこと

もう半年ほど前に観た映画のことを話題するというのはどうかと思ったのですが、

今でも私の印象に強く残っているので言葉にしておきたい気持ちと、
もし読んでくださったかたが興味を持ってくれたら嬉しいな
という思いがありましたので、今回のコラムの題材にとりあげてみました。

その映画は『LISTEN』という、アートドキュメンタリー作品で
1時間ほどの上映時間ですが、そこに流れる音は無く、全くの無音なんです。
映画館の入り口で配られる耳栓をつけて、観客もできる限り音のない状態で観ることになります。

スクリーンに映る出演者は全員が耳の聞こえない聾者で、内容のほとんどがダンスで表現されてゆきます。
プロの舞踏家から、まったくの素人のかたも出ていて、私はダンスの技術的なことはよく分からないのですが、
とにかく一人ひとりのダンス(というか舞い?)に、こちらの心に訴えてくるものを感じました。

指で、手で、表情で、体全体を使って、流れるように表現されるそれぞれのダンスにグッと心を掴まれて、
いつの間にかスクリーン上の彼らの動きに、私の目は釘付けになっていました。

心の内側の深い部分から湧き上がってくるものが、
瞬間瞬間、彼らの身体の動きで表現されているようで、

「たましいが躍動している」と書くと、なんとも陳腐な表現になってしまいますが
そうとしか言いようがない何か、心の深い部分とつながっているとしか思えない何かを感じざるを得ませんでした。

今思うと、それはカウンセリングの現場でクライアントさんが
人生の問題を通して、本当に感じたかった「自分の願い」とつながった時の感動や、
その「願いを表現して生きたい」という想いと重なって視えていたのかもしれません。

その分だけ、彼らから私へ強く伝わるものがあったと感じたのでしょう。

無音ですから、もちろん何も聞こえてこないのですけど、音のない映像からなぜか音楽を感じる不思議な映画でした。

出演者の動きからは、私には確かに音楽が聴こえていました。
いや、「視えた」といったほうが良いですね。

映像はさまざまな場所でダンスをする場面が、断片的に切り替わっていきます。

ある場面では普通の家屋、スタジオの中、ビルの屋上などの人工的な建物で。

次の場面では、波の打ち寄せる砂浜、水が穏やかに流れる川辺、
風が吹き抜ける大木の下など自然の中で。

多くの場所での舞いは、ふだん当たり前に見ている風景にも
もしかしたら音楽が宿っていて、彼らはそれを感じて表現しているように思えます。

その音はテレビやインターネットから流れてくる、リズム・メロディー・ハーモニーのある
私たちがふだん「曲」として聞いている、外側からくる音楽とは違って、

自分の心の鼓動であったり
喜怒哀楽の感情であったり
内側からもたらされるモノが先にあって、

対象を「視る」ことで同調・共鳴すると、音楽として内側から「聴こえる」ものじゃないかと、
映画を観てから時間が経った今ではそう感じています。

それは聴者のきこえる世界から、聾者のきこえない世界へ近づいていった体験、

音楽を「聴いて」いる世界から、
音楽を「視て」いる世界へ、
境界線を越えてみる体験だったようにも思えます。

ただ、まったく別の分かれた世界かと言えばそうではなくて
音楽を「感じる」という共通の地平があることに気づかされたのです。

なんだか私たちが誰かと関わりながら生きていくためのコミュニケーションと
同じ要素があるようにも感じます。

人は一人ひとり、価値感も好みも生活スタイルも違いますよね。
ここは譲れないというモノが誰にでもあるでしょう。

ただそれはあくまで「わたし」という一人の世界でのお話。
周りの誰かと関わる時、そして誰かとともに生きていこうとする時に
いちいち自分の世界を相手に押し付けいていては、
毎回どちらかが勝つか負けるかの競争の世界にしか生きられなくなってしまいます。

自分と周りとの違いがあることは認めながら、
相手の世界に興味を持ったり、近づいてみたり、その良さを一緒に味わってみたり。

立ち位置は違っても、じつは深い部分ではつながっている。
同じ地平にいると感じることができたときに、
誰かと共に生きるという道が見えてくるように私には思えます。

大切なのは、まず自分自身(心の真実や、たましいの求めるモノ)とつながること。
「聴こえる」「視える」以上に、もっと感覚を開いて「感じる」こと。

それから周りの人や世界と、どう関わりたいのか?
内と外とをつなぐ「関係性」をどう築くか?

