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2006年3月28日

●穏やかなこころ

穏やかなこころっていいですよね。
ゆったりとしていて、
さわやかで、のんびりして、気持ちよくて、

こころが穏やかなときは、
まわりにあるいろんな出来事や、
まわりにいるいろんな人を、
そのまま受け入れることができます。

穏やかなこころのとき、
僕たちは、あるがままでいられる。
そして、自分のあるがままの魅力を、
いちばん美しく輝かせられるんだと思うんです。

そして穏やかなときに、
幸せが近づいてきたり、
問題が解決できたりするんだろうって思うんです。


なので、
いつもそうありたいと願うんですけれど、
なかなかそうできないのも人間でして、

こころのなかに、
怒りが渦巻いていたり、
焦りがはびこっていたり、
不安が押しよせて来たり、

なんとか穏やかに戻さなきゃって、
怒らないように、焦らないように、不安にならないようにと、
頑張れば頑張るほど、僕たちは穏やかさをなくしてしまいます。

これでは、煮えたぎったなべに蓋をするのと同じで、
見た目はわからないけれど、手で触ったらやけどするし、
そのままほっておりたら、そのうち、ふきこぼれて、
大変なことになってしまいます。


カウンセリングでは、
こんな蓋の中の感情を、安全に出しきってしまうのです。
感情を感じきって無くしてしまおうと言うわけですね。

でも普段、そんな余裕がないときもあります。

たとえば想像してくださいね。
今日は友人との約束の日。
朝から、お化粧や洋服の準備やシャワーも髪の毛も、
いっぱい、やらなければいけないことだらけ。
少し寝坊したりなんかしたら、心はパニック状態ですよね。

そんな時、お父さんが、だんなが、子供たちが、
いつものように寝ぼけ眼で起きてきて、
「新聞取って来てくれないか〜〜」
「あたらしいコーヒー豆、どこだっけかな〜〜 お〜い」
「ママ〜 おねしょしちゃった〜〜」

鍋の蓋は、天井高くふっとんでしまいますよね(笑)
煮えたぎってますから、ハイ(笑)

時間がないときは、誰でもこうなってしまいます。
仕方ないことです。


また、日常感じ続けているケースもあります。

最近仕事が上手くいかなくて、焦っている時。
上司にいじめられて、心の中は怒り狂ってる時。
彼とうまくいかなくなって、不安がいっぱいの時。

蓋がふっとばなくても、僕たちは同じ様なパニック的な反応をしてしまいます。
こころが乱れてしまっているわけですから。
まわりの人や、仕事、家事、あらゆることを、
受け入れられなくなってしまいます。

こんな時僕たちは必ず、
焦りや怒りや不安などを感じるものが心にある事を非常に嫌い、
なんとかしようともがきます。
だけど結局、どうにもならなくて、
ますますその感情が膨張していく結果に陥ってしまうのです。

こんな時は、自分に起こっている原因をなんとかしようとするよりも、
自分の「心の穏やかさ」にこだわって見るのはどうでしょう?

私の心が穏やかになるには、どうしたら良いかを探すのです。

その方法とは・・・

焦っている気持ちを誰かに、聴いてもらうことも出来ます。
自分の穏やかさを取り戻すために、上司と向き合うことも出来ます。
彼に何をしてあげれば、自分の心が穏やかになるのか考える事もできます。

自分の気持ちを、煮立たせるものを何とかしようとするよりは、
自分の気持ちが穏やかになる方法を考えるのです。
穏やかなこころがどうすれば維持できるのか、こだわり続けて見るのです。


問題ばかりを必死に解決する事が、こころを穏やかにする事では無く、

穏やかなこころから、すべてがはじまるのです。


※吉原 直人は2007/6月でカウンセリングサービスを退会しました。

投稿者 csadmin : 12:00

2006年3月25日

◇心は繋がっているから。

小さい子どもに接していると目に見えない色んなことに出会います。
心理学として知識として知っている事も、改めて目の当たりにすることが多く、
子どもの方が親に教えてくれてるって感じます。
この2年間で何度それを味わったか数知れません。

もちろん、科学ではまだ説明できないことにもたくさん遭遇します。
子どもがあらぬ方向を向いてにっこりして、まるで誰かに話しかけるかのような
仕草をしているのも普通のことですし、何かの拍子に親が怒りの感情をぐっと
抑えると、それをそのまま引き受けたように大声で泣き出すこともありました。
見えないけれど心と心は確か印繋がっている!ってしみじみ感じます。

自分が経験するまでは興味本位だったものが、現実に目の前に展開されると
始めは驚き、そして慣れ、やがてはそれが当然のように感じられていきます。
そのことの心への収まり具合を見ると、心のどこかで、そのことを知っていた
ということなんでしょう。

