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2017年1月31日

父の思い出

今年も間もなく父の命日がやって来ます。
人が生まれてから生きていくうえで、一番大きな影響力を持っているのは親だと言います。
それはそうでしょうね。
父が亡くなってから、もう20年近く経ちますが、今くらいの時期になると、どうしても父の思い出が胸をよぎります。

大正生まれの人でしたから、それこそ厳格で頑固一徹な"昔の日本男児"のようなイメージが思い浮かびそうですが、案外そうでもなかったのですよ。
戦前生まれゆえ、戦争中は長年兵隊として戦地へ行き、苦労もしたようです。
生きながらえて無事日本に帰って来てから、母と遅い結婚をしました。

父はその年代の人にしては、妻である母を大切にしていましたし、私たち子ども(姉と2人姉妹)にも、厳しいだけでなく優しく深い愛情をかけてくれていたと思います。
もし父が戦死していたら、私という人間はこの世に存在しなかったんだな、などと神妙に考えたこともあります。

父はさほど愛情表現に長けた人ではありませんでしたが、子どもの心情については、かなり的確に理解していたと今になって思うことがあります。
父の人生のどこで、どうやってそんなことを身に着けたのか不思議です。
私が大人になってから、何かの機会に母から聞いた話なのですが、
「子どもにウソを言ってはいけない。約束したことは必ず守らないといけない。」
と常に言っていたそうです。

この言葉だけをとらえると、しごく当然で当り前のことを言っています。
けれど実生活の中では、大人は大人の事情で結果的に言っていたこととは違うことをやっている場合があります。
それが子どもの目から見た時【大人は嘘つき】に見えてしまう、ということを父は言いたかったのではないかなと思います。

゜゚*☆゜゚

その昔、事情があって父母は父の兄の息子を預かって、育てていたことがあります。
つまり、父にとっては甥っ子で、私にとっては従兄ですね。
父の兄が早くに亡くなってしまったので、伯母の生活のメドがつくまでということで、しばらく預かることになったそうです。

従兄は子どもの頃、かなりのゴンタ坊主で、父親のような存在が必要だったというのも理由の一つのようでした。
私たち姉妹は従兄を「おにいちゃん。」と呼びましたし、
従兄は私の両親を「おとうちゃん、おかあちゃん。」と呼んでいました。

実の兄妹であっても、ちょっとしたことで親の愛情を取り合って、すねたりひがんだりするのは日常茶飯事です。
ですから、自分の子どもと甥っ子を分け隔てなく育てるということは、父母にとっても大変なことだったと思います。

ある時母が、従兄に何気なく言った言葉で父に叱られたことがあったそうです。
今だに時々思い出して言う話ですから、よほど印象に残っていたのだと思います。

それは、母が従兄と話をしていて、どこかに遊びに行きたいという話になった時
「そしたらそのうち、おとうちゃんに連れて行ってもらおうな。」
と、母が言ったのを父が聞いて、
「子どもにそんないい加減な約束をしてはいかん!」
と、たしなめられたのだそうな・・・。

よくある会話ですよね。

もちろん、大人としてはその話をしている時には、子どもに
『そうしてあげたい、喜んでもらいたい。』と思っている訳です。
子どもは大喜びで、連れて行ってもらえるものだと思って毎日ワクワクしながら待っています。

ところが、日々の忙しさにかまけて、具体的に"いつ"とも決めていなかった口約束は、
「ねぇ、いつ連れて行ってくれるのん?」
「そうやなぁ、そのうちにな。」
こんな会話を繰り返しているうちに、立ち消えになってしまうこともあります。

それこそ前記したように、大人は大人の事情で言っているのですが、子どもにとっては大きな失望なんですよね。
何度かそんなことが繰り返されると、大人に対する不信感につながってしまいそうです。
もしかしたら、父自身もどこかで子どもに対してそんな曖昧な対応をして「おっちゃんの嘘つき!」と言われたことがあったのかもしれません。

