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2015年8月25日

自分を表現する場所

どうしても、ひとりで、しかも、涼しい場所で片付けたいことがあり、ショッピングセンターのフードコートへ来ました。
そんなに静かではありませんが、私はあまり気になりません。

家にいるよりはかどるわ~♪と思いながら、持ち込んだパソコンに向かっていました。
ふと顔を上げると、壁にずらりとポスターが貼ってあります。
全部、演歌歌手さんのポスターで、直筆のサインが入っています。

ここで、ステージでもあった方たちでしょうか。

そういえば、うちの両親はカラオケが好きで、よく「カラオケ喫茶」に行っているようです。
私は、バブリーな時代を知っているので(年がバレますが)、カラオケは、酔っ払ってするものという、固い思い込みがあるのですが、聞けば、カラオケ喫茶というところは、お酒もあるけれど、ほとんどの方は、コーヒーを飲みながら、自分の順番が来るのを待っていて、順番が回ってくると歌う、というところなのだそうです。
だから、昼間に賑わっているのだと言っていました。

父なんかは、カラオケ仲間と「カラオケ大会」にも結構参加していて、壁に、気持ち良さそうに歌う父の写真が貼ってあったりします。

自分のしていることを、誰かに見てもらう。
自分を表現することは、私たちは、結構好きなのかもしれません。

習い事の「発表会」や、「展示会」があるのも、「表現」ですし、
今は、誰でもSNSなどで、自分の体験や思いを書き記したり、作品を紹介したりしていますね。
しかも、世界中の人にシェアすることができたり、私たちも、世界中の出来事を見ることができますよね。
それも、今の時代らしい「表現」といってもいいでしょう。

「誰かに見てもらいたい!」
はっきりとそういった気持ちでなくても、誰しも、自分の好きなものを、誰かと共有したいという想いが、心の中にあるようです。
また、こんなふうにも言えるかもしれません。
自分の内部を、外に見える形に表現して、誰かに承認してもらいたい。
ということは、私という人間を承認して欲しいということにも繋がっているのかもしれません。

でも、それは、奪うようなエネルギーとは違い、本来、内から外へ向かう、開放的なもののように思います。
表現することでの、開放的な喜びを感じるとともに、誰かと共有し、共感してもらうことで、さらに満たされた気持ちになるということが起こっているのでしょう。

表現方法は、たくさんあります。
表現する場所もいろいろです。

大きなステージだけが、舞台じゃない。
キッチンが舞台になることだってありますよね。

もう、何かしら表現の場がある方も、それが人生に彩りを添えている、とても大切なものであることを思い出していただくとよいかもしれません。

私は、合唱団で歌っているので、それも表現の場所ですし、カウンセラーという私も、こんなふうにして、自分を表現をしているともいえます。

私が、私を表現する場所は、どこだろう。
どんなふうに表現したいだろう。
そんなふうに、思ってみるのも面白いかもしれません。

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2015年8月18日

“助けて”と言えてしまった日

皆さんは本気で“助けて”って言うこと出来ますか?
今回はそんなお話でございます。

私が高校生の頃、友人とよく釣りに行っていました。
その日もひとりの友人と釣りに行き、それぞれの釣果に一喜一憂しながら帰り支度をしていたのですが、何だかんだと色々ありまして、
ざっくり言うとわたくし、池に落ちました(笑)

いやその・・・、長くなりますので今回その経緯は省きますが、
そこに至るには何だか完璧な流れがあったのでございます・・・。

池といってもそこは、すり鉢状にコンクリートで護岸された遊水地でした。
(イメージが湧かない方は“コンクリート護岸”とかで画像検索してみると、まさにそれっぽいものが出てくるようです。)
そういう護岸のほとんどは傾斜はきついのですが、
自然の土手なんかよりは安定しているんですよね。
ただし、それは水上部分だけの話。

私も落ちて初めて知ったのですが、水中のコンクリート部分はすべて「藻」が生えていてヌルヌルなのです。
おそらく皆さんの想像以上にヌルヌルで、まるでとろろ昆布の草原のようでありますからもの凄く滑りますし、浮力も影響してか踏ん張りも効きにくいので、自力で陸に上がるのは困難を極めるでしょう。

私も水中で「これはマズイんじゃないか・・・?」と悟ってしまったのです。
というのも、私は岸辺に届く指先の引っかかりだけで、辛うじて浮いていられるだけなのです。波に揺らされたり泳ごうとして指が離れてしまえば、あのヌメりを越えて再び岸辺に指を掛けられる保証はありません。