そして、子どもは感情の塊ですから、自分がが子どもをどう扱っているか?は
そのまま、自分が自分の心をどう扱っているか?を表しています。

実は僕は自分の子どもが生まれるまで、子どもが苦手でどちらかというと怖い
存在でした。
心の内を見透かされるような怖さを感じていましたし、どう扱っていいのか
分からなくて不安で、泣かれたら困るから遠巻きに見てるような感じでした。
それに変に汚してしまうように感じていて、そんな自分に嫌悪感を持ちつつも、
作り笑いをして誤魔化したり、なるべく関わらないようにしてたんです。
かわいいなあ、と思っても、なかなか近づけず、遠くから眺めているだけで十分で、
かっこつけて分かっているような振りをしてたんです。
そんな存在が「子ども」でした。

はい。これがそのまま僕の「心(感情)」との付き合い方だったわけです。
自分で書きながら冷や汗が出てきますけどね。

カウンセリングをしていると色んな職業の方にお会いしますが、感情の扱い方に
長けた方は保母さんとか、看護師さんなど子どもに接する仕事の方が多いように
感じます。(もちろん「お母さん」という職業の方は感情の扱いもとても上手!)

一方、僕の出身である理系でコンピュータ関連の方は子どもも苦手だし、感情も
苦手という方が多いような・・・それで色んな問題を抱え込んでいるような・・・
そんな感じがするわけです。(こういうのは個人差があって、もちろん子どもが
苦手な看護師さんや、感情と上手に向き合えるSEさんがいることも事実ですよ)

で、うちの奥さんと「ドッグセラピーとかドルフィンセラピーとかあるじゃん?
キッズ・セラピーって名前で、感情が苦手な人に子どもの面倒見てもらったら
ものすごく癒されるんじゃない?」なんて話を冗談半分、でも、けっこう効果
あるかも、と思いながら話したりしました。

そして、子どもには目に見えないものでも、きちんと通じるものは通じています。
例えば、子どもを夜寝かし付けるとき、「寝かそう、寝かそう」とコントロール
しようと頑張っても無理なんですよね。
僕も時々奥さんに代わって子どもと一緒に寝たりするのですが、「仕事があるから
早く寝てくれー」なんて思いながら背中をトントンしてると、途端にぎゃー
ぎゃー泣かれたり、「パパがいる!」ってにこにこ遊び始めたりして逆効果。

僕の方が寝にてしまうくらい心を静かに、安らかにしてないといけません。
それはまるで子どもが隣にいることを忘れるくらいの要領で。
(子どもを寝付かせていたら、自分の方が先に寝てしまった経験のある親御さんも
少なくないのでは?それくらい心の“緩み”がないと寝てくれないんですよね)

うちの子は元気が良すぎてなかなか寝付いてくれず、また寝入った後も不安定で
すぐに起きたりします。
もちろん、ママやパパ(特に眠る時はママが重要みたいですね)が傍にいないと
不安で、一人になると不思議と気付いて泣きながら起き出したりします。

先日、ぐずりながらも渋々寝入った娘に「パパやママがすぐ傍にいなくても、
きみが一人になることはないからね。すぐに飛んでくるところにいるからね」
などと心の中で話しかけたら、その瞬間にスーッと寝息が深く、安らかに。
「ちゃんと通じてるんだ!ちゃんと分かってるんだ!」と嬉しくなりました。

でも、これは子どもだから顕著に分かるだけで大人だって同じ事かもしれません。
イメージを使ったセラピー(瞑想のようなもの)をするとき、こっちが緊張して
いたり、集中できずに他のことを考えていたりしたら、そのセッションはうまく
行きません。

特にリラクゼーションや感情の解放など、心を緩めるセッションの時には
お客さん以上にこちら側の心がゆるゆるになってないと全然効果が出ないん
ですよね。
だから、セラピーをするときには、僕の方も一緒に、いや、むしろ先行して
感情に入っていくことも多いんです。

時々鋭いお客さんから「根本さん、何か顔がふわっとしてますねー。前の方に
そんなカウンセリングされたんですか?」などと言われたりします。
「そう、その通り。ああ、バレてるんだなあ」と感じます。

確かにカウンセリングを終えた後に
「すごく疲れが取れたような気が・・・。もうこのまま眠ってしまいたいくらい」
とおっしゃって下さるとき、間違いなく僕もその気分を味わってますもの。

見えないところで人と人の心は繋がっているし、繋げられる。
そういう目で今近くにいる人を見てください。
どんな気持ちがするでしょうか?

それはあなたが思いを伝えたい人に対しても有効なはず。
あなたが疲れて癒されたいとき、静かに安らかなエネルギーを持った人に近付く
だけでいいかもしれません。自然にその人の心の状態があなたを和らげてくれる
はずだから。

繋がっている、そういう目で人に接すると、もっと楽に力を抜いて生きられるかも。
あるいは、そうせずにはいられなくなるかもしれませんね。

投稿者 csadmin : 12:00

2006年3月21日

●お受験

5年になる長男は3年生から某塾に通っています。以前から私の中には「中学、高校はどうしても私立」という強い意志がありました。
私は公立一貫、主人は中学から私立一貫。それでも私が私立にこだわり続けたのは、主人に勧められたからではなく私に学歴コンプレックスと経済的コンプレックスが強かったからだと思います。
そして現在の公立中学の在り方。

