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2002年6月25日

●スイート

「ハニー」とか、「シュガー」とか、よく洋楽や映画なんかでは、恋人や自分の”かわいこちゃん”のことを、
「ダーリン」と並んでこう呼んでいたりしますね。
”Sweet”、辞書で調べると、「諸感覚で”気持よい”が原義」と書いてあったりします。

実は、私のダンナはケーキ職人。お店を出してから今年で9年目になります。
もともと知り合ったのが、その前に務めていたケーキ&喫茶のお店で、独立してから一緒に甘いながらも厳しい商売を目の辺りにしてきました。
よく、友人にはこう言われます。

「え〜、いいなぁ。」
「夢のある仕事だよねぇ」
「毎日ケーキ食べるの?」

飽き性の私も、なぜか甘いものだけは飽きることなく食べていたりします。
でも商売柄、主人の作るケーキの”品評家”である私は、最近になって「おいしい」ケーキしか食べないことにしました。
ケーキにも”食べごろ”があるんです。
作りたてがおいしいのは言うまでもありませんが、ほどよく時間が経った方がおいしいケーキもあります。
お酒に漬け込んだドライフルーツを焼きこんだタルトなど。

普通、あまり食べ過ぎると「いけない」という意識が働いて、食べなかったりするのかもしれませんが、節制がききません。食べたい時には正直に食べたい、だけど食べればウルサイので、もっぱら主人が「あかん!」と言う始末。
食べるまではまるで、おねだりをする子供、そして食べればあーだこーだと文句を言うオカン(お母ちゃん)になってしまうわけです。

でも、本当は子供でもオカンでもなく”スイート”になりたいんですが・・・

結婚をしていたり、長年連れ添っていたりすると、パートナーとの関係は最初の甘い感覚なんかなくなって当たり前、だと思われがちです。
いろいろな面を知って、ときめきや新鮮さが失われていく・・・
でも、本当はそうではないことを、カウンセラーをしていると、これまた目の当りにするんですね。
友人の中には、おバカなほど、おアツイ夫婦がたくさんいます。ま、私たち夫婦も相当おバカなんですけどね。

苦い、辛い、すっぱいなどの味覚の中で、甘い、という感覚は、なぜか神経に浸透しやすいのだそうです。
疲れたときに甘いものを食べたくなるのは、身体の中で最も繊細な脳にとっての栄養が”糖”だからなんですね。即効性があるわけです。
食後にデザートを食べるのも、実は身体にとっては理にかなったものなんだそうです。

この『甘い』という感覚、対人関係で感じる事ができるのはパートナーとの間でなんですよね。
みなさんは、感じていますか?

辞書を見てもうひとつ発見があったんです。
”Sweet”には、「よい声の」とか、「思いやりのある」という意味もありました。甘い「香りの」という意味も。
まさに、諸感覚にとっての”気持ちよい”が盛りだくさんな言葉なんですね。
酔いしれる、とは少し違った感覚です。

私たち日本人は、あまり目と目を見詰め合ってお互いの愛を感じあう、ということをしませんね。
殺し文句も、落とすまでの武器になってしまいます。
”照れ屋”な民族、”恥ずかしがりやさん”であることが国民であることの必須条件、のようなところがあります。
それは、「気持ちよい」と感じる事に、どこかストイックなところがあるからかもしれません。
世の中には、それはそれは山ほど、この「気持ちよい」を感じることができるものが、たくさんあります。
温泉にマッサージ、エステもスポーツも、カラオケだってそこに含まれるかもしれませんね。
風俗もまたしかりです。
あらゆる「気持ちよい」が溢れるこの世の中で、最も身近で、最も手に入れるのが難しいと感じてしまう、パートナーとの関係で得る事のできる「気持ちよい」、私の夢は、この”スイート”をもっともっとたくさんの人に感じてもらうことなんです。

苦しい経験や、孤独や悲しみ、憎しみや嫉妬さえも、全ての痛みは、それらを乗り越えたところに、
この”スイート”を感じるためにあるような気さえしています。
離婚寸前まで激しく争っていたとしても、それでも愛を選択すれば、そこには想像以上の安らぎややさしさがあるからです。

