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2003年1月28日

●素直になること

「いいです、いいです」と言うのが僕の口癖だった頃だったころがあります。
遠慮の言葉として「いいです、いいです」という言葉をよく使っていました。

例えば、夏の暑いとき汗だくになって友人の家に遊びに行った時、
「咽が乾いたでしょ、なにか飲む?」と聞かれると
「いいです、いいです。」
と言って飲み物をいただくことを遠慮して断っているような感じです。
本当に咽が乾いていても遠慮して断っていました。

「ください」とか「欲しい」ってうまく言えなかったんですね。
この遠慮というのは、仕事、恋愛、プライベートいろんな場面ででていました。
遠慮することが癖になってしまっていたんですね。
僕の遠慮というものが癖のようになってしまったのは父親の死に大きく関係していました。

僕は8歳の時に大好きだった父親を病気で亡くしたんですね。
それは、小学校3年生に入ったばかりの時でした。
大好きだった父親を亡くし、子供ながらに死というものを理解したり、そのことで悲しい気持ちや、寂しい気持ちになったりしながら日常生活を送っていました。

父親の死は悲しく、寂しいものでしたがその気持ちをもちながら、乗り越えようとしながら小学校に通っていました。
小学学校にいくとお友達と一緒に遊んだり、仲良く話したりするので、
その悲しさや、寂しさはまぎれるのですが、時々友達の話の中にお父さんの話が出てくる時は、まぎらわせていた気もちが揺さぶられます。

「昨日、お父さんにキャンプに連れて行ってもらった。」

「お父さんの車で、九州のおばあちゃんところまで行ってきた。」

「日曜日はお父さんとキャッチボールするから遊べやんねん。」

こんな話を聞くとまぎらわせていた気持ちは大きく揺さぶられます。
そして、小学校では父親参観という行事があります。
この日も僕の心を揺さぶる日です。それは、お父さんが参観に来ていないことじゃなくて、参観が終わってからのことが僕の心を揺さぶります。
学校が終わると、お父さんと手をつないで帰るお友達をたくさんみます。
そうすると僕の気持ちはまた揺さぶられます。

子供の心理としてはお父さんと手をつないでお家にかえるお友達をみた時、「いいなー」「うらやましいな」とは思わないんですね。
なぜならば、うらやましいなんて思ったら余りにつらくてやってられないからです。

お友達を見て僕はどういうふうに感じていたと思いますか?

僕が感じていたことは、
「いいもん、いらないもん、そんなの欲しくないもん」
と感じていました。

この時、心理的にはどんなことが起こっているかと言うと
自分の本当に欲しいものや、愛する人を「いらない」って我慢して、禁止するという抑圧的なパターンが作られていったんですね。

大人になってからもこのパターンというのは残っていきました。
本当に欲しいものや、愛する人があらわれた時、遠慮した、我慢したり、いらないって言ってみたり、
「いいです、いいです」
の口癖もそのパターンが表れたものでした。

僕はカウンセリングや、セラピーというものに出会ってこのパターンに気づき、
昔、欲しいものを、愛する人を「いいもん、いらないもん、そんなの欲しくないもん」って我慢した自分、禁止した子供時代の自分を癒していくことに取り組みました。
大人になっても、心の中は「いいもん、いらないもん」って言っている子供から変わっていなかったんですね。
そして、「欲しいものは欲しい、好きなものは好き」と言える自分になれるようにしていきました。

でも、こんなことみんなやっちゃうんですよね。
本当に欲しいものや、愛する人を「いらない」「嫌い」「欲しくない」って、自分に禁止して我慢してしまうことっていっぱいやっちゃいます。
そして本当に欲しいものや、愛する人を、まるでつまらないもののように扱ってしまったりしてしまいます。

そして、僕たちの心の中は禁止だらけになってしまいます。
失恋した時に傷ついた時自分は幸せになれないんだと思い幸せということを禁止したり、無条件で自分を愛されることをあきらめていたり、お父さんとお母さんが仲が悪いという姿を見て育ってきたのでやさしい家族は自分には手にはいらないんだ無理だと諦めて禁止している自分がいたり、助けてもらいたい時に助けてもらえかった人は助けてもらうことをあきらめて禁止したり
いっぱい禁止しちゃいます。