ですから私は、この(色んな意味で)得体の知れない水の中で大人しくしていないと危険なのであります。そして気付けば辺りは真っ暗闇。
目視で私を発見出来るかどうかは怪しいもの。
ならば私が助かる方法はひとつ、声で助けを呼ぶことだけでした。

しかし、私は「助けて」だなんて言いたくない。
私にとってその言葉は、『敗北宣言』に他ならなかったからです。
だから同等・・・いや、本音を言えばちょっと下に見ていた(←傲慢でした)その友人に助けを求めるなど、屈辱でしかなかったのです。
でも、そんなこと言ってられない状況なのです。もう、言うしかない。

私 「おーーーい!」
いい歳こいて池に浮かぶ私のこの惨めな姿を見た友人は、これから私をどういう目で見ていくのだろう?実はこうなった発端には友人が深くかかわっているので、もし少しでも私をバカにした態度を取るようなら許せない、なんて思いが巡る・・・間もなく、
友 「どうしたっ!?」
どこからともなく駆けつけてくれた友人がいました。

私 (ああ、さぞ笑えるだろうよ。だけど今度ばかりは頼むから・・・)
私 「たすけて。」

友 「まかせろっ!!」
私の言葉に間髪を入れず答えると同時に、私の手を掴んで引き上げてくれました。

友人は私のびしょ濡れの姿を見ても、何も言いませんでした。
私の方こそ反射的に、まかせろっ!てお前・・・何とか戦隊のヒーローかよ(笑)と頭の中でツッコミもしましたが、
あれほどの屈辱と抵抗、惨めさを感じていたのに、
私の口をついて出た言葉はただの素直な思いでした。

私 「ありがとう、本気で助かったよ。」

思えば、私は誰からも救ってもらいたくなどなかったのでした。
そう思っていたのは、今までに私の助けを無視してきた(ように見えただけかもしれませんが)人達や社会的なものへの怒りでもあり、反抗であります。
ならば、私も無視してやる。今さら助けようとしてくれても私は許さない。もうあんた達の手なんて借りない。例えどんな手を差し出されたとしても!そんな感じで色んなものを拒絶していました。

そうやってすごく頑固で意地を張って強がって、損ばかりして生きることを選んできましたが、そんな意地も強がりも捨てなければならない状況が、敗北宣言を選択をさせたのです。

でも、実際は敗北なんてありませんでした。
それどころかあの時、私は“うっかり”心から救われてしまったのでした。
意地と共に戦っていた日々に、終戦を感じさせるきっかけになった出来事でした。

それからの私が、その意地や反抗心の全てを手放せたかといえば、さすがにそこまでの即効性はありませんでしたが、
冗談でも言えなかった「助けて」という言葉は、あれからすぐにずいぶん気楽に扱えるようになりました。
それは、強がり続ける人生を手放すことにも繋がっていったように思います。

こんな感じで、絶対にイヤだー!と思う中に飛び込んだ時、
私達は予想していたのとはぜんぜん違う自分に出会えたりするものなのかもしれませんね。

最後に、夏場は水辺に近寄ることもあるかと思います。
皆さまも護岸や水際には、くれぐれもご注意下さいませ。

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2015年8月11日

父への思い

今年の夏は、梅雨明けとともに例年にはないほどの猛暑となりましたね。 暑さバテなどなさっていませんか。
厳しいこの暑さで思い出すのは、父のこと。 父が亡くなった年も今年のように暑い夏の日でした。
父は20年前の8月1日に病気で亡くなりました。60歳というまだまだ早い年齢で、病気がわかってからわずか4ヶ月ほどのことでした。
葬儀の日に、「これだけ暑い日に葬式だと誰もひろちゃん(父)のことを忘れないよ」と親戚たちが話していたのを今でも
覚えています。

私にとって父は、距離がある存在でした。父が厳格だったとか、冷たい人だとか、家庭を顧みなかったとか、
そういったことではなかったのですが、なぜか近い関係ではなかったのです。

私が小学生の頃は、父は出張で留守がちだったたせいか、あまり遊んでもらった記憶がありません。
時には遊園地やプールに連れていってはくれましたが、どちらかと言えば自分がしたいことに家族をつき合わす感じでした。
父は行きたいところがあると、急に「おい、行くぞ」と言い出し連れて行かれること多かったように思います。
平城旧跡(その当時は広い野っぱらです)に行って寝転がる、奈良公園へ写真を撮りに行く、など突然つき合わされるのです。
そうでなければ、好きなゴルフや野球、サッカーの試合をテレビで見てゴロゴロしてばかりです。