ケーキ屋さんは夢のある仕事・・・
実際ほとんど力仕事、そう思えることの方が少ないのが事実なんですが、それでもケーキを作り続ける主人を見ていて、 いつも勇気付けられます。
家庭でも、友人とでも、職場ででももちろん、お見舞いに行く人も、お祝いに行く人も、誰もがみな誰かに「喜んでもらおう」という気持ちをもって、ケーキを持ち帰ってくれます。
その思いやりを、心の中で育てること、大切な人との間で育てること、そして、それを味わう、楽しめる、そんな生きる事の醍醐味をもっともっと、たくさんの人に知ってもらいたい、そんな気持ちでひとりひとりの方とお話しする仕事。
手段は違っていても、私たち夫婦の夢はひとつです。

もしも今、苦い思いをされているなら、ほんの少しの「スイート」を。
思いやりや、やさしさを、声で態度でその振る舞いで、誰かに伝えてください。
作り方は、私たちまで。豊富なレシピをご用意しています。

源河 はるみ

投稿者 csadmin : 10:43

2002年6月21日

◇歌

僕は、自分の気持ちが良くわからなくなった時、よく歌をきくことがあります。
特にメロディにのって伝わってくる歌詞の中に、自分がわからなくなってしまってしまった
気持ちを代弁している時があります。
悲しい気持ちの時は、悲しい気持ちを代弁してくれて、愛しい気持ちの時は愛しい気持ちを
代弁してくれていうときがあります。
自分のわからなくなっていた気持ちが、歌によってくっきりとわかった時、気持ちが
すっきりします。
みなさんも経験があるのでは、ないでしょうか?

落ち込んでしまた時や、イライラしている時は、やさしい気持ちや、愛しい気持ちを
思い出すこともあります。最近、自分の気持ちがわからなくったことがあり僕は、
自分探しの為に何枚も何枚もCDを書けて何十曲も歌を聴きました。
そして自分の本当の気持ちや心を思い出せたときて僕は癒された気持ちになれました。
歌っていいですね。

by 原裕輝

投稿者 csadmin : 10:41

2002年6月18日

●「自分の生き方」をするために

サッカーのW杯もとっても盛り上がっていますね。
僕も毎日試合を見たり、夜間のダイジェスト番組を見てわくわく・どきどきしてます。
素人目ながらも、素晴らしいプレーが続出してほんま感動します。
こういう世界の、本番のステージでこれだけの力を出せることはすごいよなあ、と感じざるを得ません。
ついこの間まで皆世界レベルのクラブで試合をこなしていて、その疲れを引きずったまま、あんなプレーを見せてくれるんですから、彼らの肉体的・精神的な強さと、自信と勇気はほんまにすごいですよね。
本当に多くのことを学ばせてくれます。

ともあれ、彼らの肉体美を見るにつけ、やっぱダイエットに本腰入れなきゃいけないかなぁ・・・、男としては、と我を省みることもしばし・・・(苦笑)

さて、試合後、監督や選手がインタビューを受けます。
そのとき、もっとも多い敗者の弁って何だと思いますか?
それは・・・「自分たちのサッカーができなかった」ということだと思うんです。
(正確に統計を取っているわけではないけど、たぶん間違いないでしょう)
逆に試合前の両チームのコメントもやはり「自分たちの試合をするだけ。結果は勝手についてくる」みたいなことを言います。

この「自分たちのサッカー」という表現。
これはスポーツ界ではよくありますね。マラソンでも「自分の走り」、野球でも「自分たちの野球」等々、要するに「自分たちの○○」の「○○」に自分の競技を入れたら、どのスポーツ選手もコメントするキーワードになります。

一流のアスリート達は必ず自分たちの特色を持っていますね。
サッカーに話を戻せば、守り中心で攻撃は主にカウンターに限るチームもあれば、逆に攻撃中心で2点取られたら3点取り返すのが身上のチームもあります。
それぞれの国やチームが監督を中心としてチームにベストな形を作り上げていくわけですが、それはその時々のメンバー構成や監督の趣向によって大きく変えられます。
そして、その全員で作り上げたシステムをもって試合に挑むわけですね。
このシステムをうまく機能させることが「自分たちの試合」になるのでしょう。
だから、勝負事である試合では、相手チームのシステムを崩し、自分のチームのシステムが有効に作用するように進められるわけです。

