« 2011年2月 | メイン | 2011年4月 »

2011年3月29日

十年、二十年

3月12日、九州新幹線鹿児島ルートが全線開業しました。
九州は、いま元気です。

新幹線の経済効果は、熊本だけでも220億円と試算されています。
しかし、新幹線は地域経済だけでなく、九州に住む私たちをも、元気にしてくれているようなのです。

新幹線が通る福岡、佐賀、熊本、鹿児島はもちろんのこと、大分、長崎、宮崎、九州各地で、“ご当地グルメ”や“おもてなしサービス”が用意され、観光客の方々に楽しんでいただきたいと、みなさんのお越しをウキウキしてお待ちしているのです。
ウキウキしている人の笑顔を見ていると、直接には関係していない人までウキウキしてくるようで、春の訪れと相まって、九州全体がお祭り気分のようになっているのを感じます。

ふと、5年前に訪れた金沢駅のことを思い出しました。
金沢駅の東口広場には、将来新幹線が通ることを考えて建築されたといわれる“もてなしドーム”が建っています。
加賀宝生の鼓を模した木造の門と総ガラス張りのドームとの、全く異質なコントラストは圧巻です。

巨大な鼓門の下に立ち、その美しさに圧倒されて眺めていると、出張だと思われるビジネスマンの話し声が聞こえてきました。
「新幹線が通るのは十年後だろう!?その頃には、古くなってメンテナンスが大変だよ。民間企業では、こんな投資、考えられないことだよ。よくやるなぁ。」と驚いていました。
横で案内人らしき地元のビジネスマンも上を見上げながら、「ほんとうに、何を考えているのだか・・・」と溜息をついていたのです。

そんな話を聴きながら、前日に参加したビジネス講演会で、一橋大学の米倉教授が、「これからのリーダシップにおいては、明確なビジョン(将来の見通し、未来像)を示すことが必要です」と話されていたのを思い出し、このドームは、十年後の金沢の行き先を具現化して示しているのかもしれないと思ったのです。
そして金沢の人達は、このドームを見る度に、無意識のうちに自分たちの行き先を確認することになるのだろうなと思いました。

5年後の今、まだ金沢に新幹線は通っていませんが、九州新幹線が開業したことで、新幹線開通後の金沢の街の雰囲気を、一足先に体験したような気分になりました。
そして、あの巨大の鼓門は、無謀な無駄遣いではなく、いま九州で私が目の当たりにしているような“人々の笑顔と活気に溢れた街”というビジョンを見据えて建てられたのだと確信したのです。

金沢は、歴史と文化と美味しいものが沢山ある素敵な街ですが、長い年月を経ても魅力ある街として存在しているのは、行く先に“ビジョン”を見据えて、十年、二十年とそれを継承してきたからかもしれません。
ビジョンを掲げることは、ビジネスや街づくりに限らず、私たち一人一人の幸せのためにも、とても大事なことです。
私もあの金沢の鼓門のように、「十年、二十年後、カウンセリングを通して、私の周りに“笑顔と活気が溢れる”」というビジョンを掲げたいなと思っています。


追記 今回の大震災で被災されたみなさまに、心よりのお見舞いを申し上げます。

この原稿を書き上げた数日後、東日本大震災が発生しました。
九州新幹線全線開業のイベントを翌日に控えていた九州各県では、全てのイベントを中止し、被災された方々のお力となれるよう、各方面で様々な取り組みが行われています。
遠く離れていて、直接出向いて何をすることも出来ませんが、いま出来ることをしたいと、それぞれが想い、その想いをいろんな形で表わしています。
被災していない地域の者ちが、まず元気でいて、東北の明るい将来像を思い描きながら働き、物資や資金を力強く生み出して、北へと送り出すことも、その一つの形だと思っています。
近い将来、東北のみなさんが元気に笑顔を浮かべ、街に活気が溢れているというビジョンをイメージしながら、被災地の復興を願っています.