・昔のように5教科ではなく9教科重視だということ
・高校受験には内申書の占める割合が高いということ
・ゆとりの時間が多いこと

もちろん総合的人間性を養うには必要不可欠な内容かもしれません。でもあの頃の私には「大学受験に必要のない教科を勉強しても仕方がない。ゆとりの時間より必須教科の授業をした方がよい」としか思えなかったのです。
子供のためという大義名分のもと自分のこだわりにはまっていました。

某塾に行き始めた頃は週2回の授業。嫌がる長男を勉強する体制に整えるだけで時間が過ぎ、10分程で
「わからない、わからない、いやだー」と泣き叫び走り回って抵抗。
私も横に座り、ご機嫌をとりながら優しく教えますが3〜4回同じ内容を説明しても、理解してくれないと徐々に私のイライラが増していき
「さっき説明したでしょ!なんで何度言ってもわからないの!!やる気あるの!!」
「どうしてこんな簡単な問題がわからないの?小さい子でもわかるよ!!」
と大声を張り上げ、頭、顔を叩いたり、外に追い出したり。それでも長男は
「もう、やらない。いややー」と反抗を繰り返し、まるで戦争のように・・・・・

毎回毎回30分程度の勉強をさせるだけで疲労困憊状態でした。
私の中でどんどん罪悪感が増していくのを感じていました。
・・・・般若のような顔で手を挙げてしまう私、あれほど嫌がっているのに勉強させている私、ヒステリックに怒る私に怯える長男・・・・
心の中では好きなようにさせてやりたいと望んでいるのに、どうすることもできない出口の見えないトンネルに入っているようでした。

長男は少年サッカーチームに入り、週末はサッカー三昧。ヴィッセル神戸の練習場へも一人で出かけていくほどのサッカー好き。
「勉強しないならサッカーやめるか?」
「いやや、サッカーだけは絶対やめない」
主人とも男同士の約束をしたこともありました。

その後も全く上がらない成績。勉強しない長男との戦いの日々。「親の指導がなってないのでは」という身内からのプレッシャー。
そんな重みに耐えかねて私は限界にきていました。
受験まであと2年。私の方がまいってしまう。もういやだ・・・・

そんな時友人から別の塾を勧められ「塾を代えたら勉強するかもしれない」そんな希望と共に塾を代わることに。
しかし、2ヶ月もしない内にテストを無断で欠席したり、白紙の答案用紙を出してみたり。
反抗的な態度をとるようになってきました。
本人も私も追い詰められ、「もう限界」という時に担任の先生に呼び出され言われた言葉が
「このままでは他の生徒さんの足も引っ張りますし、本人さんにとっても何のメリットもないと思います」
一瞬張り詰めた糸が切れたように私は大泣きしてしまいました。
一体何のためにここまで中学受験に固執していたのだろう。。。
なぜ長男の気持ちを優先できないのだろう。。。
しばらくの間凍ったように身動きできなかったのを覚えています。

先生の言葉は私の固執した考え方を正すきっかけとなりました。
私の人生ではなく、あくまでも長男の人生。
その後主人と長男が話し合いをして「全く勉強をしないわけにもいかないだろう」という主人の希望もあり、結局元の塾に戻ることに。今考えてみれば塾を代えても、勉強そのものが嫌な長男が急にやる気をおこすはずもありません。

あれから1年。相変わらず公開テストは一切受けないので、同じ塾の友人に
「ももいー、テストぐらい受けろよー」
と忠告されているのを聞くと、親としてはとても複雑な気持ちになります。
「勉強は大嫌い。でも塾に行くのは好き。サッカーの友達がたくさんいるから。。。。」
と長男は言います。

親同士の間で中学受験の話になると不安になったり、夜3〜4時間テレビを見てゲラゲラ笑っていたり、夕方6時から朝まで寝てしまう長男を見ると「勉強しなさーい」とつい怒鳴ってしまうこともまだまだありますが・・・でも1年前の追い詰められた気持ちはとても楽になりました。

いつやる気になるのか、それが今年なのか、中学に入ってからなのか、高校に入ってからなのか、私にわかるはずもありません。
私にできることは、「勉強嫌い、サッカー好き、友達好き、」そんなありのままの姿を受け入れて認めてあげて、ただただ果てしない可能性を信じることだと思います・・・・

投稿者 csadmin : 12:00

2006年3月18日

◇”奇跡”を起こすには?