W杯への4年間というのは、そんな自分たちが一番勝利を引き寄せやすい形を作ることに集中します。そのためにメンバーを入れ替えたり、ポジションやシステム自体を変えてみたりします。
監督が変わればまた最初からシステムを組み直したりもします。

これは自分たちの生き方にも共通するんじゃないかな?と思ったんです。
「自分の生き方」。言いかえれば「自分らしい生き方」。
今のあなたはどのくらい実現できているでしょうか?

アスリート達が自分たちの試合をすればするほど、結果(勝利)は勝手に付いてきますし、もし試合に敗れたとしても、すがすがしい気持ちでピッチを後にしています。
そんな風に「自分の生き方」をしていればいるほど、結果(幸せや欲しいもの)が手に入り、それができない分、楽しみや自由を感じられなくなるのかもしれません。

僕たちの生活の中では色んなシガラミがありますね。
それが仕事だったり、経済的・時間的なことだったり、恋愛や対人関係での微妙な感情の動きだったり。

でも、それはサッカー選手でも同じこと。
自分たちの試合をするためには、各プレイヤーが自分のポジションに与えられた仕事をきっちりとこなす必要がありますし、ゲームには必ずしがらみとなるルールがあります。
その制約条件の下で、自分たちの、自分のスタイルを活かしていくことが求められるわけです。

だから、僕たちもその時々の自分たちのポジションに応じた活躍がきっとできるはずです。それは親として、パートナーとして、ビジネスマンとして、友人として、通りすがりの人として。その局面局面で何かできることがきっとあり、そして、そこで受け取れるものが何かあるはずです。

環境が変わればそれまでの生き方のいいところを活かしながら、新しいシステムを作ったり、そこに適応していくこともできますね。
常に環境って変化していますから、それにあわせて自分も変化していくことが求められます。

日本のサッカーもトルシエ監督に変わった頃には色んな物議をかもしました。
監督の考え方や方針についていけない選手は実力があっても選考に漏れてしまうこともありました。

でも、そこで自分の生き方や自分らしさを見失っていたり、新しい環境に適応できなかったとしていたら、そのことが「問題」となってしまいます。
そうすると「自分は何もできない」と思って自分を攻撃してしまうかもしれませんし、捻くれてその場を去ってしまうかもしれませんね。

カウンセラーとしての僕の元へはそんな問題を抱えていたり、自分自身の価値や生き方を見失ってしまった方がいらっしゃいます。その人にはその人なりの価値や魅力があるのに、問題があるときってそれがぜんぜん受け取れなくなってしまうんですね。だから、僕たちの仕事というのはその人なりの生き方を見つけていくお手伝いをするものなのかもしれません。サッカーのチームで言えば、コーチとかトレーナーみたいなものかな。

一方、カウンセラーの職業病みたいなものに「カウンセラーシンドローム」というものがあるんです。僕たちカウンセラーは色んな人を心の面からサポートしたい、助けたい、という気持ちからカウンセラーになるわけですから、仮に助けられない人が一人でも出たとしたら、ものすごく自分を責めてしまうわけです。100人の人に「ありがとうございました。本当に楽になりました!」と言われていたとしても、助けられない1人のために「ああ、自分はだめだ。カウンセラーには向いていない」と思い込んでしまうんですね。

これはカウンセラーとしてデビューして間もない頃にほとんど全員がかかるハシカみたいなもので、僕もかつてはここにはまり込んでいました。
そういう風に思っているときって「ありがとうございました」の言葉も気持ちもぜんぜん受け取れなくなってしまうんです。その言葉をいただいても「いや、でも、、、、」と助けられなかった一人が脳裏をよぎるわけです。

でも、それでも僕はカウンセリングが好きだったのでしょうね。
その助けられない一人を目標にさせていただきました。
今はまだ腕が無いけど、あんな人がまたきっと来てくれる。そのときには何とかできるように腕を磨いていこう、と。