でも、本当に欲しいものや愛する人を
「いいもん、いらないもん、欲しくないもん」って言ったり、
好きなものを嫌いって言ちゃったり、つまらないものを扱うようにしてしまったり
しても幸せは手に入らないんじゃないかなと思います。

「俺、この仕事したい。」
「私、こんな人生おくりたい。」
「私、この人と幸せになりたい。」

欲しいものをほしい、好きなものを好きって素直に言えるということって幸せになるために大切なんじゃないかなと思います。
   
原 裕輝

投稿者 csadmin : 01:21

2003年1月24日

◇心の扉

 エクササイズに”話し掛け”を用いたのにはワケがあります。
 それは、私が最近毎日やっていることだから。
 なぜかリラックスできたり、ささくれた気持ちがス〜となる、
 そんな効果があります。

 きっかけは「胎教」。
 おなかの赤ちゃんに話し掛けているんですが、
 いつのまにか、自分に話し掛けているような感覚になってしまう。
 これでは、意味がないのかもしれませんが、
 思わず与えられたプレゼントでした。

 ”自分を大切にする”言葉にするのは簡単でも、
 いざ実践となると、なかなか難しいものです。
 甘やかす事と、錯覚もしてしまいがち。
 欲求を満たす事と混同もしてしまいがち。

 子宮の中にも届くように大きめの声で、
 はきはきと短い言葉を気持ちをこめて言う。
 適度な刺激”音”は、脳の発達を促すんだそうです。
 そしてコミュニケーションは絆を深めてくれる。
 でも、なにもお腹に子供がいなくても、
 これはやっていいんじゃないか、ふとそう思ったわけです。

 私たちのハートは、内側からしか開かないようになっています。
 もちろんたくさんのやさしさや愛情を、
 誰かからもらって、心を開く、ということはあっても、
 あくまで”自分で”開くんですね。
 そして、一番開きやすいのが、
 誰かを愛そうとするとき。
 
 赤ちゃんに向かって話し掛けている言葉が、
 私自身の気持ちを落ち着かせてくれるのは、
 この作用がとても効いているからのようです。
 あなたの中にも、声をかけてもらいたくて待っている誰かが、
 必ずいます。

 by 源河はるみ

投稿者 csadmin : 01:20

2003年1月21日

●みんな一緒

私の親しい友人の”甥っ子”に、多動症(注意欠陥多動症候群/障害とか、ADHDとか言います)の子がいます。
なんでも普通の保育園に通う事ができないらしい。
じっとしていることが出来なくて、ひとりで家を飛び出しては誰かに連れられてくる・・・なんてこともしょっちゅうあるそうで。。。
親や、身内であるその友人は慣れてはいるものの、それはそれは大変そうです。
うちにも遊びにきましたが、ほんとにじっとしていない・・・
そのことに感心していると、これでおとなしいほうだと言う。

でも、よくよく聞いていると、昔子供の頃遊んでいた従兄弟はみんな、この”甥っ子”と同じだったし、
主人に話すと、「俺もまったく同じだった」と言う。

つい最近、主人の実家におよばれに行ったとき、遊びに来ていた義父の弟親子と子供の頃の話に花が咲きました。
父親の世代は、親を早くに亡くし、たくさんいる兄弟同士で支えあって生きてきたんだという。
主人とその妹さんの話になったとき、その義父が一言、
「コイツ(主人)は、ほんまに悪いヤツやった・・・」
ほろ酔い加減の、なんとも言えない”間”があった後、やっと「なんでやねん!」と主人のツッコミが入りました。
本当に悪い子ちゃんだったらしい・・・

一昔前は「悪い子ちゃん」、それが今では「多動症」。
知識のなさとも、無教養ともとれますが、同じひとつの物事も時間が経つにつれて捉え方が変わっていくんだということを目の当りにしました。
こんなこと、数え出したらきりがないほどたくさんありますが、ふと違和感も感じたんですね。
そういえば、私も子供の頃、越した先の田舎で”アトピー”だったんですが理解してもらえず、ただただ気持ち悪がられて嫌な思いをしたものでした。
親が、新聞で「これはアトピーなんだ」と気付いたそうですが、世間に認知されるまでには時間が必要ですよね。