そんなところへ思いが辿りついてしまいました。

関東近県での上映は終了していますが、クラウドファンディングで資金を集めて
日本各地で上映は続いているとのことです。チャンスがあったらぜひ観てみてください。

無音の音楽を視るという体験から、みなさんはいったい何を「感じる」のでしょう?

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2016年11月15日

澄んだ空と私たちの、転換ポイントの秋 ~出会いがつむぐ、夫婦の絆~

こんにちは、建部かずのぶです。

朝晩は寒いときもありますが、秋の深まりとともに昼間の温もりが心地よくなりましたね。
ふと見上げたとき、美しい秋の空にココロを奪われる瞬間も増えてきました。

そう!秋の空と言えば、コロコロと変わりやすい例えとして、
「女心と秋の空」なんてことわざがありますね。

一般的に、女性は「好きか嫌いか」という感情で行動を決める傾向があるので、
そのときの気分で結論が出たり、予定変更になることもままあります。
理論的に考えがちな私たち男性は、そこで頭が「???」でいっぱいになることも。

かく言う私の奥さまも、基本的にネガティブ寄りのようで、
以前は、ここに摩擦のような気持ちがありました。

理由は、奥さまが自分自身のことをよく思っていなかったから。

私から見れば、いろいろな顔を持ちながらも、大好きな人なのですが、
どんなに伝えても、伝わらないところがあるなぁ・・・。
まぁそれも仕方ないか、と言い聞かせるように納得しようとしていました。

ところが最近、奥さまの様子がちょっと違うのです。
例え不機嫌になったとしても、気付いて気持ちを切り替えられるようになったのです。

少し前までは、一度落ちると丸一日かかると言ってましたので、
その変わりように、過去を知る私は、つい置いてきぼりになることも(^_^;)

そんな私たち。少し遡りますが、9月の中頃に大きなトピックスが生まれました。

実は久々に夫婦で、当カウンセリングサービスの母体の、
神戸メンタルサービスのヒーリングワークショップに参加したのです。
(※参加情報等は個人情報ですので、奥さまの許可を得た上で書いています)

一緒に受講するのも、1年半以上ぶりで、
しかも今回は、2人ともワークショップのお手伝いをするアシスタントでした。

夫婦でアシスタントとして参加するというワクワク感と、
2人の結婚記念日前というメモリアル感もあって、
待ち遠しいようなドキドキ気分で当日を迎えたのです。


ヒーリングワークショップは、フォーカスパーソンスタイルと言って、
会場内の全員の名前を書いた紙を、
トレーナーがくじ引きのように引いて決めるんです。

ですので誰がフォーカスパーソンになるのかは分からないんですが、
なぜか私は、昼過ぎ1番目に奥さまが当たる予感がしていました。
しかも、当たるなら池尾トレーナーだと思うと奥さまに言ってもいました。

でも、本当に奥さまの名前を呼ばれた、その瞬間。
私は会場の音を作るマイク係のリーダーで、
背中を向けて、機器の不調と格闘中でした。

『本当に来ちゃったよ~』と思っていたら、そばにいたベテランの方々に、
「はい、あなたも見えるところに行って!」と押し出されてしまいました。


そこから奥さまの独壇場が始まります。

池尾トレーナーも少々不思議な方なのですが、その上を行くような奥さまのトーク。
そばにいる奥さまを良く知るベテランさんたちを見ると、ケラケラと笑っています。

そして驚くことに、私が彼女のことを目一杯理解しようとしてることを、
彼女は気付いていなかった、ということが判明したのです!

もう少し丁寧に言えば、奥さまの潜在意識のレベルでは分かってると感じます。
彼女の中に生まれてきた自信のようなモノを感じることが多くなっていたので、
それがないと、前述したような変化は起きないはずなのですから。

遅効性のある意識さんでは、どうも認識できていなかったようなのですよね。


トレーナーとのやり取りで、ずっとこんなことを思っていたようです。
『こんな私は分かってもらえない、認めてもらえない。だから隠さないと・・・』

昔、『チャーマー/マスコット役の嘆き』というブログにも書いていますが、
何の役にも立っていないと、ココロの奥で、長い間自分を責めていたようです。

こちらは百も承知で、『また言ってるー』くらいの話ですが、
幸いにも、ここはワークショップの場。

【この思い込みを解消しましょう】
【ただ丸ごと、夫に受け止めてもらいましょうね】という流れになりました。

セッションが終了した今、仲良しな夫婦がさらに進化して、
新たなステップを歩んでいるように感じています(//∇//)