そういう風に気持ちが変化したら、お客様の「ありがとう」の言葉が身にしみるくらい嬉しいし、自分に出来ること、足りないことがはっきりと見えてきたんです。
そして、そこから自分のスタイルが固まっていきました。
もちろん、今もそのスタイルを中心になるべく柔軟にできるようにカウンセリングの幅を広げ、深めていきたいと思っているのですが、ちょうどその時期にカウンセラーとして地に足がついたのかもしれませんね。指名してくださるお客様も増えて、自信をつけていくことができたんです。

皆さんが今、自分の生き方だけでなく、仕事や恋愛で自分を見失っているような感覚があったり、自分のスタイルが曖昧に感じたりするのであれば、受け取っていない何かがあるのかもしれません。僕が「ありがとうございました」を受け取れなかったように、それは「彼の気持ち」だったり、「部下や上司からの信頼」だったり、友人の存在だったりするかもしれません。
それが受け入れられたとき、きっとあなたにも今よりも自分が見えてくることでしょう。
まずは、あなたの周りを見回して、今受け取る必要のあるものを見つけてみるのはいかがでしょうか?

根本裕幸

投稿者 csadmin : 10:41

2002年6月11日

●自己愛

私が心理学に出会った頃というのは、”自己愛”というものから程遠い状態でした。
自己嫌悪が強く自分に自信を全然持てずにいました。
自分に自信がないので、人との付き合いで自分を表現できない私がいました。それはとても窮屈で、不自由な感じでした。「自分の殻を破りたい!でも破れない・・・」という葛藤がありました。
どうして私って自信がないのだろう・・?いつの間にか私の中に深く根付いていた”私はダメな子”という レッテルをどうやってはがせばいいのかわかりませんでした。

心理学を勉強していくうち私の”自己嫌悪”は親との問題からきていることがわかり出しました。
それがわかった頃は「もっと親が私に愛を一杯注いで、表現してくれたらこんなことにはならなかったのに!!」という怒りがありました。
が、さらに理解を進めていくと親には親の事情があって、それでもできる限り私を愛して育ててくれたことに気が付きました。
親に対しての理解、許しが進んでいく中で随分楽にはなりましたが、依然として私の中にはまだ自己嫌悪が残っていました。この次はどうすればいいんだろう・・?
そこから私のさらなる探求が続きました。

そして、とうとう気が付きました。

どんなに親が愛してくれようと、パートナーが愛してくれようと、それを頑なに拒んでいる自分がいたのです。
自分で自分を愛せない私がいました。自分で自分を愛せない分、周りの人に「もっと私を愛して!認めて!」と思っていたのでした。そして周りの人を自分を犠牲にしてでも愛する代わりに、私をもっと愛して頂戴と無意識的に思っていました。
でも、それではどんなに周囲の人が愛してくれようと、満たされないのです。

振り返ってみると、何をするにしても周りを優先していて自分のことを後回しにしている私がいました。それは、周りから愛されたいからでもあり、一般的に美徳とされているから、という感じでした。私にとって、自分を優先する、大切にするということは、傲慢になってしまう恐れがありました。
本当は全然別ものなのですが・・・。

それからは”自分を大切にしよう”と決めました。
自分を犠牲にして人を大切にするのではなく、自分も大切にしようと。

さて、今までしたことがないので一体どうしたらいいのか??と考えました。
私がまずやったことは、今自分がしたいことは何か?と自分に問うことでした。
例えば、自分の自由な時間がある時、今自分が飲みたい飲み物は何だろう?この時間で自分が楽しむには何をしてあげたらいいだろう?と日常で自分がより心地よく、楽しくなることを叶えてあげることでした。
もう一つは、自分が自分で貼ってしまっている数々のネガティヴなレッテルを外していくことをしました。それは、自分が作り出した思い込みなんだから、自分で変えていくことができるんですね。
自分を否定する気持ちが出てくる度に「あ、まただ。やめよう。」「私は変わりたい。自己否定をやめよう。」と自分に語りかけるんです。
それを繰り返していくうちに、自分への気持ちが徐々に変化していきました。
自分にやさしくすると、人にもよりやさしくできるんです。
人にやさしい自分って気分がいいですよね?こうして、良い循環の輪ができてきます。