大人の事情を理解できない子どもには、小さなことでも誠意をもって対応すること。
小さなことに誠実な人は、大きなことにも誠実でいられるはず。
このような父の考えの元で育ち、約束事は必ず守ってもらってきました。
けれど、子どもの頃にはそのことがどれほどの価値のあることだったか、気付けていなかったような気がします。

゜゚*☆゜゚

従兄は中学校に上がるのを機に、伯母の元に戻っていきました。
その後も我が家にはしょっちゅう顔出しして、育ての親である父母を慕っていました。

時は流れて父も伯母も亡くなり、今やもう従兄自身がかなりな高齢者になってしまいましたが、時折
「今の自分があるのは、おとうちゃんのおかげや。」
などと言うことがあります。
本音だと思います。

親の深い思いには、年齢を重ねてようやく気付けるものも沢山あるようです。
今、改めて父に「ありがとう」の思いを込めて感謝したいと思っています。

お父さん、ありがとう。

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2017年1月24日

母を許す~「自分を生きる」ということ~

先日、NHKを見ていたら、新年に新しく始まるドラマの紹介をしていました。
『お母さん、娘をやめていいですか?』、この原稿を書いている現時点では、まだ放送は開始されていないのですが、ちょっと意味深なタイトルとその内容に思わず引き込まれてしまい、観たくなってしまいました。


このドラマは「母子癒着」をテーマにした作品のようですが、私にとっても「母子癒着」はライフワークともいうべき重要なテーマだと思っています。
私自身が娘たち――、とくに長女に対して無意識に強く依存していて、それが彼女を苦しめる一因となっていたことから、私は「母」と「娘」の関係にとても強い関心を持っていて、娘のように苦しい思いをする人を一人でも減らしたいと願って、カウンセラーとして活動して来ました。

それはもちろん、私の罪悪感からくる補償行為(間違ったことや都合の悪いことを隠したり、埋め合わせたりする行為のこと)という側面もあるでしょうけれど、決してそれだけではありません。
私自身もまた、多少なりともこの「母子癒着」に苦しんできた経験があるからです。
私だけでなく多分私の姉も、十数年前に亡くなった弟も、そうだったのだろうと思います。

特に弟は、両親にとっては遅くにやっと恵まれた待望の長男だったこともあり、その過保護や過干渉の対象となることが多く、相当に苦しかったはずです。
弟が亡くなった当時の私には今のような知識はありませんでしたが、それでも私は数年前まで、心の奥底では弟を死に追いやったのは両親だと固く信じていたように思います。
そして、もしも弟が生まれていなかったら、たぶんそうなっていたのは私だったはず、とも思っていました。

実際、弟が亡くなってからは余計に母の心配や過干渉が重苦しく感じられて、母と一緒に居るのが苦しかったり、怒りを抑えられなかったりもしました。
母にしてみれば、それが神なのか、運命なのかはわかりませんが、最愛の息子をその手から奪われてしまったことで、私や孫たちまで失う恐怖に耐えられなかったからなのだろうとは思うのですが、それが私には苦痛でたまらなかったのです。

心の距離が近すぎて、相手の感情と自分の感情の境目が付かなくなってしまうことを心理学では「癒着」と言います。
私が幼いころからすでに母はものすごく不安の強い人でしたから、母と「癒着」があった私は、ずっと母のネガティブな感情や思考に巻き込まれていましたし、母の影響を強く受けてしまうところがありました。

でも、子どもの時はいざ知らず、例え親子であっても、大人同士の関係で「癒着」は不自然なものです。
多くの「母子癒着」で悩む方たちと同様、私自身も母に対する怒りがどんどん大きくなっていき、実家に帰省するたびに些細なことで怒り、母に対してそれをぶつけたりしてしまっていました。
それでも、実家から家に帰るころには頭が冷えて、母にあたってしまった自分に自己嫌悪して、勝手に苦しくなっていたりしたのです。

なにしろ母の行動は、それがどれだけこちらにとって「ありがた迷惑」であり、「越権行為」だったとしても、元々はすべてが「好意」であり、「善意」です。
母なりに私たちのことを想い、良かれと思ってそれをしてくれるわけですから、それを受け取れないということは、まったくあちらに「悪意」がないだけに、こちらが一方的に「罪悪感」を引き受けなくてはいけないので、かなりしんどいのですね。