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2011年3月22日

ほんの少しの勇気

こんにちは。カウンセラーの北です。

今回は出勤途中の約20分間の出来事についてお話をさせて頂きたいと思います。

たった20分の短い時間ですが、地獄から天国への私が辿ったプロセスをシェアーさせて頂きたいと思います。

最近「おなかに赤ちゃんがいます」という表示をぶら下げた女性を朝の通勤電車の中でよく見かけます。

通勤電車と言えば、朝から疲れた顔をした人、昨夜の飲み過ぎでまだ抜けきれないのか酒の臭いのする人、眉間にしわを寄せて難しい顔をしている人、一心不乱に何かの本を読んでいる人、いろんな人がいますよね(よくよく考えるとこれは殆ど私の事ですね)。私もその中の一人なわけです。

先日もいつもの時間帯の電車に乗っていました。実は、その日は前日に普段通っているトレーニングジムでかなり強度の高い運動をしたせいで体中が痛く、とにかく立っているのも辛くて、私はいつもとは異なり珍しく座席に座っていました。

そうすると次の駅で先ほどの表示をぶら下げた女性が乗車してきたのです。

奇しくも、私は前日の晩にテレビで、座っていた席を立って近くのお年寄りに譲ろうとした女性が他の中年男性にその席を奪われてしまい、文句を言ったところ、口論になるシーンを見てしまっておりました。
まさかその翌日にいきなり似たようなシーンに自分が出くわすことになろうとは想像できるはずもありません。

ただ、その時はさすがに自分の間の悪さにクレームを付けてやりたい気分でした。(その反面、そんな自分に笑いをこらえるのに必死な自分もおりましたが)
そして頭が余計なことを考え始めます。

例えば、席を立った途端にやはり目の前に立っている中年サラリーマンがすかさず座ろうとするだろうから、先に「『あの女性に譲るのですからね。』といってから動こうか、いやいや突然そんなこといったら変な奴と思われる、それにもし喧嘩にでもなって、昨日のテレビで見たみたいになってしまったらどうしようか。うーん、どうやって切り出すかな・・・弱ったなあ。」などと悩み続けること数分。

更に「正しい事するのになんでここまで怖がるかね?この意気地なし!!」「人には『人生を変えるのはほんの少しの勇気です』だなんて偉そうなこというのに、自分では実践してないのはおかしいんじゃない??」と自分を責めること更に数分。

たった一駅の間ではありますが、私の心の中はこうして自分自身への厳しい叱責と激しい葛藤の嵐竜巻台風が猛威を振るっていたのでありました。

そして、次の駅に着いてお客さんの降車乗車でその女性が丁度すぐ近くまで流れてきました。

その瞬間がまたとないチャンスだったのですが、そんな時でさえ「もし断られたらどうしよう。その時はばつが悪いよなあ。まわりの目も気になるしなあ。」などと未だに迷い続けている私がおりました。

結局、自分の恐れに負けるか、目の前の妊婦さんか、私が取ったのは、何も考えずにまずは体を動かすという選択でした。
「ほんのちょっとの勇気」を出して、まずは行動してみること、とにかくやってみること。
それで体は勝手に動き、席を譲ることはできました(因みに、ここまでくるのにわずか10分程度です)。

その後、私が降車する時に相手の人がこちらに会釈してくれたのですが、それが妙に嬉しくて、さっきまで地獄にいた私はこのたった一つの会釈でとても幸せな気持ちになれたのでした。

きっと相手の人は、そんな大層なことをしたとは思っていないでしょう。でも、私に取っては、それがとても嬉しくもあり「お体ご自愛くださいね」ととても本当に暖かい気持ちになれたのでした。

自分の痛みや恐れを乗り越えて、相手に何かを与えることができた時の喜び、そしてやってくるギフトにはとても大きなパワーがあると感じた瞬間でした。


北さとしのプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (1)