何よりも地に足が着いた感が強いのですよね。
合わせて太い絆も・・・。


そんな10月のある日。
知人のご夫婦に、「2人は絶対に見るべき!」と言われた映画があります。

それは、超話題作の『君の名は』。

天邪鬼で、ドキュメント好きな私は、最初乗り気じゃなかったのですが、
そこまで言うのなら、と夫婦で見に行きました。

見終わって一番に思ったことは、私たち2人が出逢って一緒にいる意味でした。

片割れを探して走り回る主人公の姿は、どこか自分自身のよう。
奥さまは、人やモノの出会いの縁で人生が彩られる、「結びの力」を感じたみたいです。

その翌日、ふと閃いて、隕石が落下したという伝承の地を訪ねてました。
1,200年前の事は知る由もありませんが、向かう途中、あちこちで秋祭りが催されてました。

『君の名は』でも、秋祭りの日に運命の転換ポイントがやってきましたね。


奥さまと出逢って、もうすぐ10年。
ちょっとしたキッカケで縁が結ばれた2人に訪れた、思いがけない進化の秋を経て、
冬の気配が少しずつ顔を覗かせています。

1つの出会いが新しい縁を結び、つながりが広がって大きな円(えん、まる)が創られるように、
良き縁を活かせる人になるために、何ができるかな?と、これからの在り方を考えるのでした。

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2016年11月 8日

トイレの神様はどこにいる!?

数年前に『トイレの神様』という曲がヒットしましたね。あの曲は自宅のトイレがモチーフとなっていましたが、今回は学校のトイレのお話です。

学校のトイレというと「3K」や「5K」と呼ばれ、「臭い、汚い、暗い、怖い、壊れている」というイメージが強いようです。
確かに、私も小学校、中学校、高校の頃を思い出してみると、ほとんど良い印象は残っていません。
『トイレの花子さん』というホラー映画の影響もあり、私はいつも3番目のトイレは使わないようにしていたり、暗くなるとトイレの前を通るのが怖かったりしました。

小学校の頃はトイレにスリッパがあったのですが、途中からトイレ内でのイタズラが多くなったためにスリッパの設置がなくなり、自分達の履いている上履きのままトイレを使用するようにもなりました。その方が汚いようにも思うのですが、トイレのスリッパがなくなったり便器の中に捨てられていたりするイタズラが多発していたので仕方のないことでした。
また、中学校の頃はトイレの電気のスイッチが陥没させられて使えなくなっていることもありました。

教育関係者の方には良く知られていることのようですが、生徒が荒れるとトイレが荒れるといわれるほどに、学校のトイレは生徒たちの様子を表しているようなのです。

なぜトイレなのか??

トイレでは先生や周りの目を逃れて非行やイジメが起こりやすいという環境があるようです。
それに加えて、トイレという場所に抱く心理的な要素も大いに含まれているのではないか、と私は思っています。

本来、トイレは排泄をしたり身なりを整えたりする場所です。とてもプライベートな空間であり、人が社会生活を営むために必要なものですね。
プライベートな場所では人の素性が表れやすいものです。すると、まるで自分を扱っているのと同じようにトイレを使うことが起こるようです。

特に、トイレというのは自分の排泄物を目の当たりにする場所ですので、嫌悪感を伴います。排泄物をキレイなものだと思うのも無理がありますから、この嫌悪感は誰にでもあるものです。しかし、排泄物に嫌悪感を抱くのと、排泄物をキレイに処理できるかどうかは別の話ですね。子どものしつけでもトイレの使い方を教えますが、キレイにトイレを使うことができると褒められ、汚してしまうと叱られます。そうしているうちに排泄は便や尿をキレイに処理する場所であることを学ぶわけなのです。
また、トイレで鏡を見て身なりを整えるときに自分の姿を見て「かわいいな」「かっこいいな」と思える人もいれば、「いまいちだな」「冴えないな」と思う人もいるでしょう。鏡を見るという行為は自分自身への嫌悪感を抱きやすいものでもあります。
このように、自分自身への嫌悪感をどの程度もっているのか、また、それをどう扱っているか、ということがトイレの使い方にも表れることがあると考えられます。

ですから、トイレを粗末に扱っている人は、もしかしたら自分への嫌悪感が強く自分のことも粗末に扱っているのかもしれませんね。
逆に、トイレをいつも快適な空間に保とうとする人は、自分自身に抱く嫌悪感があったとしても自分のことを優しく丁寧に扱ってあげようとしているのかもしれません。

もし、トイレの神様がこの世にいるとしたら・・・

それはあなたのこころの中にいるのかもしれませんね。

あなたのトイレの使い方はどうでしょうか?
あなたの自分自身への扱い方はどうでしょうか?

さて、うちのトイレも掃除しなきゃなぁ・・・笑

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