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2009年2月24日

32年目に知った母

娘が生まれて1月とちょっと経ったある日、お宮参りに行ってきました。

朝からバタバタと準備をし、駅へ向かいました。

待ち合わせをしていたのです。

待ち合わせをしていたのは僕の母。忙しい中都合をつけてくれて、一緒にお参りすることになっていたのです。

待ち合わせ場所で落ち合った後、そこからすぐ近くの神社に向かいました。

その短い時間に、母はもう孫に夢中です。

寝てるだの起きただのとはしゃいでいたのでありました。

「こんなにはしゃぐんだ~」と、はしゃぐ母の姿を見て、新鮮というか、少し意外な感じがしました。


神社に到着してご祈祷をしてもらうまでの間、待合室で少し待つことになり、そこで母が娘を抱いてあやしていました。

その姿を見て、僕はびっくりしました。

母が娘を抱く時、なんだかおっかなびっくりな様子だったのです。

そして、母の腕の中で娘が少しグズり出すと、あわててこう言うのです。

「ごめんね~、ママと抱き方が違うから嫌なのかな~、ごめんね~」

その様子とその言葉を聞いて、びっくりしました。

何にびっくりしたかというと、僕の知らない母の姿を見たことにびっくりしたのです。

僕の中では、2人も子供を育て上げたのだから、赤ちゃんの扱いなんて余裕しゃくしゃくで、少々グズろうが泣きわめこうが、そんなものはどこふく風で涼しい顔をしているのが、母だと思っていました。

ところが、実際はそうではありませんでした。

そのギャップにびっくりしたのです。

まぁ、生まれたての赤ちゃんを抱くのはおそらく僕が赤ちゃんの時以来ですから、30年くらいはブランクがあるわけで、おっかなびっくりになる無理もないのかなぁと思うのですが、その姿が、本当に意外だったのです。

その意外さに戸惑いつつ思い返してみると、僕の中の母というのは、何でもできて、間違いや失敗をすることもなくて、どんなことにも動じず、絶対的に正しい、まるでスーパーマンのような人だと思っていることに気がつきました。

でも、母は人間なんですよね。

怖いこともあれば困ることもあれば「ごめんね~」と思うこともあるんですよね。

そして、思ったんです。

「2人の子供を育て上げた経験があるにもかかわらず、こんなふうにおっかなびっくりだったりあわてたりするんだとしたら、その経験がない兄や僕を抱く昔の母は、どうだったんだろう?」と。

新米ママの母が、初めてのことやわからないことだらけの中で一生懸命頑張っている姿が想像されました。

そして、うれしそうに孫を抱いている母を見て、思ったんです。

「あ~、こんな顔して僕のことを見ててくれたのかな?」って。

もちろん僕は覚えていないけれど、僕がジタバタしてるだけの赤ちゃんの頃、おっかなびっくりでぎこちなかったかもしれないけれど、それでも一生懸命大切に大切に大切に大切に大切にしてくれていたんだな~ というのを感じて、胸の奥の方が熱くなったのでした。


これまで「お母さんなんだから!」と思っていたあのお母さんとは違うお母さん。

32年前に、こんな様子でこんな顔をして僕を見てくれていたお母さん。


それが32年目に知った、母の姿なのでした。


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2009年2月17日

笑ってしまえ!

少し寒さが緩んできました。
(この、コラムが皆様の目にふれる頃、もしも寒の戻りが来ていたらごめんなさい!)
春まで、もう少し・・・。

コラムを書こうと、決めてからはや5時間程度たとうとしています。
書きたいことが出てきては、自分の能力不足のため、構想は崩れ。
記憶がぽろぽろと抜けていく。
そして、ネットサーフィンに明け暮れる。
あーーーー・・・。

できないと感じる時は、人間、どんどん深刻になるものですね。
こういうときは、自分自身であまり気がつかないもので。
周囲の方の、笑い声に、「笑えない私」に気がついて、気持ちをリセット。