それに、今にして思えば母にとっては「愛」であるそれらも、昔の私にとっては、心の深い場所に人知れず創り上げた聖域を無理やりに暴かれて、土足でめちゃくちゃに踏み荒らされ、汚されるような感覚さえ感じられるものだったと思います。
もしかしたら大げさに聴こえるかもしれませんが――、でもこういったことは時に、子どもの心にとってとても大きな傷となったりもします。
それらが私の心に長い間積み重なり、怒りに変わって、これ以上抑えきれないくらいに大きくなっていたのですね。

本来、人に何かをしてあげたい、与えたい気持ちはそれ自体が「愛」でとても美しく、尊いものですし、喜んで受け取ってもらえたなら、私たちはとても大きな喜びを感じられるでしょう。
けれど、相手の状況や気持ちを考えず、自分自身の気持ちだけで、無理やり押し付けることはただの「欲求(ニーズ」であり、「愛」とは違います。
時にそれは、相手に「苦痛」をもたらすことにさえなりかねません。

なぜって、人は本来であれば誰でも、誰かに強制されることなく、自分の好きなように何かを感じたり、ものを考えたり、行動したりしたいはずだからです。
たとえそれが、自分のためでなく誰かのためにすることであっても、それを決めたのが自分自身の意思である限り、心だけは「自由」でいられる。
そしてそれは食べることや、水を飲むこと、呼吸をすることのように、ひとにとっては必要不可欠なことではないでしょうか。

「自分を生きる」ということ。。

しかしながら、「癒着」のある関係性は、それを私たちに許してはくれないのです。
自分の心や意思を殺して他人の思い通りに生きようとすること、つまりは子どもが自分の意思でなく、親の希望通りに生きようとすることは、とても辛いことです。
今、それを選んだのが自分自身だと私が知っているからこそ、私の中の母を責める気持ちはだいぶ無くなりましたが、数年前の私はそのことに対して激怒していました。

それでも、どれほど母が誰かを愛したかった人なのか、本当はどれほど人を喜ばせることが大好きな人なのか、今の私はとてもよく知っています。

母は本当は欲しいものを欲しいということが出来なかった人でした。
言えずに我慢して、我慢して、我慢し続けて来た人でした。
ですから、私たちも欲しいのに遠慮して言えないのだと、思いこんでいるようですなのですね。
私や娘たちの言葉を聞かず、強引に押し付けてくるようなお節介の数々も、母なりに私たちのためを思ってのことであり、かつての母が誰かにそうして欲しかったことなのでしょう。

そして、母が弟の死に対してどれほど自分を責め続けているのかということも、また弟だけでなく姉や私にも、「私が母親でごめんなさい」という思いを強く持っているのだということもわかるようになりました。
だからこそ、私は母をずっと許せなかったのだと。
娘をあんなにも苦しめてしまったと自分自身をどうしても許せず、罰したくてたまらなかった私は、私と同じように自分の子供たちを結果的に苦しめることになってしまった母を責めることで、自分の罪悪感から逃げていただけでした。

そう気づけたころには、長女はだいぶ元気になって来ていて、私はようやく「母を許したい」と思えるようになりました。
母を許そう、母を「子ども」としての、「娘」の目線でみるのでなく、ひとりの人間として、対等な「大人」としての目線から、母を見ていこうと思えるようになりました。

そうして私は、もしも私の目の前に母が赤の他人として現れたら、そして一人のクライアントとして彼女の話を聴く機会があったとしたら、私はどう答えるだろう、どう彼女を愛そうとするだろうと初めて考えたのです。

「あなたは悪くないですよ」
「あなたの所為じゃない」
「今までよく頑張って生きて来られましたね」

ごく自然にそんな言葉が出てきて、ゆっくりと胸に浸み込んでいく感覚がありました。
そこで私はようやく、母との「癒着」を少し手放せたのだと思います。
また、心理学の先生に母への怒りを扱っていただいたセッションで、私は母の、深い深い「悲しみ」に触れることがあり、またそこで大切な気づきがありました。

