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2017年5月30日

スマホとゲームに思う事

1年くらい前に、ここのコラムで「スマホ、持ってますか?」という記事を書かせてもらいました。
当時私はスマホを持っていなくて、「別にまだ必要ないよ」とやや敬遠していたのですが、最近になってようやくスマホを購入することになりました。

いざ手にしてみると、いやはや、さすがに便利と言わざるを得ないですね。
画面もガラケーより大きくて見やすいですし、写真などもびっくりするぐらいキレイです。
気になるニュースや分からない言葉なども、その場ですぐに調べる事ができますね。

特に便利だと感じるのは地図の機能で、出かけ先で自由に地図が開けるばかりでなく、ご丁寧に現在地まで表示してくれます。
少し前まで、知らない場所に行くときは事前に地図を調べて、分かりやすいメモなどを取ってから出発していたのがウソのようです。
しかも、そんな便利な機能がカーナビなどを購入するまでもなく、当たり前のように標準装備されているのですから、驚きです。


「なるほど、これはみんなが買うわけだな」と感心しながら、しばらくは楽しいスマホライフを送っていたのですが・・・、
しばらく経つと、あまりの便利さに、なんだか心配になってきました。

「こんなに便利なものを手にしてしまったら、スマホ無しでは出かけられなくなるんじゃないか」
「なんでもすぐにその場で調べられたら、自分で考える事をしなくなって、ボケてしまうのでは・・・」
素直に便利さに感心していればよいものを、ついつい余計な事まで考え出してしまうのでした。


そして、余計な心配がさらに広がってしまうのが、2歳になる妹の子供を見た時です。
なんと、2歳児にもかかわらず、妹のスマホを上手に使いこなしているではありませんか!
多分、生まれた時からスマホが身近にあったのでしょう。私よりも、スマホ歴は長い事になります。
自分で上手に画面を操作して、「ちょんちょん」とか「スッスッ」とやって、お気に入りのアンパンマンの動画などを勝手に見ているではありませんか。

私は驚愕しました。
「このままでは、人類はスマホに支配されてしまうのでは・・・」
そんなバカな事まで頭をよぎりそうになりましたが、その時ふと、急に思い出した事がありました。


***


私が子供の頃、「ファミコン」が大流行し、世間を賑わせました。
当時はテレビゲームという娯楽はまだ浸透していませんでしたが、「ファミコン」の登場により一大ムーブメントとなり、子供たちがこぞって親にテレビゲームをねだるという現象が起きました。覚えている方も多いのではないでしょうか。
私もゲームを持っている友達の家にみんなで集まったり、ようやく買ってもらえた時には夢中になって遊んだものでした。


そんな当時、世間でしばしば耳にする言葉に、「ゲームをやると、バカになる」というようなものがありました。
「バカになる」くらいならまだいいのですが、ひどいのになると「脳が委縮して、死んでしまう」とか、「感情の無い、殺人マシーンになってしまう」とか、だいぶ話が飛躍したものも少なからずありました。

今でこそスマホのゲームなどが普及し、女性や年配の方もゲームに触れる機会が増えたためか、「ゲームをやるとバカになる」なんていう言葉もめっきり聞かなくなりましたが、当時は結構そんな言葉が飛び交っており、子供にゲームを買い与えたくないという人も多くいたようでした。

影響を受ける、という意味では、テレビ番組や映画などからも影響は受けるはずなのですが、「ホラー映画を見ると殺人鬼になる」とか、「コメディ番組を見るとアホになる」というような言葉はあまり流行っていなかったように思います。
それと比べると、「ゲームをやるとバカになる」という言葉は、結構な割合で支持を得ていて、深刻に考えている人も多い様子でした。

幼い頃の私はそんな言葉を聞くたびに、「ゲームをやったぐらいで、殺人マシーンになるわけないよ。大人はバカだなぁ」と思っていたのですが・・・


今にして思えば、当時の人達の心配も、分からないでもありません。
人間は誰しも、自分の知っているものを安心と思い、知らないものを不安と思う心理があります。
自分達が子供時代にセミ取りや人形遊びで育ったら、子供たちにも同じように育っていってほしいと思う心理は当然のものです。

そんな時に、「テレビゲーム」という未知の娯楽に熱中している子供たちを見たら、「これは良くない事なのではないか」「このままではテレビゲームに支配されてしまうのではないか」と思うのも無理はありません。

ゲームなんていう、よく分からないもので遊ばないでほしい。もっと自分たちの知っているもので遊んでほしい。
なんだか、見ていて不安になる。でも、無理やりやめさせる訳にもいかないし・・・。
「ゲームをやると、バカになる」という言葉は、そんな当時の人々の不安を代弁した言葉だったのかも知れません。


***


あれから数十年。
スマホをたくみに操作する2歳児を見て、「このままでは、人類はスマホに支配されてしまうのでは・・・」と、心配しそうになる自分がいました。
しかしそんな心配も、スマホに慣れ親しんだ若い人達からすれば、「大人はバカだなぁ」と笑われてしまうのかも知れませんね。

そんな事をあれこれ考えながら、スマホの新作ゲームに熱中するのでした。
スマホは便利ですね。バカにならない程度に、ほどほどに、おつきあいしていきたいと思います。

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2017年5月23日

ひとに無関心に見えちゃうわたし...