2011年3月15日

親のことば~~娘として。母親として。~~

 早いもので、二人の息子は年齢だけは成人に達し、私の目から見れば、芯は骨太な青年になっていると思います。この、「芯は」と言うところが問題と言えば問題ですが、半世紀を生きてきたところで、始終惑っている訳ですから。

 彼らを育てるにあたって、どんな学校に行ってほしいとか、どんなことをやってほしいとか、殆ど皆無に近かったと思います。私自身が常勤だったために、時間を費やせなかったこともあり、経済的な面もあり、そして何をするにも新鮮な想いで向かっていくことの意義を大切にしたかった、ということもあります。

 しかし。
  
 親の事情、家庭環境で学歴に差が出る。ゆくゆくは収入や社会的な地位にも差が生じる。

 こういった事実に、私自身も接してきましたが、後で聞くと彼らの想いは、その歳なりに壮絶なものがありました。今、ここでは、敢えてふれない事にします(長くなるので)。
 
 彼らは、端的に言うと「母親を少しでも楽にさせたい」と言う思いから、早々に大学進学を諦め、勉強しなかった、と言うんです。

 あいたっ。

 彼らの性格や、その後の生き方から、この言葉が勉強をしない言い訳ではないことは容易に解るんです。なぜなら・・・30年も前に私がとった行動とそっくりだったので、これはもう疑う余地は皆無です。

 私の行動と言うのは、「大学受験をしなかった」それだけです。具体的に言うと・・・。

 浪人して、あれこれ悩んだ上に地元を離れないで済むことをまず選択し、自分が一番したかったことからそう遠くない分野(教育)を受験する、と言うことを決めたのですが、内心どうもしっくり来ていなかったのだと思います。

 それに、親には絶対言わなかったのですが、家業が思わしくないことも勘付いていましたから、自分が進学しないのは、妥当だと思いました。

 でも、進路と言えば進学、とずっと考えてきた、自分も親も。それを受けない、とは言えなかったんですね。

 そして、願書はとうとう出さずじまい。受験料を貰ったかどうかの記憶も無いのですが、たぶん、自分で出したとか言った様な気もする。要するに、まったく覚えてないんです。

 親にしてみれば、進学を諦めさせることは辛すぎたと思います。特に父は、子供たちがやりたいことをやるのが一番、と言う考えを持っていました。

 ちょうどその頃、父は経営していた会社を倒産させるのですが、小さな会社でしたから、個人の財産も処分することに。

 債権者会議の前夜、父は私に言いました。

 「ピアノは、守ったる。誰かが持って行く言うたら、わしが目の前で壊す。解ったな。」

 どう言っていいかわからず、ただ泣いていました。

 債権者会議が終わり、負債の処理が決まった後、父は私に開口一番こう言いました。

 「ピアノは守れたぞ。引っ越すときにも持っていくからな。」

 受験はこれより前だったのですが、私は「受験しない」を実行したのでした。もちろん、親に知られてはなりません。

 受験の時間に合わせて家を出て、受けようと思っていた大学とは方向違いの京都に向かいました。京都駅から適当なバスに乗り、気がつくと烏丸通に。どこをどう移動し、どこで過ごしたのか、まったく覚えていませんが、受験が終わる頃に家に戻りました。

 私は、つい最近までこのことを誰にも話していなかったし、当然親にもばれていないとずっと思っていたんです。

 「あんた、ほんまはあの時大学受けてなかったんやろ?」

 昨年、何かのときに母が言い出したんです。本当に驚きました。

 「当たり前や。私らはこれでもあんたの親なんやからな。ずっと知ってたで。」

 ちょうど今の私くらいの年齢だった両親の気持ちは・・・胸に迫りました。

 ピアノは、未だ実家にあります。姪たちが訪れるたびに弾いているようですが・・・。震災の時には梁の支えになり、倒壊した建物から母と妹を守ってくれました。父はその少し前に亡くなっていたので、ピアノに想いを宿したのでしょうか。

