« 綺麗になることが怖かった | メイン | 父の思い出 »

2017年1月24日

『母を許す~「自分を生きる」ということ~』 三枝みき

先日、NHKを見ていたら、新年に新しく始まるドラマの紹介をしていました。
『お母さん、娘をやめていいですか?』、この原稿を書いている現時点では、まだ放送は開始されていないのですが、ちょっと意味深なタイトルとその内容に思わず引き込まれてしまい、観たくなってしまいました。


このドラマは「母子癒着」をテーマにした作品のようですが、私にとっても「母子癒着」はライフワークともいうべき重要なテーマだと思っています。
私自身が娘たち――、とくに長女に対して無意識に強く依存していて、それが彼女を苦しめる一因となっていたことから、私は「母」と「娘」の関係にとても強い関心を持っていて、娘のように苦しい思いをする人を一人でも減らしたいと願って、カウンセラーとして活動して来ました。

それはもちろん、私の罪悪感からくる補償行為(間違ったことや都合の悪いことを隠したり、埋め合わせたりする行為のこと)という側面もあるでしょうけれど、決してそれだけではありません。
私自身もまた、多少なりともこの「母子癒着」に苦しんできた経験があるからです。
私だけでなく多分私の姉も、十数年前に亡くなった弟も、そうだったのだろうと思います。

特に弟は、両親にとっては遅くにやっと恵まれた待望の長男だったこともあり、その過保護や過干渉の対象となることが多く、相当に苦しかったはずです。
弟が亡くなった当時の私には今のような知識はありませんでしたが、それでも私は数年前まで、心の奥底では弟を死に追いやったのは両親だと固く信じていたように思います。
そして、もしも弟が生まれていなかったら、たぶんそうなっていたのは私だったはず、とも思っていました。

実際、弟が亡くなってからは余計に母の心配や過干渉が重苦しく感じられて、母と一緒に居るのが苦しかったり、怒りを抑えられなかったりもしました。
母にしてみれば、それが神なのか、運命なのかはわかりませんが、最愛の息子をその手から奪われてしまったことで、私や孫たちまで失う恐怖に耐えられなかったからなのだろうとは思うのですが、それが私には苦痛でたまらなかったのです。

心の距離が近すぎて、相手の感情と自分の感情の境目が付かなくなってしまうことを心理学では「癒着」と言います。
私が幼いころからすでに母はものすごく不安の強い人でしたから、母と「癒着」があった私は、ずっと母のネガティブな感情や思考に巻き込まれていましたし、母の影響を強く受けてしまうところがありました。

でも、子どもの時はいざ知らず、例え親子であっても、大人同士の関係で「癒着」は不自然なものです。
多くの「母子癒着」で悩む方たちと同様、私自身も母に対する怒りがどんどん大きくなっていき、実家に帰省するたびに些細なことで怒り、母に対してそれをぶつけたりしてしまっていました。
それでも、実家から家に帰るころには頭が冷えて、母にあたってしまった自分に自己嫌悪して、勝手に苦しくなっていたりしたのです。

なにしろ母の行動は、それがどれだけこちらにとって「ありがた迷惑」であり、「越権行為」だったとしても、元々はすべてが「好意」であり、「善意」です。
母なりに私たちのことを想い、良かれと思ってそれをしてくれるわけですから、それを受け取れないということは、まったくあちらに「悪意」がないだけに、こちらが一方的に「罪悪感」を引き受けなくてはいけないので、かなりしんどいのですね。

それに、今にして思えば母にとっては「愛」であるそれらも、昔の私にとっては、心の深い場所に人知れず創り上げた聖域を無理やりに暴かれて、土足でめちゃくちゃに踏み荒らされ、汚されるような感覚さえ感じられるものだったと思います。
もしかしたら大げさに聴こえるかもしれませんが――、でもこういったことは時に、子どもの心にとってとても大きな傷となったりもします。
それらが私の心に長い間積み重なり、怒りに変わって、これ以上抑えきれないくらいに大きくなっていたのですね。

本来、人に何かをしてあげたい、与えたい気持ちはそれ自体が「愛」でとても美しく、尊いものですし、喜んで受け取ってもらえたなら、私たちはとても大きな喜びを感じられるでしょう。
けれど、相手の状況や気持ちを考えず、自分自身の気持ちだけで、無理やり押し付けることはただの「欲求(ニーズ」であり、「愛」とは違います。
時にそれは、相手に「苦痛」をもたらすことにさえなりかねません。

なぜって、人は本来であれば誰でも、誰かに強制されることなく、自分の好きなように何かを感じたり、ものを考えたり、行動したりしたいはずだからです。
たとえそれが、自分のためでなく誰かのためにすることであっても、それを決めたのが自分自身の意思である限り、心だけは「自由」でいられる。
そしてそれは食べることや、水を飲むこと、呼吸をすることのように、ひとにとっては必要不可欠なことではないでしょうか。

「自分を生きる」ということ。。

しかしながら、「癒着」のある関係性は、それを私たちに許してはくれないのです。
自分の心や意思を殺して他人の思い通りに生きようとすること、つまりは子どもが自分の意思でなく、親の希望通りに生きようとすることは、とても辛いことです。
今、それを選んだのが自分自身だと私が知っているからこそ、私の中の母を責める気持ちはだいぶ無くなりましたが、数年前の私はそのことに対して激怒していました。