うまくいかない状況なとき、ほかの何よりも、うまくやれない自分はダメだなと感じたことはありませんか。
そうすると、悩みに自分を責める気持ちがくわわって、ほんとうに苦しくなりますよね。
そんなときカウンセリングでは、捉え方を変えるために"もしこの経験を、誰かを理解し許すため使えるなら?"という視点をもつことをオススメする場合があります。

自分で自分を許すって、なかなか難しいもの。
だからあんがい、視点を変えることが役に立ちます。
わたしたちの心は、自分を許していないときには、同じ要素をもった誰かを許すことができないのですね。
逆に、あなたが責めている誰かを理解して許すことは、自分自身を一緒に許すことにつながります。
自分を許せると、感情的には格段に楽になるんです。
状況に対しても冷静さを取り戻せるので、意外な気づきがあったり、取り組めることが増えたり、いい影響があることが多いんですね。

例えば、わたしの体験なのですが。
母校でプロカウンセラーになるための指導を受けたとき、先生からこんな指摘されたことがありました。
「キミね、基本的に無表情でしょ。なにを考えているかわからないって云われるでしょ」
「...はあ」
「その無表情はね、ひとに無関心に見えちゃうの。カウンセラーとしては大きなデメリットだからね」
この言葉、わたしには心当たりがありました。
わたしは不器用なので、一度にひとつのことしかできません。
何かに気をとられたり、緊張したり、どうしたらいいか考えていると、しぜんと顔が固まって無表情になります。
そうするととくに、わたしをよくご存じない方からみると、冷たくて近づきがたい感じを与えるらしいのです。

自分の課題を知るって大切だからね、という先生の声は愛のある温かいものでしたが、わたしは正直がーんとなりました。
だって、皆さんの癒しの役に立ちたいからカウンセラーをめざしているわけです。
カウンセラーという仕事への情熱はめっちゃあるんですよ!
なのに、ひとに無関心に見えちゃうなんて...。(-_-;)

落ち込みかけたものの、いつかのセミナーで、自分を責めるよりも捉え方を変えてなさいと教わったことを思い出しました。
わたしは、自分に尋ねてみました。
"もしこの経験を、誰かを理解し許すため使えるなら?"って。

答えは、すとんと見つかりました。
うちの父です。

うちの父は、無口で感情表現に乏しいタイプで、何を考えているのかよくわからないひとです。
基本的に仕事ばかりで家にいなかったし、大学生で実家をでてからは、年齢とともに接点が少なくなっていました。
仲は悪くないですが、遊んでもらった記憶もないし、話をする機会も少ないし、父娘間で距離があったんですね。
だからなんとなく、父は子供に関心がないんだと感じている部分がありました。
本音をいうと、父親としての愛情をあんまり与えてくれなかったって、ちょっと怒っていたのです。

でもですね、数年前に甥っ子が生まれまして。
ちょうど定年して家にいる時間が長くなった父が、なんとあっさり「イクジイ」になったのです。
相変わらず黙ってニコリともせず、でも車や電車のおもちゃを上手に動かして、甥っ子を飽きさせることなく遊ぶんですね。
わたしたち姉妹にとっては、ぽかーんとする光景です。
父は、子供と遊べるひとだったのか!!
そもそも、子供に興味があったんだ...
なんにも云わないから、知らなかったじゃないか。

わたしの父ですから、わたし以上の不器用です。
仕事が忙しくて大変な中では、余裕がなくて、子供たちに自分の想いをうまく伝えられなかったのかなと思います。
でも、伝えられないからといって、愛情や関心がないことではないんだって、今のわたしはよく分かります。
カウンセラーという仕事への情熱を、ひとにいまいち表現できないわたしも同じですから。
それにそもそも、あれだけ忙しく働いていたのは、まちがいなく家族のためだったと思います。
分かりにくいやり方ですが、それが、父の愛情の表現方法だったのでしょうね。