こんにちわ、成井です。

成井家の話題提供者は、いつも母親です。
時には「・・・それは誰に向けてしゃべってんの!?」と、
漏れ聞こえてくる話題が私に向けたものなのか?
はたまたとてもしっかりした独り言なのか?
の判断が微妙なラインで彼女のおしゃべりが繰り広げられます。
クイズ番組などでは、テレビに向かってまるで出演者の1人のように問題と苦
悩して、解答にリアクションして〜!と大忙しです(笑)

そんな成井家ですが、今話題の中での1番のトピックスは
「祖母の甲状腺に癌が見つかった」
ということです。
私の母にとって祖母は、自分の母親になるのですから、その心配ぶりも尋常で
はありません。
幸いにも今のところ良性で、頼れる甲状腺の専門医を見つけたようで手術も決
まり、まずは一安心な様子です。
祖母はもう86歳ですから、逆に今まで大きな病気もなく、曾孫までいるのはと
てもラッキーなことなのかも知れません。

最近、私の周りで”癌”というキーワードがよく出てきます。
それは、友達の親だったりとか、友達自身だったりとか、両親の友達だったり
とか・・・。
カウンセリングの中でも身内や本人の問題として扱うことの多いテーマです。
もちろん、私が大人になって、関わる人が増えたことや、自分も含め周りの人
達が癌を発症する可能性のある年齢に近づいてきたということがあるのでしょ
う。
しかし、カウンセラー的にちょっとこの出来事に意味をつけるとしたら、今何
かこのテーマから私自身が学ぶことがあり、そしてその気づきを多くの人に還
元するべき時期が来ているのかもしれません。

先ほど、祖母は86歳で、しかし今まで大きな病気もなく、曾孫までいる。とい
うことを「ラッキー」と呼びました。
私がカウンセリングの中で今回の癌というテーマを扱う時には、意識して使っ
ている訳ではないのですが、”奇跡”という言葉がキーワードのように出てき
ます。

突発的な形で問題が発生した際には(まぁ、多く問題とは晴天の霹靂のごとく
起こるのですが・・・)、私たちは希望を見失ってしまい、道に迷ってしまい
ます。
そして今の状況が絶望的に思えれば思えるほど、奇跡的な事を望みます。
しかし、同時に私たちは心のどこかで「奇跡なんてない!」「神様なんていな
い!」と信じている部分があったりしますので、その分葛藤がおき、また絶望
が深くなります。
問題が大きければ大きいほど、自分の存在の小ささが際立たされる感じもしま
すし、力の無さを思い知らされます。
「自分には何もできない・・・」と感じる無力感は、私たち誰にとっても耐え
難い感情です。私は1番苦手な感情です(涙)
そして、こうしたネガティブな感情かあると、今が苦しいだけでなく、この気
持ちが未来にも反映されますので、「この先何もよいことは起こらない」と更
に不安を駆り立て、絶望感が増す・・・。という悪循環が生まれやすくなって
しまいます。
「今が辛い」というのもしんどい状態ですが、過去や未来にその辛い感情が映
し出される状況ほど、身動きできなくなるものはありません。

だからこそ、そういうときにこそ、ぜひもう1度周りを見つめなおしてもらい
たいんです。
その奇跡は、もしかしたらあなたが今望んでいる形の奇跡ではないかもしれま
せん。
しかし、そこには必ず”奇跡”を見出すことができます。

私の祖母は、病気が発覚してからも「よりよいお医者さんを!」「より万全の
体制で手術してもらえる病院を!」と探しては問合せを続けたらしいです。と
っても気丈です。
そこには祖母の強さが見えます。

祖母も私と同じ現在は兵庫県の姫路に住んでいるのですが、つい2日前も定期
健診をかねて京都の病院に行って来たようです。
ついでに京都にいる曾孫と戯れてきたようで、母に見せられた写真にはご満悦
な笑顔が写っていました。
そこには私が昔から感心し続けている行動力と、そして楽しむ!ということに
対して妥協をしない素敵さがあります。

茶道の先生をしている祖母は、86歳になった今でも自宅を開放してお稽古をし
ています。
姿勢も、私なんかよりもよっぽどピシッとしています(笑)
今の私には自分が80歳越えてもカウンセラーをしているか?と思うと想像がで
きませんから、祖母の情熱の強さと、一過性ではない”本物”を感じさせてく
れる存在です。

「そんなことを奇跡とは呼ばない!」と言う人もいるでしょう。
しかし、癌という問題が起きた今、私には今までのいつもどおりの祖母の姿や
行動の中に、多くの祖母の偉大さが見えてきます。
そこには彼女の頑張りや強さが詰まっています。
そしてそれこそが、きらきらと輝く”奇跡”に見えるのです。
そう感じた時に、
「その彼女だからこそ、これからも奇跡を起こせる!!!」
ということを、疑いなく信じることができます。
すると、未来は希望に満ち溢れたものに感じられるのです。

”奇跡”とは特別大きなことではないのかもしれません。
本当は、自分のすぐそばにあり、それも人生を通じてたった1度や2度という
わけではなく、至る所で何度も起こり続けているものなのかもしれません。

今の自分の周りにごく自然とあるものの中にラッキーやミラクルを意味づける
事こそが、”奇跡”なのかもしれませんね。

成井 裕美のプロフィールへ>>>

投稿者 csadmin : 12:00

2006年3月14日

●さくら〜心の定点観測〜

ぼつぼつ桜便りが聞かれる季節です。
開花予報によると、今年は去年に比べて少し開花時期が早いようですね。
今年も綺麗な桜が見られるといいですね。

さて、僕は毎年どこかで満開の桜を目にしていますが、ここ何年かは、その時「来年はどこで、どんな自分がこの満開の桜を見ているのだろうか?」と思います。
お花見に行って満開の桜を楽しんでいるわけではありません。
ちょっとした通りすがりの公園で見かけたり、道ばたで咲いているのを見たり、といった感じです。