思春期の頃には父が海外へ単身赴任をしたこともあり、ますます遠い存在となりました。
今のようにメールはありませんから、連絡をするのは手紙か電話。 でも、ほとんど手紙を書くこともありませんでした。
電話代もかなり高い時代でしたから、こちらからかけることはほとんどありませんでした。 手紙も電話も父からはたまに
ありましたが、父の字は達筆すぎて(字が上手く草書体)、読めないこともしばしばでした。 電話がかかってきても
何を話していいのかわからず、私も素っ気無い態度だったように思います。

父と距離を感じていたのは、一緒に過ごす時間は少なかったからなのかもしれませんが、本当の理由は妹をかまうようには、
私はかまってもらえなかったという思いにあるのだと思います。
妹は活発で甘え上手なマスコット的な存在、それに対して私は引っ込み思案であまり甘えない子どもでしたから、
同じことを私と妹がやったとしても、私は怒られ、妹は怒られることもなく笑って終わるというそんな思いずっとがありました。

だから、父に近づきたくても、その度に傷つくという経験をしたように思います。
そんな感覚でしたから、大人になってからの父との関係は、話すとケンカになることも多かったのです。 こちらは冗談のつもりで
言ったことに父が激怒したり、また反対に父から言われたことやすることに私が文句を言ったり怒ったりということが
増えていきました。 そして、私の中では、父は気分屋で、怒りんぼで、自分勝手な人という思いが強くなり、
同じ家にいても、ほとんど話すことはなくなってしまいました。 悲惨なほどの冷戦状態とか険悪とかではないのですが、
なぜだか歩みよれず、お互いが関わりずらいと思っているようでした。
「もうパパなんか嫌い!」と思いながら、でも仲良くなれないのがとても寂しく悲しかったのだと今なら思います。

私が1人暮らしを始めてまもなく、父の病気がわかりました。家族みんながほとんど病気もせずに過ごしてきただけに
ショックは大きいものでした。 母は毎日朝晩と病院へ通い、私は仕事が終わってからたまに病室に顔を出す程度でした。
それでも、やはり私と父とはすぐケンカになってしまうのです。 普通に話していても、結局お互いが機嫌を悪くするパターンが
続いていました。 そして、私は「もうこんな人なんか知らん」と思ったりしていました。
父のイメージはずっと変わることはなかったのです。

だけど、父の葬儀の後、父が勤めていた会社の方からこんな言葉を聞きました。「あなたのお父さんは、本当に誰にでも
親切で優しく、人に怒るようなこともなかった。いい部長でした。」と。
私の頭の中では、もう??? はてなマークがいっぱいです。 どういうこと? なんでそんなに家と外で違うの?
最初は、まさかそんなはずはない、と信じられません。 でも、他にも「部長は人を疑うことを知らないような人で、
すごく温和な方でした」とか、「お父さんが機械を設計して作っってくれたから工場の問題が解決した。」なんてことも
聞くのです。(当時、父は中堅の部品メーカーの管理職でした。)

私はすごい思い違いをしていたのかもしれない・・・とだんだん思うようになりました。 そして、頑なだった父のイメージが
徐々に変わっていくように思いました。  もっと話しておけばよかった、もっと上手に甘えておけばよかった、ごめんね、と
素直に思えたのです。 
当時はまだ心理学を学んでいなかったのですが、今思うと私の中の父と和解ができたのでしょうね。

小さな頃、突然父の行きたいところに連れ出されたりしたこともあったけど、でも、バレエ発表会があると朝から
ずっとみんなの写真を撮り続けてくれたりしたよね。(当時妹とバレエを習っていたのです。)
切手集めが流行っていた頃は、海外出張のたびに切手を買ってきてくれたりもしたね。私が1人暮らしを始める時には、
電化製品を買ってくれたりもしたね。 
単身赴任をしていたシンガポールへ遊びに行った時には、美味しいレストランやホテルのバーにジャズを聴きに連れて行って
くれたり、高校生では体験できないようなことをさせてくれたね。そんな思い出や感謝がいろいろ湧いてきます。
思い出すパパのイメージはすっかりいいものになってしまったようです。