「悲しみの海」と表現されるその深い悲しみ、たぶんそれは誰の中にもあるものかもしれませんが、――私はそこで、母の「悲しみ」をただ、ひたひたと感じることで、母が私を縛っていたのではなく、「私が」癒着してまで母を何とかしたかったのだと、やっと気付くことが出来ました。
私の娘がそうであったように私もまた、母を心から愛していたということ、何とかして救いたいと願っていたこと、そのためには自分を省みなくてもいいと思っていたこと、母を救えなかった私が、母に対してひどい罪悪感をもっていたということを、ようやく認めることが出来たのです。

「罪悪感」を感じさせる相手からは、距離を取りたくなります。
そして「罪悪感」を感じているその相手に、私たちは「愛」を感じることは出来ません。

でも、「罪悪感」があるのは、そこに「愛」があるからです。
愛してあげたいのに愛せない――、そんな自分を責めているからこそ「罪悪感」を強く感じてしまうのです。

私はずっと無意識に自分自身を罰し、自分に終身刑を課していました。
母もまた、そうでした。
だから私は、母が自分を無罪にしてその牢獄から出て来なければ、私も絶対に出ないと誓いを立てていたのかもしれません。
幸運なことに私はその後、娘のおかげで、そこを自ら出てくることを選択できたのですけれど。


そんな風に自分を癒しながら母との関係を見つめ直していくうちに、以前は帰省して一日目にはもう母の言動にキレてしまっていた私も、ここ数年は一度も怒らずに帰って来られるようになりました(笑)。
もちろん、「私もまだまだだなあ、もっと優しくできたのになんでこうなっちゃうんだろう」って反省することも多いですが、けれどそれでも、母の毎回同じ話を笑顔で聴いてあげることが出来たり、母のお節介を喜んで受け取ることも出来るようになってきました。
少し子ども返りしてきた母に対して、幼稚園の子に話しかけるような感じで相手が出来ていることもあって、「私も大人になったなあ」ってこっそり自画自賛していたりもします(笑)。

昔の私は、母に、どんな人にでも自慢できる、尊敬できる母であって欲しかった。
「なんでこんなにこの人はこんなに幼いんだろう、性格が悪いんだろう」なんてよく思ってもいましたが、それもすべて、自分自身の投影でしかありませんでした(笑)。
今、母のいいところ、素晴らしいところが見えるようになって、私の素晴らしいところは母にもらったものだと素直に思えるようになりました。
「ありがとう」と母に心から言うことが出来て、とても楽になりました。

母を許すことが出来始めてようやく私は、ひとりの「大人」としてしっかりと、自分の足で立てるようになれた気がしています。
私自身がやっと、自分に「自分を生きる」ことを許せたのでしょう。


「許す」ということ――、もちろん、どうしても許せないことはたくさんあります。
もしかしたら参考にはしていただけるかもしれないけれど、あくまでこれは私個人の経験であり、誰かに強要するものでは無いですし、無理に自分の気持ちを殺してまで、あなたが誰かを許す必要はまったく無いと私は思います。

でも、もしも――、「今は無理でもいつかはそう出来たら」と願うことが出来たなら、あなたは自分自身を自由にしたい、終身刑から解放してあげたいと思い始めているのかもしれませんね。
そしてそれこそが「自分を生きる」ことであり、誰かを愛することなのではないでしょうか。


あなたが、そしてこの世に生きるすべてのひとが、「自分を生きて」いくことができる世界でありますように......。
お読みいただいて、ありがとうございました(*^-^*)

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2017年1月17日

綺麗になることが怖かった

女性であれば、一度はあこがれる"マシュマロのようなつや肌"ってありますよね。
女性向けの雑誌にはいつも、綺麗な女優さんのドアップが表紙を飾っています。
雑誌だから綺麗なのは当たり前です。
何ともいえない屈辱や負けを感じるのは、実は、自分の周りにいる
肌のキレイな女性たちを近くで見るときだったりするんですね。