桜の花を見てそんな感情を抱くのは、思えば入学式や卒業式といった人生の節目、節目にはいつも桜があったからかもしれません。

小学校の入学式、今でも覚えているのは、ワクワクドキドキしながら、着物姿の母親と一緒に学校へ行ったことです。
僕はやんちゃ坊主というか、落ち着きがないというか、何かじっとしていられなくて、ぴょこぴょこジャンプしながら、そして母親にそれをたしなめられながら、学校に行きました。
学校に行く道には、大きな桜の樹があり、丁度桜が満開でした。
これから広がっていくであろう未知の世界、勉強や、新しい友達などに心を膨らませながら、新鮮さやすがすがしさを感じた事を覚えています。

中学校の入学式、やはり桜が満開でした。
中学生ぐらいになると、小学校の時のような新しい環境へのワクワクドキドキ感は既にありませんでしたが、何となく大人になった気分とともに新鮮さを感じたことを覚えています。そして、当時は随分と長く感じた小学校の6年間をやっと終わった満足感もあったような気がします。

その後、満開の桜を様々な状態で見ていますが、その中でも特に鮮明に憶えているのは、大学生の頃、両親と伊豆へ旅行に行ったときです。僕は当時、神奈川県に下宿していたんですが、自分の選んだ進路が本当にこれで良かったのかどうか、この専攻が合わないのではないかと疑問に思い続けていて、少し閉塞気味な感じを持っていました。そこで、心機一転、下宿先を移る事にし、その手伝いに両親が来てくれました。
引っ越しが終わって、両親とともに、車で伊豆半島を一周しました。
西伊豆の辺り、桜の花が満開で、綺麗な富士山がはっきりと見えたことを覚えています。
新しい下宿に移り、気分一新勉強するぞ!という意欲をみなぎらせていた時でした。

どうやら、記憶に残っている桜は、新鮮な自分を感じているときなのではないかと思います。

さて、去年は、大阪のとある公園で満開の桜をゆっくりと見ました。
休日の昼下がり、たまたまその公園の近くにいて、天気も良かったので、桜がきれいなその公園に行ってみようかな、という気分になったんです。
公園の中では、バーベキューを楽しんでいるグループ、赤ちゃんをバギーに乗せている若い夫婦、走り回る元気な子供達、ベンチに腰をおろしている老夫婦など、様々な人々が、様々な感じ方で桜の花を楽しんでいました。
僕も独り、ベンチに腰掛け、それら桜を楽しんでいる人々にとけこんで、満開の桜を楽しみました。
ほんのりとピンクの花びらもあれば、ちょっと濃い目のピンク色をした花びらもあります。花びら1枚1枚がそれぞれ微妙に個性を持っています。
それらがまとまって1本の桜の樹になり、全体の優しさや柔らかさを醸し出しています。
風が吹くと、ひらひらと花びらが宙を舞います。既に地面に落ちている花びらは、気まぐれな風に弄ばれつつ、地面を這い回ります。
それぞれ違う表情の桜は、しかし、ぞれぞれの美しさを持っていました。
僕はそれら美しい桜を見ながら、やっぱり「来年はどこで、どんな自分がこの満開の桜を見ているのだろうか?」と思いました。

さて、今年、僕はどこで、どんな自分が満開の桜を見ているのでしょうか?
そして、皆さんは、どこで、どんなご自分が満開の桜を見られるのでしょうか?

大谷常緑のプロフィールへ>>>

投稿者 csadmin : 12:00

2006年3月10日

◇友達ー親友ー真友

先日、後輩からある相談を受けました。

それは恋愛に関する相談だったのですが、そのなかで、彼女が私にこういった
んです。
「私、相談できるひと誰もいなくて。」
私が意外に感じました。
彼女は人付き合いもよく、誰とでも仲良くなれるような、すごく社交的な面を
持っています。
多少好き嫌いはありますけどね。
そんな彼女だったら、いくらでも周りに相談できるだろうと思ってたんです
よ。
しかし、本人は誰にも相談できず、やっとの思いで私のところにかけてきてた
んです。
その中で、私は彼女に話しました。
「どんなことでも安心して話せる、愚痴が言い合える友人を持つことって、大
切だよ。
例え自分がその人を友人だというのがおこがましいと思っていても、相手は君
のことを友人として付き合いたいと思っているひともたくさんいると私は思う
よ。」
彼女はそのことについて、その時は詳しくは語りませんでしたが、後日直接
あった時に、彼女が私にこういいました。
「あれから、何人かのひとに話してみたんだよね。
そしたら、カウンセリングみたいに応えを出してくれるわけじゃないんだけ
ど、みんな優しいんだよね。
ずっと言わないで抱え込んできたけど、本当にみんなから想われているんだ
なぁって、思った。」