様々な研究がなされ、報告され、対応されるために役立てられているんだろうとは思います。
多動症も、大人になるにつれて症状は軽減し、ほとんどが普通に社会に適応できていくらしいのですが、はてこの先、こんな”症状名”がどれほど増えていくんだろう?と疑問に思うこともあります。

どうしてこんなことが気になりだしたのか?というと、ご相談くださる方の中には多く、「私、○○症だと言われたんですが・・・」とか、「鬱なんですが、治りますか?」というご質問を寄せてくださるのはもとより、
知人がある書籍を読んで「私、どう考えてもADD(注意欠陥障害)やねん」 と言い出すのを聞いて、
「あぁ〜、みんな多かれ少なかれそうなのよぉ〜」と、思わず叫びたくなったからです。
核家族社会になって久しいですが、どうしても正々堂々とそれでも社会の中に関わっていこうとするとき、その症状たちは、症状ではなくなるような気がしてなりません。
もちろん、そうできないから苦しいし、ひとりで悩んでしまう・・・なんて悪循環な社会を作ってきたのかしらと落胆もしてしまう。
関わりが少ないから不安になる材料は増え、「な〜んだお宅もそうなの?」と思えるだけで救われる気持ちがどれほど多く存在しているか知れません。

主人は言います。「俺の周りはみんなそんな(多動な)ヤツばっかりやった」
少し違っていたり、変わっていたりすることを隠すのではなく、逆に思いっきり出そうとすることで、
身内に驚かれるぐらいたくさんの友人に囲まれていたり、楽しく過ごすことができたりするのかもしれない。
”フォレストガンプ”や、最近見た”アイ・アム・サム”(IQが7歳児の知的障害の父と、それを追い越して成長してく娘のお話し)の中には、そんなことが語られているような気がしました。

”みんな一緒”共通しているところを見つけ出す事は、そんなに難しいことではありません。
”あなたらしさ”は、共通しているところを知らなければ、逆に見えてこないものなのかもしれませんね。
さんざん周りに「変」と、今も言われ続けている私ですが、”な〜んだ一緒やん!”これで気分はとっても楽になるものです。

源河はるみ

投稿者 csadmin : 01:19

2003年1月14日

●いのちと時間

 今朝も当たり前のように目がさめました。バルコニーから今日一番の陽射です。東の海の上、鉛色の空の隙間から少しずつ光が増えていくのを眺めていると、地球上で生きてるなって感じるんですよ、大げさなようだけど。太陽ってすごいなあ、とか、ぼーっと考えたりして。
 
 太陽が上がりきる前に、この街が崩壊したのは8年前のことです。もう8年、たった8年。かなり復興はしたものの、未だに空き地があったり、名残をとどめるような場所・建物も案外残っています。年の瀬には「ルミナリエ」というイルミネーションを使ったイベントで、犠牲者への鎮魂と復興を願うのですが、年々スタイルも変わってきているようでもあります。
 
 そう言えば、あの地震の前には毎朝当たり前に目を覚ましていました。そして、出勤前のあわただしさに追われ、朝日を見ようとも思わなかったな…。

 こんな話になると、一部の方に「まだそんなことを言っているの」と言われたことがあります。でも、来るはずの朝が来なかった経験は私たちだけではないのに、って思うんです。ある日突然大切な人を亡くしたり、事故に遭ったり、家や物が現状を留めていなかったり、と。それが命ほど大切ではないにしても、心の中にぽっかりと空いた穴はなかなか埋められるものではありません。大震災後、アル中が増えたというのも頷けます。こういった「喪失感」は、もしかしたら日常的に感じでいるのかもしれません。ただ、あまりにも日常的だと、「気づかないくらいの仲良し」みたいな感覚になるかもしれませんね。

 人生80年といわれて久しいですが(何と私は半分終わってる!)、人は一体どのくらいの数の人と出会い、別れていくのでしょう。その別れも、ただの通りすがり的なものから、永遠の別れ、愛しながらの別れ、巣立っていく人との別れ…自分の人生を彩ってくれるとともに、私たち自身もまた誰かの人生を彩っているんですよね。なーんてセンチメンタルになったのには理由があります。