私が思うのは、自分にやさしくすることで自分の中にある、温かい愛がこんこんと湧き出ている泉を見つけることができると思うんです。 それを見つけられた時、何とも言えない満たされた、安らぐような感覚がします。
始めは疑いがあってもかまわないんです。
もし、今自分が少し愛から離れた存在であったとしても、自分を愛して、愛情がたくさんある人として扱う事で本当にそうなれると思うんです。
今はただ、泉が見つけられなくて迷っているだけなのかもしれません。

自分を愛し始めると、周りの人達からの愛情も今まで以上に、より感じることができます。
もうむやみやたらと誰かに「愛を頂戴!」と思う必要がないので、人といてもリラックスできて楽しめるようになります。

皆さんは自分を大切にできていますか?
何でも自分の事は一番後回しということはありませんか?
自分を甘やかすのではなくて、本当の意味で大切に思えるようになる時、とっても楽で自由で、満たされている自分になることができます。

本当は自分を大切にすることこそが、あなたにとっても、周囲の人にとっても一番の贈り物だと思うんです。
自分にやさしくできたら、気分が良くなって心にゆとりができます。そして、体もより健康になるでしょう。
始めは「そんなこといっても、私にはムリ!」と余計に抵抗がでてくると思います。でも、そこでやめないで下さい。
”好転反応”という言葉がありますよね?良くなる前は一時、余計状態が悪くなったりするものです。

自分を愛し始めた時、あらゆる問題の糸がそこからほどけていくと、私は思うんです。
自分を愛することで、自分もそして周りの人とも、より幸せになっていきませんか?

根本理加

投稿者 csadmin : 10:40

2002年6月 7日

◇猫に学ぶ

「自分の状態がわからない時は猫を観察してごらん。教えてくれるよ。」
私は猫を飼っているのですが、同じように猫を飼っている友人にこんな事を
言われた事があります。
全く・・意味不明だな、と思いながらも、そうかもしれないな、と心の何処かで
感じたものです。
というのも、生活上もさながら、一喜一憂を共にしているからこそ、心情も似て
くるものなのかもしれないな、と思ったものです。

ある時、この猫は新しい技を覚えてしまった事があります。
これまで部屋の空気を入れるために出かける時でも20センチほど網戸だけにして
外出していたのですが、帰ってきたらその網戸が全開していました。
てっきり私は「!!泥棒??」過去の経験上思ったのですが、でもどう見ても
違うのです。
ああ〜これは猫の仕業だな、と。それまでは押入れを開けることはしていても、
このベランダに出る為の開ける行為なんて完全な家猫状態でしたからなかったのです。
それも臆病な猫でしたから・・。

でも、この猫がベランダに出て行くことというのは、きっと猫なりに何か新しい
世界に興味を持ってしまったということなのでしょう。そしてその興味が強く
なって外に飛び出したくなった。臆病を超えて、です。
これは私がいる時でも網戸だけにしているとがさがさしながら出て行こうと
しています。

その様子を横目で見ながら、ふと、自分のことと照らし合わせてみました。
確かにこれまでの生活を改め、新しい世界に踏み出そうとしている自分と
ピッタリしているんです。不思議です。

今もこれを書きながら猫を観察していると、のんびりと幅の狭い下駄箱の上で
横になって寝ています。足を投げ出して・・・。必ず寝るときは地べたでないと
寝なかったのに、これも今までやっていなかったことです。こないだはそのおかげで
寝ている最中にテレビの上から落ちてしまいました。
これって一体??
どこでもくつろげるスペースを持てる、っていうことなのでしょうか?
心の余裕というか、安心できる場所は何処でも作れる、きっと私にそういう部分が
現れてるのかも知れない・・そんなことを感じさせられました。

by 中野知枝

投稿者 csadmin : 10:39

2002年6月 4日

●バカンス

僕はたまに極端な行動をとることがあります。
それは、ダイエットを行ったあと、リバウンドで食べてしまうようなもの似ている
のかもしれません。

ゴールデンウィークの僕は働き詰めでした。
「う〜ん、なんでこんなに忙しいんだ?」と仕事を終えて家に帰ってきた僕はテレビのスイッチをつけました。
電源を入れたテレビにはゴールデンウィーク中バカンスを楽しむ人たちが映っていました。海外脱出組が映っていたり、田舎に帰省している人たちが映っていたりしていました。ブラウン管の中にいるバカンスを楽しむ人たちは、僕の目には、みんなウキャウキャ浮かれているようにみえました。
「え〜な、僕もバカンスしたいな」
「え〜な・・・・・」
「・・・・・・・え〜な、え〜な」
すっかり、窓こしのトランペットを眺める少年状態になっていました。