そうなんですよね。
自分がつらくなった時、寂しくなった時、どうしても愚痴を言いたい時、黙っ
て聞いてくれる友人がいるって、すごく大切なことなんですよね。
そんな人がいるのといないのとでは、本当に人生が違いますからね。

また、あるクライアントさんも
「私には友達が少なくて、例えどんな友達であっても、失うのが怖いんですよ
ね。
そんな私が、たくさんの友人なんて作れるかどうか、正直言ってわかりませ
ん。」
と私に言っていました。

確かに、友達を作るというのは、人によっては意外と簡単かもしれませんが、
人によってはすごく難しく感じる部分なのかもしれません。
今はこのようなことをしている私ですが、私自身も昔は人見知りが激しく、友
人関係がそれほど豊かだったわけではありませんでした。
小学四年の時の写真に、遠足で独りで弁当を食べている写真が家にあったんで
す。
小学四年のクラスは、全体がとても仲の良いクラスで、いつも和気あいあいと
した楽しいクラスでもありました。
でも、私はその中で、一緒に楽しみながらも、クラスに溶け込みきれていない
自分を感じていたのかもしれません。
そのことが原因かどうかはわかりませんが、高校時代などは、自分から写真係
をかってでて、みんなを写真に収めることで、独りでいることを正当化しよう
とする時もありましたね。
私自身、友人関係で苦労をした分だけ、今友人関係で苦労をしている人の気持
ちがわかるのかもしれませんね。

これはあるスクールカウンセラーさんがいっていたことです。
「非行に走った少年を更生させても、また非行に走ってしまうことがあるのよ
ね。
それはその少年を取り巻く環境に問題があって、たとえ少年が更生しても、そ
の少年を相手にするのが、更生前の仲間ばかりだから、また非行の道に走って
しまうの。
よい友人関係を築くことって、たいせつよ。」

また、テレビで島田紳助がこんなことをいっていました。
「大切なのは、どこの学校に行くかやなくて、誰とその学校に行くかやねん
な。
そして、どこに行くかではなくて、誰と行くかが大事やねん。
ええ友達に恵まれることは、人生の中ですごく大切なことやで。」

この二人の言葉は、まさにその通りだと感じますね。
例え夫婦関係や親子関係が悪い家庭で育ったとしても、友人関係がいい子供
は、ちゃんと成長してくれます。
親と向き合えなかった分の全てではないでしょうが、そのほとんどを友人関係
で埋め合わせることが可能だからなのでしょうね。

そうすると、親が子にしてあげられることは、よい友人関係を築くことができ
るような環境を与えてあげることになるのではないかと感じます。
よい学校を出れば幸せになれるとか、親の言いつけを守ればいいとか、親が考
える幸せを子供にさせようとしてしまいますが、それが必ずしも子供にとって
の幸せになるわけではないでしょう。
それも大切なことではあるのでしょうが、それ以上に、友人との人間関係は、
社会の一員として生活していく上で、重要な位置づけになっていくのでしょう
ね。

ただ、そこには恐れもありますよね。
だまされたらどうしよう。
見捨てられたらどうしよう。
裏切られたらどうしよう。
恋人同士でも同じようなことを感じたりもしますが、友人関係でも、親しい友
人であればあるほど、全く同じことがおきたりするんですよね。
そして、傷つくことが怖い分だけ、友人関係を上手に築くことができなくなっ
てしまったりするんでしょうね。

私はいつも、カウンセリングでこのような話をしています。
普通の友人は「友達」
親しい友達は「親友」
かけがえのない友達は「真友」
この「真友」を作っていきましょうね、と。

私には運がいいことに、この「真友」がたくさんいます。
そして、私に何かがあった時にはこの「真友」達が私を助けてくれます。
もちろん、彼らも私に毎晩のように相談の電話をかけてくれます。
それは朝まで電話していたとしても全く苦にならない、どんな内容でも話して
いるだけで楽しい、私にとって大切な人達なんですよね。
それこそ、家族と同じくらい大切な存在でもあります。
そして、私にとっての最高の宝物でもあります。

最近では、私のクライアントさん達がそれぞれメール交換を初めて、すごく仲
のいい友人関係を築こうとしています。
私はそれを見て、すごく嬉しかったりもしますね。
そしてこのクライアントさん達も、今ではクライアントではなく「私の真友」
になっています。

そんな「真友」を、皆さんも持ってみませんか?