 少し前、知り合いの子供さんが亡くなりました。中学生で、とてもかわいい子供さんでした。直前までとても元気だったのですが、不慮の事故により怪我を負い、手当ての甲斐なく亡くなったのです。三日間、様々な治療を施された彼がどれだけがんばっていたかは、棺にお花を添えるときにわかりました。筆舌には尽くしがたいんですが、高度の医療を伺わせる姿でした。
 
 正直言って、数日間とか数時間とかの延命に何の意味があるのか、当人は苦しいだけじゃないのかってそれまでは思っていましたが、彼の顔を見た時に「3日間生きていてくれて本当にありがとう!」って思えました。彼がこの3日間を生きることで、残された家族にたくさんのものを残していったことを感じたからです。彼の頑張りは、わずかに見えた顔に現れていました。
彼の学校の先生たちも交代で危篤状態の彼の近くにいて励まし、縁のあった方がたくさんお見舞いにきたのだそうです。ご両親・ご家族の苦しみ・悲しみは計り知れませんが、こう言った周囲に囲まれていた彼のことをとても誇りに感じておられるようでした。もちろん、生きていて元気な声、顔が一番なんですが、人間は助からない命の中でこんなに人は周りを愛せるんだな、と、、、そう思いました。
 
 彼は、天使の姿で家族や友達、大好きな先生、みんなを見守ってくれているに違いありません。人の心の中で生きるとは、こういうことなのかも知れませんね。
  
 こんなふうに考えると、人々の違った一面が見えるような気がしだしました。ニュースを見ても、この人のことを愛している誰か…両親、妻や夫、きょうだい、子供、恋人、友達、色んな愛に包まれていなかったのだろうか、それとも気づいてなかったのかな。彼・彼女を愛している人はいるのだろうか、だとしたらその人たちの思いは…。そんな風に以前にもまして考えるようになりました。
 
 奇麗事のように聞こえがちなんですが、愛を感じられたら無くなる犯罪は本当に多いんじゃないかと。まあ、おばちゃんのたわごとですけどね(笑)。なんせ思春期の息子どもと生活していると、心がささくれることも数知れず…(やつらも言ってるでしょうが)かわいいな、と思うこともあるし、このやろーと思うことも。でもこんな小憎らしい?うちの息子たちもほんとにかわいい天使の時代があったし、今だってそしてこれからも亡くなった彼のように周りを愛し愛される存在であることには変わりないんだな、と頭でわかっていることをまた感じる今日この頃です。こんな気持を誰もが持っていることを思い出したら、戦争や犯罪はほんまに減るんでしょうね。いや、つくづく感じます。

 ありきたりの朝の話からえらい話になってますが、とにかく、一人一人の想いが幸せや平和を創っていくもんなんやなあ、と改めて思ったのでした。


中村ともみ

投稿者 csadmin : 01:18

2003年1月10日

◇あなたの彼の愛し方は?

 最近、カップルでカウンセリングに来られる方がずいぶん増えました。
 僕らも二人でやっていますから、夫婦二組で色んな話をさせていただくのですが、
 色々と気付かされることもたくさんあります。
 
 ご相談内容も多岐に渡るんですが、皆さんが悩まれているのは
 “お互い一生懸命やっているのにうまくいかない”ということ。
 「ケンカしたいわけじゃないのにケンカしてしまう。」
 「セックスもしたいのに、いざとなるとその気になれない。」
 「浮気してるわけじゃないのに、すごく気になってしまう。」
 「仕事は一生懸命しているのに、私のことは愛してくれているように感じない」
 などなど。
 
 例えば、結婚や出産を境にご主人が前以上に仕事人間になってしまったというケース。
 奥さんは寂しくてしょうがないし、子育ても一人でやらなきゃいけなくてしんどい、と。
 ところがご主人は「家族を食わすために今まで以上に仕事に精を出さねば。やるぞ!」
 という気持ちでいっぱいで、そんな奥さんの嘆きを理解できなかったりします。
 
 一般的に男性は、結婚や出産を機に、今まで以上の稼ぎを得て家族に経済的な安心や
 自由を与えることで愛情を示そうとします。
 一方、女性の多くは一緒に居て、スキンシップがあったり、一緒に子育てをしたりする
 ところで愛情を感じます。
 そうすると、お互い一生懸命やってるのに愛情がすれ違ってしまうんですね。
 それで、不満を溜め込んでしまいケンカやセックスレス、果ては浮気、離婚という
 問題を作り出していきます。
 