 ピアノはひとつの象徴ですが、私の気持ちを、本当に大切にしてくれた父から貰ったものは、大切にしなければいけません。息子たちには、この形の無い遺産を余すところ無く伝えたい、といつも思っています。

 息子たちのこれまでは、決して順風満帆と言う生き方ではありません。紆余曲折、「わけあり」の道を、時には悔しい思いをし、時には怒り、時には涙を流し・・・、そして彼ら自身の生き方をまだ模索している。

 親に出来ることなんて、本当にたくさんは無いのです。私が辿ったように成長していく姿を、ただ信じて見守ること。それが精一杯です。これが、私が両親から受け継いだ一番大きな財産かもしれません。

 たとえば、何かの分野で親を超えることはあるでしょう。息子たちが私を易々と超えていくことも、たぶんあるでしょう。

 でも、育てる側になり、カウンセリングをするようになった今も、親の言葉を超えることは難しいと感じてしまいます。私には、父のひと言、母のひと言のような、言葉の本当の重み、凄みを伝えることが出来ているのか・・・。

 両親のそれぞれの言葉は、心底私への愛情に溢れています。言葉とは・・・その想いの真髄があってこそ重みが増し、真実味に溢れるもの。言外に、それこそ言外に教えてもらった大切なこと。

 言葉で表しきれない、と言うのは確かにあるものですが、言葉そのものと言うより、そこにこめられた想いを伝える大切な、人間しか(今のところ)持ちえていない道具だと思うのです。

 私の両親は、こんな風に私が考えていることは夢にも思っていないかもしれませんが・・・私のどこを切り取ってもやはり、私はあなた達の娘だ、ということ。そしてとりもなおさずそのまま、息子たちに引き継がれていると言うこと。

 これを言葉で伝えていくことが、これからの私の仕事の一つになるのだと思っています。



投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (1)

2011年3月 8日

正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ

 息子が毎週楽しみにしている「仮面ライダーオーズ」を一緒に観ていたら、深く思うところがありました。

 「仮面ライダーオーズ」は、子ども番組とは思えな深い話で、とても簡単には説明できないのですが、あえて大雑把に書いてしまうと、人の欲望が怪人を生み出し、人々の生活を脅かす存在になるその怪人を、仮面ライダーオーズが倒す、という話です。