小学校6年生のときだったか、周りの子たちと比べて顔にニキビが出てくるのが
早かったと思います。
「お前、なんでそんなに赤いの?ギャハハ!」と男子にからかわれ、
嫌な顔をしていると、その男の子はさすがにしまった!と思ったのか、
「アトピー??」と聞き返してきました。
そのとき、思わず頷き、自分が嘘をついてごまかしたことを未だに覚えています。

そこから私の青春はニキビとの闘いとなりました。
中学生になるとますます症状がひどくなり、
見かねた母親が皮膚科へ連れて行ってくれました。
医者からは「年相応のホルモンバランスによる影響だから仕方ない」と言われ、
消毒薬と塗り薬、飲み薬をもらったものの、ある程度の年齢が来たら良くなるもの
だと信じていたので、それっきり皮膚科には行かず中学生を乗り切りました。

ところが、高校生になってもなかなか終息せず、
額ニキビから頬や顎の辺りに移動してきました。
額なら前髪で隠せるものが顔面の目立つところにできてしまうので、
毎日鏡を見るのが苦痛に感じ始めていました。
年頃の女の子でしたから(一応ね。笑)好きな人ができたとしても
私には付き合うことはムリだと思い、人を好きにならないように
気持ちを抑えていたのです。
なぜ、付き合うことがムリだったのか。
それは、近くで見られたら絶対に肌が汚いって
思われて嫌がられるだろうって思ったからです。

高校を卒業し、専門学校へ通うようになってからは
周りが女の子ばかりだったので、男性からの目線は
あまり気にならなくなっていました。
それと同時に、二十歳近くなっても一向に良くならないニキビを
治したいとも思わないようになっていました。
それは、女としてキレイになることを諦めた瞬間だったような気がします。

周りの子が化粧品を使って可愛くしたり綺麗にメイクしたりしていても、
自分には無縁のものだと思い込んでいました。
違う世界の話だから、自分が化粧品コーナーに行くことすら
場違いなことだと信じていました。
学生生活では勉学や実習があり強いストレスにさらされていたこともあり、
肌のことどころか体のことさえ大切にせず、暴飲暴食していた時期もあります。

社会人となり働き始めてからも、諦めたとはいえ、
やっぱり鏡を見るのがつらいことには変わりありませんでした。
自分の顔を見て特に顕著に感じる苦しさは、
彼氏ができないという現実を目の当たりにすることでした。
かといって、自分の顔を理由にすることは人前で簡単にいえることではなく、
ずっと平気なフリをしてきたのです。
友達からは「もうちょっとだけ痩せたらいいんじゃない」とか
「遅刻癖は直さないとだらしない女だと思われちゃうよ」とか
言われたこともあります。
でも、それは私には全くヒットしない言い訳でした。
どこか、私の苦しみはきっと誰にもわからない、
という思いもありずっと口をつぐんでいました。

社会人3年目の頃、経済的にも余裕が出てきた私にチャンスが訪れました。
ある時、友人がフェイシャルエステに誘ってくれたのです。
最初は少し警戒心がありましたし、値段も高いなぁとも思いました。
お試しだけで終わろうかなと思ったのですが、
なんだか「今しかできないかもしれない」という思いがわいてきました。

思い切って10回コースを申し込み、
月に2回ほどのペースで通うようになりました。
自分以外の人の手がわたしの顔を優しく触れてくれたことが
気恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。始めのうちはニキビ
(というか、この頃はもう吹き出物ですかね。笑)が点在しており、
肌への蒸気や吸引機などの刺激もあって、
一時的に顔面が真っ赤になってしまいました。
それほどまでに敏感肌であることに、それまで全く自覚がありませんでした。

また、エステティシャンの方からも肌の手入れを教えてもらったり、
ちょっとした変化に対して一緒に一喜一憂してくれたりしました。
そうしていくうちに、自分の肌を丁寧にケアしていくことの
喜びを感じ始めていました。
そして、それは私が自分への自信を取り戻していくプロセスでもありました。