更にこの、窓こしのトランペットを眺める少年モードに追い討ちをかけたのが、エリート金融エクゼブティブのお話でした。
30歳半ばで年収○億円ほど稼ぐエリートの方のお話なんですが、こういう方は当然毎日が忙しいわけです。そして毎日金融の微妙な流れの変動に神経を尖らせています。毎日ピリピリと神経を張り詰めているのです。
こういう方の張り詰めた神経の休め方を聞いたのですが、有休を一ヶ月ほどとって南の島に旅行をするらしいです。そして南の島で一ヶ月なにをするかというと、ただただ、ボ〜っとするらしいです。
そう、なんとボ〜とする為だけに、なんにも無い南の島へお金と時間を払っていくのです。それくらいしないと体がもたないそうです。

 この話を聞いた僕は、窓こしのトランペットを眺める少年モードどころか、
窓に顔面をくっつけてヨダレを垂れ流しながらトランペットを眺める少年モードになっていました。
海外旅行の本を買ってきたり、インターネットで南の島をしらべたりという禁断症状が毎日でるしまつ。

もうこうなればおさまりがつきません、海外に休みにいくことに決めました。
今まで頑張ってきたから自分へのご褒美と自分に言い聞かせて思い切って長期休暇も取る事にしました。
一ヶ月の長期休暇
・・・・・・・・・・・と言いたいところですが、時間的にも、お金的にも、お仕事的にもそれは難しいので1週間休みをとって、海外旅行にいくことに決めました。
 
そう決めたのはいいのですが、僕は海外旅行に行ったことがないので、一人で行くのは、ちょっと不安。海外旅行の予約は?保険は?福沢諭吉はどこでドルとかペソとかウォンに変えたらいいの?ホテルの予約は?謎だらけで一人悩んでいました。
そこで友達を誘うことにしました。仲のいい友達に、「海外行きません?」と声をかけると、即座に「OK」の一言が返ってきました。
僕はその友人に
「すいません、僕海外旅行とかいったことがないんでいろいろ教えてください。」
というと友人は、にこっと笑ってくれて、親指を胸の前で立てて"グー"のポーズをとって、
「俺もいったことがない」

一人で悩むのから、二人で悩むことになりました。
二人で考えた海外旅行の行き先の第一候補は、タイのプーケット、バンコク。
プーケットには、ダイビングの先生をしている二人の共通の友人がいるで、その友人に観光案内をしてもらおうという考えでタイ周辺を旅行先候補にして
旅行雑誌で行き先を調べていました。

雑誌を見ながら、遺跡巡りに行って、像さんに乗って、象さんに乗ったまま遺跡巡りもいいな〜(たぶん、そんなことはさせてくれないと思いますが)、バナナボートにものりたい、ダイビングもしたい、と浮かれていて、すっかり魂はパスポートも持たずにタイランドに飛んでいました。
1時間ほど旅行雑誌をみていて、あることに気づきました。
・・・
・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あっ、休みに行くの忘れてた。」

当初の休みを取りに南の島に行くという目的をすっかり忘れていました。

かくして、二人は街観光がいっぱいできるプーケット、バンコクよりも、
綺麗な海と自然がいっぱいのランカウイ島に7月頃休みを取って、のんびり、ボーと、ボケーと過ごす為に南の島に行くことになりました。
海を見ながらボーとするだけある意味、贅沢な自分へのご褒美ですね。

たまには、自分にボーする時間を与えてあげる、休みを与えてあげる、心と体を癒す時間を取ることも明日への活力に為に大事なんじゃないかなと思います。

原 裕輝

投稿者 csadmin : 10:38