 毎回、人が持ついろんな欲望がテーマになります。

 「物欲」「食欲」「名誉欲」など、いろいろですが、今回は「正義感」がテーマに展開されていました(2011.2.13放送「第22話:チョコと信念と正義の力」)。

 世の中を良くしたいと思っている登場人物の「正義感」が怪人を生み出し、その怪人は登場人物の正義感に突き動かされ、悪事を働いている人達を倒しはじめます。

 悪いやつをやっつける怪人を倒す必要があるのか?という仲間の問いに、主人公はこう答えます。

 「誰かを守りたい気持ち、自分たちの正義を守りたい気持ちが

  どんどんエスカレートすることがある。

  正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ。」

 「正義感」の怪人を生み出した登場人物=神林と、主人公=映司の正義についての会話が次のように展開されます。

映司:「誰が正しくて誰が間違っているかって、とっても難しいことだと思います。

    自分が正しいと思うと周りが見えなくなって

    正義のためなら何をしてもいいと思ったり

    きっと戦争もそうやって起こっていくんです。」

神林:「戦争ですか。でも悪い奴らを放っておいていいわけじゃないですよ。」

映司:「目の前で起こっている事に一生懸命になるしかないんです。

    小さな幸せを守るために。」

神林:「小さな幸せ」

映司:「自分ができること以上のことはできませんしね。」

神林:「難しいですね。」

映司:「でもやるしかないんです。自分が関わった人みんなを幸せにするために。

    そうすれば、ひどいヤツもきっとわかってくれます。」

 僕は、このコラムで何度か書かせていただきましたが、小さい頃から「世界平和」を願うような子どもで、そのことで悩み続けたことが今の僕を作り出していると思っています。

 カウンセラーになって、ご相談を受けていくうちに、この「世界平和」ということに、この仕事が繋がっているのではないかと思うようになりました。

 それは、当初は、思っても見なかったことでした。

 僕たちのカウンセリングでは、「今の人間関係を作り出しているのは親との関係である」という考えの元にお話を進めさせていただくことが多いです。

 それだけ、僕たちの心を形成するのに親との関係は大きな役割を果たしていると言えるわけですが、どんなに大変な家庭で育った方でも、カウンセリングを進めていくうちに、最後には、親に愛されていた自分というところにたどり着くことが多いのです。

 子どもを愛していない親はいない。確かにやり方はまずかったかもしれない。でも、親には親の仕方がない事情があったのかもしれない。

 そこまでたどり着くことができると、愛されなかったことが誤解であることがわかります。

 そして、そんな愛される自分は、愛されるにふさわしい生き方ができるはずだ、と日常に戻って行くきっかけをつかまれることもたくさんあります。

 そうしたところにたどり着いた方が結婚して子どもを授かったら、あるいは、すでに結婚されて子どもがおられる方は、今度はその思いを子どもに伝えようとされます。

 カウンセリングサービスに寄せられる相談の多くは「恋愛・夫婦関係」の問題です。
 その問題を解決して、幸せなパートナーシップを築いていただけること、あるいは、これから新しく出会った方と素晴らしいパートナーシップを築いていただけること、そんなお手伝いをすることが、僕の仕事だと思っています。 

 幸せなパートナーシップを築かれたご夫婦から生まれる子どもは、やはり幸せを感じながら生きていくのではないでしょうか。

 そうした方がどんどん増えていけば、幸せな子ども達はどんどん増えます。

 そんな子ども達がたくさんいる社会は、やっぱり幸せな社会なのではないかと思うのです。


 僕がカウンセラーになって気がついたのは、「パートナーシップへの貢献は社会への貢献ではないか」ということだったのです。

 仮面ライダーオーズの主人公、映司が語ってくれた、「自分でできる以上のことはできない」ことを自覚して「小さな幸せを守るために、目の前のことに一生懸命になる」という言葉は、僕の胸に大きく響きました。
 僕の力でどこまで「幸せなパートナーシップ」のためのお手伝いができるかわかりません。
 けれど、今できることを一生懸命にやりたいと改めて思いました。 


 仮面ライダーオーズの主人公、映司が語る平和論は、絵空事かもしれません。
 そして、僕のこの考え方も絵空事なのかもしれません。

 でも、僕はこのことを「自分ができること」としてやり続けていくつもりです。

 それが今、僕がたどり着いた「世界平和」への答えでもあるからなのです。

池尾昌紀のプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (2)

2011年3月 1日

戎さん詣りにて

こんにちは。カウンセラーの北です。

1月に普段勤めている職場の仲間で戎さんへお詣りに行きました。
そこは堀川戎といって、今から約1500年ほど昔、奈良時代以前の建立とされている
古い神社です。(とは言っても、最初の建物は昭和20年の戦災で全て消失し現在の建物は再建されたものですが)
毎年ここは西宮や今宮と並んで三大戎として、1月9〜11日に商売繁盛の神様「えべっさん」をお詣りする沢山の参拝客で賑わいます。私もその中の一人であったわけです。

参拝客は、皆今年の商売繁盛を願ってお賽銭を投げ入れて思い思いにお願い事をするのですが、激しい人混みで境内の前はとても混雑していました。なので、わずか10数メートルの距離を10分以上かかる大渋滞の中、漸く境内に手前に辿り着こうとしておりましたが、後ろから横から境内の真正面に行こうとする人の流れで我先にと押し合いへし合い状態になり、境内を目の前にして再び身動きがとれなくなってしまいました。
「まあ、そんなに焦らんでも境内は無くなりはしませんよー」なんて思っていたところに、
私のすぐ前に並んでいるおじさんが賽銭を投げ入れながら「えべっさん、よろしくたのんまっせ!!」と叫ぶようにして願をかけていました。