最近、悲しいニュースが目に付きます。
いわゆる普通の日常の先に、少し歯止があれば何かが違っただろうに、と思うことが多いです。

ですが、生活をしていていくつかの場面で、もしも、ひとつ選択が違っていたらと振返って思うことも。
わたくしの体験として、一番の恩恵は「ありえないことはない」と思えることだと思っています。
まさか、我が家に降りかかるとは!
まさか、職場がこうなろうとは!
まさか、私に降りかかるとは!
誰のどんな体験でも、普通のことってないけれど特別なことも、実際にはないと思っています。
個人の体験の大きさや特殊性は、人の体験と比べることでは何の意味も生み出さないと思いますから。
ただ、私の幼稚な固定観念は、おかげさまでぶっ壊していただいたように思います。

昔読んだ童話たち。
お姫様の立場でも、魔女であっても。
ポジティブな話でも、ネガティブな話でも。
どんな不思議な‘物語’でも、大人になれば、人生の比喩としてなんでもあり得るなと思うのです。

親にも先生にも、聞けなかったんですよ。
「裸の王様」の童話ってありますでしょう?
あの後、王様はどうなったのかしら?こどもはどうなったのかしら?大臣はどうなったのかしら?
誰も、酷いことにはならなかったかしら?

国を会社や家庭に置き換えたら。
意外と想像は難くなく。
裸だよ、と指摘されたととき、私たちが、もしも‘権威’を持っていたらどう対処するでしょうか?
権威者に対して、指摘をする‘こども’の親であれば、‘こども’に「でかしたっ!」とでも言うでしょうか?
大人たちは、どんな風に振舞うでしょうか?
大人の対処のひとつひとつで、本当のこの物語の結末は変わってしまうでしょう。
喜劇にも、悲劇にもなるでしょう。

「笑ってしまえ!」と思うのです。

王様が、「そうだよな」って笑えたら。
大臣が、「本当は知ってたんです」って笑えたら。
こどもの親が「あんたは間違ってないわよ」と笑えたら。
それは、喜劇にしかならなくて。

会社員時代に、営業をしてました。あるとき、営業のスタッフが物理的に半分に減らされました。そのうえ、お上の命令で、製品の自主回収が始まりました。業務量は、うなぎのぼり、そこここで過労による退職や、交通事故、そのためにチームの崩壊を聞くような危機的な状況に。
考えに考えて。
(こういう瞬間に、いわゆる私の‘固定観念’はぶっ壊れるらしく)

「笑ってしまえ!!!」

とにかく、笑い倒す事に。人の揚げ足をとっては、けたけたと笑い続けテンションを守り続け。ある意味、失礼極まりない人だったかもしれません。
結果、ひとりの退職者もチームから出ず。
取り返しのつかない、体調不良を起こした者も出ず。
他のチームや、支店長から「不謹慎」と言われたこともありますが、生残るほうが大事だったんです。

「笑い学会」というのがあるそうですね^^。
笑うことを含めて感情をがまんしないことで、免疫機能が賦活化するのは最近では良く知られてきましたよね。
どんなに思い詰めた状況でも、気分でも、あなたに最後に残る味方は、難しく考える事で答えがもうなければ、感情や感性という本来もっているものかもしれません。

カウンセリングの現場で、私たちがサポートさせていただくのは、なによりもあなたが「感じていること」を一緒に「感じること」なんです。
どうか、人生を悲劇でなく、喜劇に・・・。
そんなお手伝いを、これからもさせてもらえると嬉しいですね♪


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2009年2月10日

レッツトライ!~孫はなぜかわいいのか?~

昨年末に、孫が生まれた大門です。
かわいい!!とにかくかわいい♪
昔からよく、子供よりも孫の方がかわいいと聞いていましたが、これほどかわいいと感じるとは、思いませんでした。
しかし、自分が子供を産んだ時も、当然かわいいと感じていたのです。
そりゃもうかわいくて、自分が命をかけて産んだ子どもですから、かわいくないわけがない。
ではどうして、孫の方がかわいいと感じるのか?と、ちと考えてみました。