 大人になると男性も女性も自立していきますから、自分なりの考え方ややり方があり、
 それを実行することを誠意や愛情として考えます。
 そして、相手もきっと自分と同じだろう、と都合のいい思い込みをしていたりします。
 仕事や家事などが忙しくて、相手のことを思いやる余裕がなくなってしまっている点も
 見逃せませんね。
 
 そうすると夫婦の間にある信頼関係や絆が、自分が思っている以上に脆いことに、
 問題が起きて初めて気付いたりもするんです。
 それで「うちは大丈夫だろうと思っていたのに・・・」なんて嘆いたりします。

 ここで、大切なのは「自分のやり方を手放して、二人の新しいやり方を創ろう」という
 意識なんですね。
 
 先ほどの例でも、お互いに自分にとって何が愛情で、相手に対してこういう風に
 愛情を表現しているつもりだ、ということを理解していたとしたら、
 あんまり大きな問題を必要とはしないだろうと思うんですね。
 (問題、ってのは、お互いの絆を深めるためのものだから)
 
 二人のやり方を築いていく一歩目が「相手の愛し方を学ぶ」ということ。
 「あ、そうか・・・。彼はこうして愛情を表現してくれるんだな・・・」と
 感じられるようになれば、余計な不安や疑いを持たなくても済みます。
 それには、相手の性格や態度、考え方、価値観などを知る必要もあるし、
 相手を研究する必要もあるでしょう。
 
 難しそうに思うでしょう?
 でも、この研究成果を活用すると、彼の愛情が感じられるだけでないんですね。
 彼から自分が欲しいものを色々と与えてもらえるようにもなってしまうんです。
 だって、その成果には「彼は誉められると弱い」といった嬉しい弱点もきっと
 入っているはずだから。
 たくさん誉めてあげることで、新しいコートくらいは手に入るかもしれませんね。
 
 お互い頑張って、素敵な関係を築いて行きましょうね。

 by 根本裕幸

投稿者 csadmin : 12:18

2003年1月 9日

◇「インディ・ジョーンズ・最後の聖戦」より

カウンセリングの時に、時々映画の話を例えとしてお話することが多いんですけど、
特にこの映画のラストシーンをお話することが多いので、改めてご紹介したいと
思いました。

インディ・ジョーンズ(ハリソン・フォード)とお父さんのジョーンズ博士
(ショーン・コネリー)のやり取りも面白くて、全体的にユーモアも
満載なんですけど、“最後の3つの試練”でハリソンフォードが聖杯を
手に入れに行くシーンが印象的なんです。

ヒトラーに睨まれつつも集めた聖杯の情報を元に最後の砦に入っていくんですね。
しかも、お父さんが銃で撃たれてしまって聖杯を手に入れなきゃ、お父さんを
失ってしまう状況になります。
その砦には3つのトラップが仕掛けられていて、先に到着したナチの関係者が
何人かチャレンジしましたが、皆、首を吹っ飛ばされてます。
しかも、その情報というのが曖昧で抽象的な古文書なんです。
「悔い改めて通れ」とか「神の言葉を話せ」とか「飛び込んで勇気を示せ」とか。
(記憶が曖昧なので、正確じゃないかもしれませんが、だいたい、そんな意味です)

一つ一つのトラップをその意味を解釈しながら乗り越えていくんですが、最後に
断崖絶壁が目の前に広がり、その向こう側に聖杯の並んでいる洞窟が見えている
ところに出ます。
落ちたら当然命はありません。
でも、ジャンプしても乗り越えられそうにない崖なんですね。

古文書から書き写した絵には空中を歩いている人の姿が描かれています。
そして「飛び込んで勇気を示せ」みたいなことが書いてあるんです。
でも、どこにも橋らしきものもないんですね。

元々聖杯を伝説として信じていなかったインディ・ジョーンズには、
最後の最後で「やっぱり聖杯は伝説上のもので実在しないのではないか?」
なんて思いもよぎったことでしょうか?