パパは今も天国で写真を撮ったり、ゴルフをしたりしているのかな。 空の上から、私たちを見守っていてくださいね。 

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2015年8月 4日

タイで象より印象的だったこと。

いきなりですが
タイ旅行に、行ってきました。

この原稿を書いている今は空の上。
帰国中の機内です。

観光を兼ねて、現地に住み始めた友人のところへ行ってきました。


海外旅行は好きでも「いざ行こう!」と思っても
「いつ?」「どこ?」と決めるには少し、勢いがいるもの。
最初の一歩がなかなか踏み出せないことってありませんか。

私は今回、友人のおかげで世界が一つ広がりました。
「会いたい人のところへ行く!」
それだけで、重い腰はスッと軽く上がるものなんですよね。


現地に着いて、久しぶりを埋めるようにたくさんお喋りして、
観光もして、日常の10倍くらい濃い時間を過ごしてきました。


もともと「タイ」の場所さえ怪しかった私ですが
現地に行くと初めて知ることがたくさんあって
市場に行っても、車で移動しても、目に移るもの全てが新鮮でワクワク。

心が動くと、誰かに伝えたくなる。
その瞬間にシャッターをきる。
愛用のカメラも久しぶりに大活躍してくれました。

タイの第一印象は「とっても都会!」
高層ビルは乱立し、広い街に所狭しと人、人、人。
車もバイクも我先にと、道路を埋め尽くしている。

高層マンションに、大規模でお洒落なショッピングモール。
六本木ヒルズも顔負けのスケールで
その中には日本の飲食店も多数。しかも行列までできている。


かと思えばローカルな市場では、
パワフルな食材が所狭しと置かれている。

トゲトゲしたり、色鮮やかな、見たことのないフルーツや、
大きな魚が大量に網焼きで並んでいるかと思えば、
隣では燻製の鳥がズラリと吊るされている。
壷のような器には、豆か実なのかよくわからない色とりどりの丸いものが山積み。
鍋にはグツグツと緑とか朱色とかの煮物が香ばしい匂いをあげているけど、具も味も想像がつかない光景。

住み始めて間もない友人も
「少しずつ試してるんだけど、
 よくわからないもののほうが多いんだよね。。。」

ここまでくると意味不明すぎて、なんだか笑えてしまいました。

「移動は電車のように船も使うんだよ。」
通勤の乗換手段のひとつに船も入っていると。
え?じゃあ、台風が来たらお休みとか?!


文化が違うと常識も違う。
何を見ても聞いても、興味深いものでした。

そんな中、私にとって何よりも印象的だったのは
モノではなくて

「ありがとう」

というタイの挨拶。

食事をしても
道を譲っても
買い物をしても
美しすぎるスッチーも


「コップンカー」


両手の平を、胸の前で合わせるという
祈るような合掌のポーズで、目を見て
「コップンカー(ありがとう)」と言ってくれます。

このポーズ、言葉がわからなくても
しっかりと感謝の気持ちが伝るのですよね。
言葉はわからなくても、このポーズを見たら
世界共通でわかってもらえるのではないでしょうか。


なんだかその合掌に
とっても胸を打たれたんです、私。


もちろん、
日本でも、どの国に行っても
感謝の言葉はあります。

「ありがとう」
「サンキュー」
「メルシー」
「ダンケ」

お辞儀をしたり、笑顔だったり、ハグだったり
国によって仕草もさまざま。


その中でも、祈るように
「コップンカー」


心から感謝できるポーズだと思いませんか。
もしかしたら、感謝に加えて相手の幸せを祈る意味もあったのかもしれない、なんて勝手に想像したりもして。

目まぐるしく発展する忙しい社会でも
立ち止まり、手を合わせて感謝する。

この文化だけはしっかりと残っている。


自然と心がこもるこのポーズに
私は、とても謙虚な尊さを感じました。


当たり前のように使っているけれど
何よりも、大切な言葉。
(実際に5つくらい覚えた単語のうち、半分は「コップンカー」と言っていたし。)


お礼を言う時って、相手の行動や言葉に対してありがたみを感じたとき。
その相手は、自分のためを思ってしてくれたからこそ。


普段から
「ありがとう」とたくさん言っても

「心をこめて」言えているかしら。
「感謝の気持ち」は伝わっているかしら。


私も、祈るように感謝する気持ちを忘れないでいたい。
そう気づかせてもらえた旅となりました。


新しい国の出会いを導いてくれた友人と
心の深いところに響いた、タイの「ありがとう」に


「コップンカー」(合掌)

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