自分が子供を産んだ時は、先ほども書きましたが、命をかけて産んでます。
ものすごいリスクを負って、出産という一代イベントに望んでいるわけです。
10ヶ月間、様々な制約も受けました。
どうやって産み育てるのか?と、不安も乗り越えました。
言うなれば、大きな山を、数々の困難を乗り越えながらやっと頂上に辿り着いたようなものです。
頂上でプハーーーーッと生ビールを飲んだような状態!!
いつも飲んでいるビールと変わらないのに、なぜかおいしいと感じる。
それは、困難を乗り越えるというリスクを負ったからです。
だって、たくさんの困難を乗り越えた先のビールがまずかったら、やった甲斐がないじゃないですか。
ですから、困難の後のビールが、格別においしいと感じたいから、おいしいのです。
自分の想いが、いつもと変わらないビールを、おいしいと感じさせているわけです。

さて、孫の場合ですが、私はたいしたリスクは負っておりません。
めちゃくちゃ当たり前ですが、私が妊娠しているわけではないので、行動になんの制約も受けません。
産むということも、娘が出産するわけですから、私の身体にはなんのリスクもありません。
にも関わらず、リスクを負った子供の出産よりも、なぜ孫がかわいいと感じるのか?

一般的には、「責任がないから孫はかわいい」とよく言われています。
確かに、子供は産んでからが大変です。
「この子を幸せにしなきゃ」と思います。
子供を幸せにするのに、親としての責任が出てくるわけで、それがプレッシャーにもなると言われるわけです。
ところが孫ですと、育てるのは親ですから、ばーさんは責任を感じる必要がなく、その分プレッシャーもないので、単純にかわいいと感じる事ができるのだと言われていますね。

でもですよ、わたくし少し感じてみました。
「この子を幸せに」という想いは、ばーさんである私にもあるのです。
子どの時と同じように、やはり幸せになってもらいたいと思います。
そして、ここから先が子供と孫では、少々違うことに気付きました。

自分が親の立場の時は、「幸せにしなきゃ」と感じていたのですが、ばーさんの立場になると、「幸せにしたい」に変化しているのです。
これは、とっても大きな違いであります。

「幸せにしなきゃ」と感じているときは、「幸せにできなかったらどうしよう・・・」という怖れも隠れているわけで、その怖れから逃げるために、頑張って幸せにしようとします。
何かから追われている状態ですね。
追われている状態で、子供を見たら、確かにかわいいのですが、ゆっくりとかわいさを実感する余裕がありません。
ところが、ばーさんの立場ですと、「幸せにしたい」ですから、幸せに向かっていく状態なわけです。
何かに追われているわけではなく、ただ幸せに向かって進んでいる状態。
この状態で、孫を見ると、ゆっくりと余裕をブチかまして、かわいさを実感できる余裕があるのです。

「幸せに」という同じ目標に向かうのでも、追われるのか、向かっていくのかで、こうも違うのかと思ったのでした。
要するに、感じる側の心の持ちようなわけですね。
余裕があるのかどうかで、だいぶ違ってくるわけです。
みなさんも、「幸せ」を実感するなら、追われるのではなく、向かっていく余裕があると、より幸せを実感できるはずです。

私の場合も、二人の子供を育てた経験で、「幸せにする」というのは、恐れることではないと実感したから、余裕が生まれたわけです。
怖れから逃げるのではなく、超えていくことで、向かっていく余裕が生まれます。
レッツトライ!です。


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2009年2月 3日

遠くの親戚より近くの他人

先日、長年愛用の自転車がパンクしてしまいました。
私の住む家は遠いだけあって環境は良いのですが、
「ちょっとしたウォーキング!?」という位駅から
離れているので、時間のない朝の通勤時には「自転車が必須アイテム」なのです。

その愛車は実に2年半、毎日毎日私の足になってくれたのでした。
ある時は会社に間に合わない時に、ある時は駐輪場がいっぱいで止めれなかった時に、
駅前に放置され寂しく車に乗せられて とうとう、
遠くの埋め立て地へ。

過去2回もかわいい愛車を探しに行ったのでした。

かわいい愛車はホームセンターのオリジナルブランドの真っ赤な憎い奴です!