と、その時、ふと感じたことですが、ここに来ている人達の中には、もしかすると神様から見放されるかも知れないという恐れをもっている人もいるのかもしれません。

というのも、お詣りが終わった後、職場のメンバーに「もしも、仮にお詣りに行かなかったらどんな風になると思います?」ときいてみたところ、ほとんどの人から異口同音に「お詣りしてしっかりと御願いしておかないと、何か悪いことが起きた時、神様から守ってもらえないかも知れない」という答えが返ってきました。

そして、その答えをきいた時、わたくし以下のように思ったのですね。
「ああ、そういえばよく考えると俺もそうだったなあ、なんかあったらよろしくお願いしますねって心の中でよくつぶやいているわなあ・・・」

勿論神様や仏様への信仰心はそれなりに大切なものだと思います。
戦争中収容所に収容されている等、極限状態にある時には、信仰心の有無が生死を分けた、という話もあるくらいなのですから。
それに捉え方も十人十色でしょうし、良い悪いだとか、正しい間違いという話でもないと思います。

でも、職場の人達の話をもっと突っ込んで聞いていると、彼らは「いざという時に神様や仏様から見放されないようにするため、よくよくお願いしておく。」と言っているんですね。

ということは、「お願いしておかなければ、自分は見放されてしまうような存在なんじゃないか?」つまり、「神様や仏様の気を引かなければ、愛してもらえないのではないか?」という恐れ、或は「愛してもらう為に気を引かねば」とか、もっと言うと「愛して、愛して」というニーズがあるんじゃないかと思った訳です。

もっとも、それらは彼らの無意識のレベルで思っている事で、当の本人はそんな事をはっきり意識しているはずもないでしょうが…。

更に、その先には「自分は愛されるには値しない」という無価値感があるように思えたのです。

彼らの無意識/潜在意識に、
「神様や仏様は私を罰するもの」
「お願いしなければ、何か悪いことが起こったとしても、神様や仏様は守ってくれない」
というのがあるのではないかと…。
多少大げさかも知れませんが、それくらい自分は神様から遠く離れた存在で、愛されていないという気持ちが隠されているということかもしれません。

しかし、その度合いだけ神様や仏様を心のどこかでは強く求めていて、無意識に繋がりたいと感じている人達なんだなあということになるわけです。

でも、本当に神様や仏様って、私達にただ罰を与える存在なんでしょうか?
或は、私たちが気を引かなければ、困っている私たちを無視するような存在なんでしょうか?

私自身はクリスチャンでもなければ、敬虔な仏教徒でもムスリムでもありません。

私たちが誰かを愛する時、その人が何かできるから好きになるでしょうか?
何かの才能があるから好きになるでしょうか?
誰かを好きになる時って別にその対象となる人が何らかの才能をもっているからじゃないと思うんです。
「ただ、その人が好きだから好き。」
単純でそこには理由なんて存在しないと思うんです。
人間でさえこうなんだから、ましてや神様や仏様はもっと慈愛に満ちた存在であり、別に私たちが何かできるからとか、よく拝んでくれたから愛してくれるわけじゃない、理由なんて関係なしに愛してくれる、本当はそんな存在なんだろうと思うのです。

それを怖い存在にしているのは、もしかすると私たち自身かもしれません。
身近な誰かを愛している自分達自身の姿を映し出すとき、神様や仏様の真実の姿が見えるのかもしれません。
そして、それはあなた自身かもしれません。

あなたのほうから神様を身近な存在として愛してみませんか?
神様があなたの友達になった時、案外あなたの望みは、思っているよりもあっけなく叶うのかもしれませんよ。


北さとしのプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)