それでも、どれほど母が誰かを愛したかった人なのか、本当はどれほど人を喜ばせることが大好きな人なのか、今の私はとてもよく知っています。

母は本当は欲しいものを欲しいということが出来なかった人でした。
言えずに我慢して、我慢して、我慢し続けて来た人でした。
ですから、私たちも欲しいのに遠慮して言えないのだと、思いこんでいるようですなのですね。
私や娘たちの言葉を聞かず、強引に押し付けてくるようなお節介の数々も、母なりに私たちのためを思ってのことであり、かつての母が誰かにそうして欲しかったことなのでしょう。

そして、母が弟の死に対してどれほど自分を責め続けているのかということも、また弟だけでなく姉や私にも、「私が母親でごめんなさい」という思いを強く持っているのだということもわかるようになりました。
だからこそ、私は母をずっと許せなかったのだと。
娘をあんなにも苦しめてしまったと自分自身をどうしても許せず、罰したくてたまらなかった私は、私と同じように自分の子供たちを結果的に苦しめることになってしまった母を責めることで、自分の罪悪感から逃げていただけでした。

そう気づけたころには、長女はだいぶ元気になって来ていて、私はようやく「母を許したい」と思えるようになりました。
母を許そう、母を「子ども」としての、「娘」の目線でみるのでなく、ひとりの人間として、対等な「大人」としての目線から、母を見ていこうと思えるようになりました。

そうして私は、もしも私の目の前に母が赤の他人として現れたら、そして一人のクライアントとして彼女の話を聴く機会があったとしたら、私はどう答えるだろう、どう彼女を愛そうとするだろうと初めて考えたのです。

「あなたは悪くないですよ」
「あなたの所為じゃない」
「今までよく頑張って生きて来られましたね」

ごく自然にそんな言葉が出てきて、ゆっくりと胸に浸み込んでいく感覚がありました。
そこで私はようやく、母との「癒着」を少し手放せたのだと思います。
また、心理学の先生に母への怒りを扱っていただいたセッションで、私は母の、深い深い「悲しみ」に触れることがあり、またそこで大切な気づきがありました。

「悲しみの海」と表現されるその深い悲しみ、たぶんそれは誰の中にもあるものかもしれませんが、――私はそこで、母の「悲しみ」をただ、ひたひたと感じることで、母が私を縛っていたのではなく、「私が」癒着してまで母を何とかしたかったのだと、やっと気付くことが出来ました。
私の娘がそうであったように私もまた、母を心から愛していたということ、何とかして救いたいと願っていたこと、そのためには自分を省みなくてもいいと思っていたこと、母を救えなかった私が、母に対してひどい罪悪感をもっていたということを、ようやく認めることが出来たのです。

「罪悪感」を感じさせる相手からは、距離を取りたくなります。
そして「罪悪感」を感じているその相手に、私たちは「愛」を感じることは出来ません。

でも、「罪悪感」があるのは、そこに「愛」があるからです。
愛してあげたいのに愛せない――、そんな自分を責めているからこそ「罪悪感」を強く感じてしまうのです。

私はずっと無意識に自分自身を罰し、自分に終身刑を課していました。
母もまた、そうでした。
だから私は、母が自分を無罪にしてその牢獄から出て来なければ、私も絶対に出ないと誓いを立てていたのかもしれません。
幸運なことに私はその後、娘のおかげで、そこを自ら出てくることを選択できたのですけれど。


そんな風に自分を癒しながら母との関係を見つめ直していくうちに、以前は帰省して一日目にはもう母の言動にキレてしまっていた私も、ここ数年は一度も怒らずに帰って来られるようになりました(笑)。
もちろん、「私もまだまだだなあ、もっと優しくできたのになんでこうなっちゃうんだろう」って反省することも多いですが、けれどそれでも、母の毎回同じ話を笑顔で聴いてあげることが出来たり、母のお節介を喜んで受け取ることも出来るようになってきました。
少し子ども返りしてきた母に対して、幼稚園の子に話しかけるような感じで相手が出来ていることもあって、「私も大人になったなあ」ってこっそり自画自賛していたりもします(笑)。

昔の私は、母に、どんな人にでも自慢できる、尊敬できる母であって欲しかった。
「なんでこんなにこの人はこんなに幼いんだろう、性格が悪いんだろう」なんてよく思ってもいましたが、それもすべて、自分自身の投影でしかありませんでした(笑)。
今、母のいいところ、素晴らしいところが見えるようになって、私の素晴らしいところは母にもらったものだと素直に思えるようになりました。
「ありがとう」と母に心から言うことが出来て、とても楽になりました。

母を許すことが出来始めてようやく私は、ひとりの「大人」としてしっかりと、自分の足で立てるようになれた気がしています。
私自身がやっと、自分に「自分を生きる」ことを許せたのでしょう。


「許す」ということ――、もちろん、どうしても許せないことはたくさんあります。
もしかしたら参考にはしていただけるかもしれないけれど、あくまでこれは私個人の経験であり、誰かに強要するものでは無いですし、無理に自分の気持ちを殺してまで、あなたが誰かを許す必要はまったく無いと私は思います。

でも、もしも――、「今は無理でもいつかはそう出来たら」と願うことが出来たなら、あなたは自分自身を自由にしたい、終身刑から解放してあげたいと思い始めているのかもしれませんね。
そしてそれこそが「自分を生きる」ことであり、誰かを愛することなのではないでしょうか。


あなたが、そしてこの世に生きるすべてのひとが、「自分を生きて」いくことができる世界でありますように......。
お読みいただいて、ありがとうございました(*^-^*)

三枝みきのプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 2017年1月24日 00:00

コメント

コメントしてください




保存しますか?


※スパム対策の為コメントは承認制とさせて頂いております。書き込み直後には画面に反映されません。
また、確認のためのプレビューは行えませんのでご了承ください。