10回コースが終わる頃には肌の状態もずいぶんと改善し、
自宅でのセルフケアも手慣れたものになりました。
自分で自分を大切に扱う、ということは、
何か特別なことをするのではなく、普段から何気なくやっている
一つ一つの行動から変えていくことなのかなぁと思いました。

美容に何万円もかけている人を見てあまりいい印象をもっていなかった私が、
こんなに充実したお金の使い方をするとは思ってもみませんでした。
私は、自分が綺麗になれるなんて信じていなかったので、
そうなることが怖かっただけなのかもしれません。

一番怖いのは、ずっと諦め続けてしまうことなのかな、とも思います。
自分が欲しいものをもう一度認めてみると、案外願いは叶うのかもしれませんね。

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2017年1月10日

過去を振り返って

皆さま、こんにちは。源 やすこ(みなもと やすこ)です。
初めて「心理カウンセラーのコラム」を担当させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

新しい年を迎えましたね。
皆さま、どのような年末年始をお過ごしになられたでしょうか。
今年一年の計画を立てられたり、去年を振り返ったりされた方も多いでしょうね。

私の年末年始は色々と忙しくしていたのですが、去年、プロカウンセラーとしてデビューさせていただいたこともあり、プロカウンセラーになってから起きた出来事を思い返したり、出会った方々のことを思い出したり、カウンセラーになるまでの過去を振り返ったりもしていました。


かつての私は、自分のことが大嫌いでした。
私なんていなければ良いし、その方が周りの皆にとって幸せだとずっと思っていました。 
生きることが何だかとても苦しくて、自分ひとりで何とかしようと思って格闘していましたが、それも難しくなり、心理学の門を叩きました。

カウンセリングサービスの母体の神戸メンタルサービスのカウンセラー養成コースに入り、心理学を学び始めて間もなく、「自己嫌悪」をテーマとした講座を受講しました。
自己嫌悪とは、文字通り、自分を嫌うことです。
これって自分のことだなあと思い、その講座が始まる前からとても楽しみにしていました。
講座が始まると、講師の話はとても面白く、あっという間に時間が経ちました。
そして、講座の終わりに、講師は「自分の良いところを思い付くだけ書くように」と言いました。

冷や汗が出ました。
私に良いところなんてどこにもない。
すごく悩んで自分の良いところを考えている中、周囲の受講生たちはたくさん自分の良いところを書いていきます。人によっては何十個も。
とても焦りました。
そして最後に、近くに座っている人たちとグループになって、書き出した内容を発表し合う時間があったのですが、私には発表できる自分の良いところが何もなくて、制限時間を全て使っても、良いところを一つも思い浮かべることができなくて、講座が終わった後、情けなくて、とても悲しくて、一人で泣きました。

そこから、学びと癒しを深めてちょうど一年後。
偶然、同じ講師による同じ講座が開催されました。そして、講座の終わりに、講師は課題を出しました。
「自分の良いところを思い付くだけ書くように」

一年後の私は違っていました。
5つ、自分の良いところを書くことができました。
他の人はもっとたくさん書いていました。けれど、自分にとっては充分。
良いところを5つも書けたことに、胸に熱いものが込み上げてきて、それを他の受講生に言ったら、皆が笑顔で喜んでくれました。
皆が喜んでくれたことも、そして何より、良いところが書けたことが嬉しくて、涙が流れました。

一年前と一年後、講座で泣いていた事実は同じだけれど、悲しみの涙が、喜びの涙に変わっていました。

その一年間で、そしてそれ以降も時間をかけて、私は、本来の私を発見し、見つめ、見方を変え、自分を好きになっていきました。
本来の私自身と出会う旅に出ていたのです。


そんな過去の諸々を振り返った年末年始でした。

今、自分に良いところなんてないと思っている人も、そうでもないけれど自分の悪いところばかり見えてしまっている人も、きっと、変わっていくことはできると信じています。
私ができたように。

今、私は、自分の良いところを5個よりもずっと多く書けます。

あなたは自分の良いところをいくつ書けますか?

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