だから、どうしてもなかなかその一歩が踏み出せないわけです。

もしかしたら、どこかに隠しスイッチがあるのかも?と思って探して辺りを
見まわしてみても見つからないし、そんな一文は文書の中にはありません。

そして、迷った挙句、インディージョーンズはその古文書を信じて、
その崖の上から足を大きく一歩踏み出したんです。

すると、そこには無いはずの橋があったんです。

どういうことかというと、周りの景色にうまくカモフラージュされていて、
見た目にはそこに橋がかかってるなんて分からないんです。

僕が思い切り感動したシーンです。
(出来すぎといえば、出来すぎなストーリーですけどね)

ここまで書いてしまえば、何を言わんとしたいかは分かっていただけるかと
思うのですが・・・。

自分を信じる、そう、それに尽きるわけです。

もし、インディージョーンズが自分を疑ってしまっていたとしたら、
その断崖は乗り越えられません。
そうすると目的(聖杯を手に入れること=お父さんを助けること)は達成される
ことはないでしょう。

カウンセリングをしていて、その一つ一つのプロセスには必ずそんなシーンが
やってくることが多いんですね。
勇気を振り絞って何かにチャレンジしたり、決意することが必要になったり。

相手の気持ちを受け入れたり、誰かのために痛みを手放したり、恐れを乗り
越えて誰かに与えてみたり。

そして、その大きなチャレンジが、状況を一気に好転させたり、自分の気持ちを
大きく解放してくれる効果があるんです。

でも、なかなかそんな勇気ってもてません。
自分を信頼できなかったり、あまりに恐れが強すぎたり。

でも、インディジョーンズのように、目的を達成することを本当に望んだ時に
その勇気は得られるのかもしれません。

全てを失うかもしれない、でも、そうであっても手に入れたいものがある、と
思えたときにその勇気は得られるのでしょう。

これがコミットメントなんだろう、と思います。

僕自身も以前、そんな経験をしたことがあるんですよね。
全てを失うかもしれない、それでも欲しい、そう思った時に、恥もプライドも
外聞もほとんど気にならなくなりました。
だから、その問題は乗り越えられたんだろうと思いますね。

そうした経験があったので、安定した職業を手放して、不安定だけど魅力的な
今の仕事を選んだときも、全然悩みませんでした。

時々妻から「ほんま、恥知らずやねえ」なんて言われるんですけど、
それは褒め言葉のように受け取っているんですね。

それほど手に入れたいものがある、ということ自体が素晴らしいことなのかも
しれませんが、時に問題を乗り越えるには、そんな勇気を必要とすることも
少なくないのかもしれません。

そんな時ってのは、ほんと神様に試されているような感覚すらするから
素敵です(^^;

by 根本裕幸

投稿者 csadmin : 11:02

2003年1月 7日

●当たり前な存在

先日、新年ということで妻の実家に行った帰り、風邪気味の妻を置いて深夜のタクシーで家に戻りました。
(妻の実家からは車で15分程度の距離なんです)
タクシー通りまでの道はビル風もあってほんとに寒く、ついつい小走りになってしまいます。
寒さもあって、何かしんと心に染み入る寂しさを感じます。
ちょっと懐かしいような感覚。
そういえば、理加と付き合い始めたのも冬でした。
運良く信号待ちしている空車のタクシーが見つかったので背中を丸めつつ自宅まで連れて行ってもらうことになりました。

家にはショコラ(わんこ)が待っていて、僕が帰るときゅーきゅーと鳴きながら甘えてきます。
昼からずっと放置されていたわけで、ついつい罪悪感が刺激されます。
抱き上げて「遅くなってごめんな〜」と、しばらく遊んで、遅い夕食を彼女に与えながら僕はいつもどおりパソコンを開きました。
もう夜も2時に近いというのに眠たくなくて、いろんな方からのメールや相談コーナーなどを見ながら返事を書いたり、インターネットのニュースを見たりしながら過ごしていました。
ちょっとさびしいのでテレビを点けてみるけれど、何だか耳障りですぐに消してしまいます。