投稿者 csadmin : 11:45

2006年3月 7日

●ドールハウス〜〜完成品とプロセスを思う〜〜

 私は歩くのが好きで、特に目的も持たず、ふらふらと歩いていることがある。子供の頃痛めた脚を庇うと言うよりむしろ鍛える必要もあり、本当は1日に1時間やそこらは歩く時間を持ちたい。もちろん、体重の増加予防もちょっと念頭にある。いや、本当に、身体の負担がかかる脚に損傷があるものだから、普通に考えると躯体の歪みも心配だし・・・。なんて私が考えているはずもない。歩きたいから歩いている、ただそれだけ。なので時間もコースも実にまちまちである。主に自宅の近辺だが、我が家の近くは高低差のあるところが多く、意識して歩くとかなり良い鍛錬になると思う。しかも、坂を上り詰めるとご褒美のように視界が広がっている。時間によって見せてくれる景色は趣が全く違い、全然違う街のようにも感じられる。

 そんなことを思い、時には意気揚々と、時には(体力のない自分を情けなく思いながら)とぼとぼとした足取りで、そして必ずきょろきょろして私は歩いている。

 この近辺は人生のほとんどの時期を過ごした所で、子供の頃に読んだ小説の「日向が丘」はあそこじゃないか、と思っていたのは実は山の中腹のお寺だったり、昔住んでいたおうちの前の坂を下りながらお母さんやおばあちゃんと歌った「夕焼け小やけで日がくれて♪」に合わせるようにお寺の鐘が聞こえたり、カラスが飛んだり、街は茜色に染まっていたように思っていたけど、こんなに普通だったんだなあ、と思いながら、あの頃の自分の感覚をうらやましく思ってさえいる時もある。

 見慣れた街も、特に震災後がらっと趣が変わってしまって、しゃれた人口の小川に模した防火用水路ができていたり、狭かった路地がセットバックで下がりゆとりができていたり・・・でも子供の姿は少ないな、と思ったり。取りとめもなく頭の中によぎるものは、思考とも感覚ともつかない、感情もほとんど伴わない不思議なものだ。その状態でただきょろきょろしながら歩いていると、ただ目に入ってくるものが色々ある。先日もふと目に止まったものがあった。
 
 住宅街の一角に、ショーケースのあるお家がある。何かのお店かな、といつも余り気に止めずにいたのだが、この日は飾ってあるものに眼が吸い寄せられた。そこにあったのは数種類の精巧なドールハウスだった。道路に向けて並べてあって、昔見たアニメの・・・ハイジがフランクフルトに行った時の町並み、と言えば分かる方には分かるだろう。あんな風に整えて並べてある。良いもんだなあ・・・と思った。小さな家(実は祠だったりする・・・)には小人が住んでいると思っていたり、蔦が絡まる壁のお家の中を色々想像していた子供時代の私が、ひょっこり現れた気がした。

 あんなのを作ってみたいなあ。そして並べて、灯もともしたい。どんな人が住んでいるお家にしよう・・・。街灯も置いて、家に合う車もそれぞれのお家に置いて・・・。元々私は子供の頃から見ている絵の中で遊んでいたり、読んでいる本やピアノの練習曲から自分の中にイメージを創って楽しむ、と言う傾向の強い子供で、今思うと短くはなかったであろう幼い頃の入院生活を自分で潤していたんだと思うが、一瞬でその頃の感覚に入ってしまった。ところが、である。

    あれは作るの相当大変やで。
    大体どの部屋で作るん?
    費用も相当かかるな、あれは。
    きっと挫折するな、うん。

 作りたい、と言うのとこれらの声のどちらがエゴの声なのか、私には区別がつかない。まあ、実際に凝り性の私がこんなものに手を出したが最後、ガンダムマニアの同僚のことは笑えなくなるに決まっている。下手をすると生活に支障が出るに違いない。高校時代、受験勉強はおろか食事さえ忘れ1日に山ほどの本を読んでいた私である。誰も止めることはできまい・・・。

 そんなことがドールハウスを見たときにほとんど同時に頭の中に入ってきた。・・・一番感じたのは、自分の中と外、つまり実際に流れている時の流れの違いのようなものだろうか。いつの間にこんな風になったんだろう・・・。ここがただ感じることと思索との境にこの日はなった。

 まず、あのドールハウス。出来上がったものは美しいと思う。作ってみたいとか手に入れたい、と思ったりする。でも、今の私はドールハウスを仕上げるまでのプロセスを一瞬で想像し(想像力にはこんな使い方もあるのだ、と思う)、そして断念に至るまでわずか数秒。そして、もし手に入れるなら作るより買う、と言う手もあるな、誰かに作って貰うとか、などと考える。そして、何にせよ子供の頃や思春期の頃、欲しくても手が出せなかったもの、できなかったことを成長してから手に入れていることを思ってみた。時と場合によっては、手にしたとたんあの「魅惑的」なエネルギーが消え去りただの物と化することもある。簡単に手に入れた物はそう言うことが多かった気がする。昔から音楽好きな私は相当数の音楽ソフトを持っているが、自分で働いたお金で買えるようになったもののうちで手放すこともなく増え続けている数少ないものだ。他の物は、誰かにあげたり、傷んでしまったり、引越しの際に捨てたり・・・と増え続けることはあまりない。でも音楽だけは違うな。

 若い頃に流行っていたものが今になると付加価値がついていたりする。特にLPレコードなどは(分かります?)私は聴く事が目的で買っていたが、友人は帯封もつけたままにして中古ショップに高値で引き取ってもらったりしていた。そしてそれをいわゆるマニアがまた購入して行く。私にはその心理が今もって解らないのだ。