その、かわいい愛車がとうとう疲れてしまった様です。
疲れてしまった彼を治そうか手放そうか2日程、
朝の駅迄のウォーキングをしながら悩んだのですが、
流石に彼はかなりくたびれていたので新しい彼を探しに行く事にしました。

いつも彼がお腹すいた時にお腹いっぱい満たしてくれる
自転車屋さんに新しい彼を探しにいったのでした。

お店の方は過去何回、彼に新鮮な空気をいれてくれた事か。
買ったお店ではないのに、いつもいつも無料で奉仕して下さいました。
このご時世に「何も言わずに無料奉仕で。」
以前住んでいた所の自転車屋さんでは必ずお金はお支払いしていたのに。

何度かお世話になったお店の方に相談すると、
「うちなら、何かあればすぐ来て下さい。保証はします。」と。
お店の方は私の事を覚えてはいる筈!?ですが、いつも無料で空気をいれて
下さっていた事には触れませんでした。

心の中で本当に思いました。いつも有難うございます、と。

後日、これまでお世話になっていていたのがあり、新しい彼をゲットしましたが、
やっぱりフィーリングがあったのは「真っ赤な憎い奴」でした。

そして、持ち慣れた彼のサドルと違う感覚にやっと慣れてきた数日後…

周りも暗くなった帰宅時にお家のドアにメモの様な白い張り紙があったのです!

誰から!?なんかあったのか!?と よ?く よ?く 読んでみると、

「自転車パンク治しました。もう乗れると思います。午後15:00」と。

えぇ?!!!

なんと、家の管理をしている近くに住む「大家さん」でした。

かなりびっくりした出来事に早速、大家さんに連絡してみると
「用事で家の建物に行ったんやけど、自転車置き場見たら これパンクやなぁ?と
思って 治しといたよ。毎日乗ってるやろ? 
またなんかあったら、治したるから言っておいで?」と。

もちろん家は私だけが住んでいる訳ではなくて、ご家族で住んでいるお家や
他にもたくさんの方が住んでいるところなのですが…

本当に驚きでした。

いつも、ゴミの管理もして下さってる大家さんと
愛車ですれ違う時に見て下さってた様です。

大家さんにも感謝!!!感激!!!でした。


昔、まだ私が小さかった頃、親戚の集まりで
ある親戚が自分の家の分だけのおにぎりを持ってきて、
幼心に「私には、おにぎりがないの?」と悲しい思いをした出来事がありました。

「遠くの親戚より近くの他人」とはよく言ったものです。

ちゃんと、見て下さっている人は近くにもいるんですね。

自転車屋さんも大家さんもとっても温かく感じました。


そう言えば、近所のスーパーのバイトのお兄ちゃんも
お買い物袋ではない、バック一つで行くと「袋にいれましょか。」と
必ず無料のレジ袋をつけてくれます。

とっても温かい。


近くに、こんなに毎日感謝する人っていっぱい居るのですね。
「有難う」って一日に何度 言ってるんでしょうか。

「有難う」は、有るのが難しいと書いて「有難う」と書きます。

一生のうちに出会える、関わりのある人って何人いるのでしょうか。

一人でできる事には限界があります。

人は一人では生きてはいない。

つながりがあってこそなのです。

近くに差し伸べてくれる手はあるのです。

それに再び気づかせてくれた事に「有難う」と心から思いました。

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (1)