その頃ショコラは所在無げにお気に入りの座布団と僕の座っているリビングの椅子のあたりをうろうろしています。
いい加減眠らなきゃいけない時間になったので「風呂は明日でいいか・・・」と思いつつベッドに入りました。
でも、なかなか眠りに付けません。
本を読んだり寝返りを打ったりしている内に、気がつけば眠ってしまっていたようで、目を覚ますとすっかり時計はお昼を回っていました。

僕も風邪気味だったので、加湿器を強めしていたせいもあるんでしょう。
窓には結露がびっしりとついていました。
「寒いんやなあ」と結露をぬぐって空を見上げると真冬の空は高く、冷たそうな風の中を雲が飛んで行きます。
脱ぎっぱなしの靴下を拾い上げながらリビングに出るとショコラは早速ばたばたと甘えに来ます。
腰を振りながら見上げてくるその目にまたも心を奪われてしまい「遅なってごめんなー」と話しかけながら彼女に朝食を与えます。
ところが、いつも妻の座っている椅子のところで奴は粗相をしてしまいました。
まるで妻の不在を責めているように。

ボーっとした頭のまま「おれ、もしかしたら風邪かもなあ」と思いつつ、最近習慣付いている朝風呂(正確には昼風呂)に入りました。
なかなか気持ちよく、冷えた体にじーんとお湯の温かさが染み渡ります。
風呂から出てケータイを見ると友達から「2時から江坂でカラオケするけど来ぃへん?」とのメールが。
時計を見るともう2時になろうかというところ。
なんだか気だるいし、ショコラと一緒にいてあげなきゃな、と思い、そのありがたいお誘いは断ってしまいました。
申し訳ないなあ、と思いながらも、頭の中ではショコラを連れての散歩をイメージしつつ。
わんこ連れでも入れるカフェで食事がしたいと思ったんですけど、なかなか無いんですよね(衛生上は当たり前だけど)。
「あの店はどうかな・・・」と何件か思いつくところはあるけれど、何だか踏ん切りがつかずに、近所に新しいドッグカフェでも出来ていないかネットをサーチすることにしたんです。
でも、やっぱり近くでも車で行かなきゃいけないところにあるので、断念。

そうこうしているうちに妻が帰ってきました。
妻は二日ほど実家に泊まっていたのでショコラとしては、3日ぶりに見る妻の顔。
キャンキャンうれしそうに吠えながら、妻の周りをまとわりついています。
結局僕の朝食兼妻の昼食は出前で済ませることになりました。

その夜、妻と久しぶり(といっても二日ぶり)に同じベッドで寝たんですが、不思議なんですよね。
じんわりと居心地のよい安らぎが体に染み込んで来るんです。
ちょうど頭のてっぺんから、足に向けてゆっくりと、ふーっと息を付くように温かい安らかなものが流れて行くような感覚。
いつも妻に「ひろゆきはベッドに入って3秒で眠っちゃうんやから・・・」とぶうぶう言われますけど、それも仕方ないやん、と思うのはきっとこの安らぎのせい。
そうして、やはり気が付かないうちに眠ってしまったようでした。

仕事というのもあるけれど、僕の癖のようなもので、パソコンを開いて今もこうしてぱちぱちとキーを打っているわけですが、今日はソファにまだ風邪気味の妻が寝ていて、床のわんこ用のベッドにはショコラが眠っています。
テレビはずっと点けっぱなしになっていて、色んなCMや番組が流れています。
加湿器は先ほどから勢い良く水蒸気をあげていて、エアコンの音も激しく動いている様子。
ついこの前はテレビの音もうるさくて耳障りだったのに、今日はそんな音のすべてが何かほっとして安らいでいるように感じられるんですね。
それはもちろん僕の気持ちが安らいでいるからなんですけどね。

カウンセリングやセラピーでは「あなたはただ存在していることに意味があるんです。何をしなくてもあなたは役に立っているのです」という表現を使います。
なかなか自分自身には信じられないところもあるけれど、少なくとも僕はこの当たり前の状況の中でそれを改めて実感できたような気がします。

僕たちは失って初めてその存在の価値を知ることがあります。
僕も何度もそれを繰り返してきたけれど、こうした当たり前の日常の中に安らぎがあって、幸せがあり、愛する家族がいることに改めて感謝したい気持ちになりました。

根本裕幸

投稿者 csadmin : 11:50