 どこかで出来合いの物、と言う気がするからである。あのドールハウスにしてもそうだ。一番の価値を見ているのはおそらく製作者自身だろう。でもあれを作りたい、より、手に入れたい、と思う人が既製品として手に入れる。あるいはアンティークの物。代々大切にしていたものをアンティークと言われたくない、と言う気持ちが私には解る気がする。そこには大切な想い出や、景色や、そう、小さな傷痕にさえも色んな想いがこもっているから値段などつけられないに違いない。

 物に限らず、同じ様に感じることがある。たとえば大切にしてきた仕事や作品。アイデア。人間関係。製品として店に並んでいるものにはきっとたくさんの思いが込められているに違いない。これは他の形になるようなならないようなものでも同じだろう。こつこつと想いをこめて作り上げてきたものが日の目を見るのは確かに嬉しいことだと思う。でも、どこかに「ショートカット」されたような寂しさを私は感じたりもする。みんなが同じ様に使えたり見ることができたり、それは素晴らしいことだと思う。でも、そんな中に、人が込めてきた想いをいつまでも感じられるような感性を忘れないで生き続けたいと私は自分自身に願っている。

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投稿者 csadmin : 12:00

2006年3月 4日

◇恐れと思考のカンケイ

ボランティアカウンセラーをしている友達から先日メールが届きました。
「ひろみちゃんはプロカウンセラーになる恐れはなかったの?」
ここ数ヶ月間は自分にとって恐れがテーマだったので、カキーンと
ヒットしました。
怖がり屋さんの私にとって沸き起こる恐れとどう向き合ったらいいのか、
ああでもない、ここでもないと格闘していたからです。
なんだか身動きがとれない状態が続いていました。

物事が悪い方向に行くかもしれないと感じる恐れはよく知られていますが、
成功したり幸せになったり良い方向に行くときも人は無意識的に
恐れを持つもののようです。
人の心は複雑ですね。

そういえばあの当時、恐れって感じていたのかな?
最近数日前の出来事をコロリと忘れてしまう頭をひねって記憶を
たどってみました。

よく成功に関する本には、夢を実現するにはそうなっている映像を
できるだけリアルに繰り返しイメージし、心に焼き付けることが大切だと
書いてありますよね。
スポーツの世界ではメンタルトレーニングとして用いられています。
私は視覚よりも感覚のほうが得意なのか映像こそは描きませんでしたが、
子供の頃に“明日遠足のときに晴れたらいいな!”とただ単純に
ウキウキしていように“プロカウンセラーになれたらいいな!”
という気持ちを持っていたように思います。

プロになれないのではないかとか、いつになったらプロになれるのだろうと
心配していたことがあまり記憶にないんですよね。
持っていたのかもしれませんが、過ぎてしまえば忘れるぐらいの
小さなものだったのでしょう。

私は福岡在住なので九州で初めてプロになるということは
結果的にカウンセリングサービスの九州地区の立ち上げという看板を
背負っていたらしいのですが、そういう認識が薄かったように思います。
メルマガにそういうニュアンスでプロとして名前を出していただいて、
読者数5000部の目に触れているのかと想像した途端にビビりだしましたもの
(笑)

では何を思って毎日を過ごしていたかというと、
電話を通じてクライアントさんと真剣に向き合うことだったり、
カウンセリングを継続させることだったり、心理学の勉強をしたり
とにかく目の前のことにひたすら一生懸命取り組んでいたように思います。
クライアントさんと共に日々精進という感じでした。

自信があるかないかなんて思わなかったし、
できるかできないかということも考えませんでした。
そういうものさしが心に存在しなかったので、思い煩うことがなかったんで
すね。
ちょっとした思考停止状態だったように思います。

恐れは誰でも持っている基本的な感情ですし、
何かの折にそれを感じてもOKだと思うのです。
動物が生きていく上での防衛本能でもありますもの。
でも、そこからあれこれ肉付けしてネガティブに考えはじめると
恐れが増幅してしまって動けなくなってしまうのかもしれません。
うまくできないんじゃないか・・
失敗するのではないか・・
人から嫌われるんじゃないか・・
ネガティブスパイラルの嵐の中にいつの間にか入ってしまいますよね。

怖れが強いと身も心も小さくなって縮こまってしまいます。
コチコチに張っていますから、物事がよい方向に流れている状態も
その流れをなかなか受け入れることができません。
恐れの鎧で身を固めているようなものですね。
もちろん心も体も緩んでいたほうが周りの状況も見えていろいろな情報も
キャッチしやすいですよね。

恐れを乗り越える方法はいくつかあると思います。
そのうちのひとつ、思考を止めて、目の前のできることを無心にやってみる。
恐れが小さいうちにアラジンのランプの中に入ってもらいましょう!

今回の友達のメールは、物事がスムーズに流れる感覚を忘れかけていた私に
思い出させてくれたようです。
自分を見つめなおす機会を受け取れたということは、
私の心は緩んでいたということにしておきましょ(笑)


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投稿者 csadmin : 11:31