そこまで考えたら、気持ちがスッキリしてきたんですね。
たしかに愛情はあったんだから、分かりやすい愛情表現ができなかった父を許してあげよう。
たしかに情熱はあるんだから、ひとに無関心に見えちゃう自分を許してあげよう。
だからこそわたしは、自分の想いを表現できないもどかしい気持ちを理解してあげられる。
それに、文章を書くことなら苦にならないし。
コラムを書いて、みなさんに想いを伝えていく術もあるわけです。
どんなやり方でも伝えていけば、絶対届くだろうと思ったんですね。

いかがでしょうか。
捉え方を変えるって、結構使えると思いませんか。(笑)
捉え方がかわると新しい気づきを得て、楽にこの状況を乗り越えていくことが出来るかもしれません。
よかったら、試してみてくださいね。
みなさんの参考になれば、幸いです。(*'ω'*)

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2017年5月16日

レゴランドに学ぶ遊びの"遊び方"

今年4月、名古屋にオープンしたレゴランドへ早速行ってきました!
かつて大流行した「レゴ(LEGO)」をご存知の方も多いことでしょう。
私もレゴをみるのもさわるのも久々でしたので
「懐かしい~」と思わず口にしてしまうほどの空間でした。

さて、そのレゴランドにはアトラクションがいくつもあります。
その中の一つ、パイレーツ・ショアエリアにスプラッシュ・バトル
と呼ばれるアトラクションがあるのです。
海賊船にみたてた船に乗り航海する道中で、水鉄砲のようなものを使って
標的を撃つ、というアトラクションなんですね。
ただ単に的(まと)に水鉄砲を撃つだけではなく、外野のお客さんにも
水鉄砲を撃てるようになっているのです。
それだけではなく、外野のお客さん側にも水鉄砲が設置されており
撃ち合いができるようになっていたのです。

はじめのうちは遠慮して知らない人や子どもに外野から水鉄砲を撃つのは
ちょっと気が引けたのですが、そのアトラクションに乗ったとき
あることに気づいたのです。

自分たちが船に乗り航海する中で外野から誰も水鉄砲を撃ってくれないと
そのアトラクションがとてつもなく「つまらない」ものになったです。

私が遊びに行ったのは平日でしたのでお客さんも少なく
アトラクションは並ぶ時間もほとんどなく
同じように外野のお客さんも少なかったのです。

スプラッシュ・バトルを楽しみ切れず、他のアトラクションを回ってから
再びスプラッシュ・バトルの外野に行きました。

お客さんの乗った海賊船がやってきたとき、今度は遠慮せず思い切り
外野から水鉄砲を撃ちまくりました。
すると、船に乗った大人がキャーキャー言いながら笑っているのです。
子どもに向かって水鉄砲を撃つと一生懸命撃ち返してくれるのです。

そして、中には手を振ってくれる外国人も多数出現し、
水鉄砲の撃ち合いをみている観客さえも笑ってみているのです。

ひととおり遊び終えた頃には服がビショビショになっていました(笑)

さらには、海賊船から降りてきた外国人のお客さんに指をさされたり
手を振ってきたりしておもしろいことになってきたのです。

そこで、もう一度スプラッシュ・バトルに乗ることにしました。

休日と違って混雑のないテーマパークで並ばなくてよいという環境は
もう一度同じアトラクションを楽しみたいときには最高ですね!

今度はアトラクションの周りにお客さんも多く
外野には水鉄砲にスタンバイしているお客さんもみえました。

すると、一番最初の岩場の陰から、
先ほど私が水鉄砲を当てた外国人の女性が
今度は私を狙って水鉄砲を撃ってきました。

彼女は仕返しをしにきたのか!?と思いましたが、
こちらもひるまず水鉄砲を撃ちまくりました。

彼女も私も「キャーキャー」叫び笑いながら
私が手を振ると彼女もまた手を振り返してくれたのです。

最初は誰も相手にしてくれず楽しみ切れなかったアトラクションが
最終的には一番おもしろい思い出となって残りました。


実は、遊びには相手が必要なのです。
それがたとえ敵役だったり悪役だったりしても、です。

子どもの遊びには両極の役割があって成り立つものがあります。
ドロケイ(泥棒と刑事)(地域によってはケイドロとも呼ぶらしい)や
鬼ごっこはその代表的なものですね。

スプラッシュ・バトルと似たようなものとしては
ドッチボールや雪合戦といったものがあるでしょうか。

子どもたちはこういった遊びを通してルールやマナーを身につけたり
勝ったり負けたりする中で相手の気持ちを汲み取ったり考えたり
しているのかもしれませんね。

思いがけず、レゴランドで遊びについて学ぶ機会となりました。
なぜか、やたらと英語で話しかけてくれるクルーさんも多くて
自分が周りにどうみえているのか??と思う一日でした(笑)

大人の皆さんもときどき遊びに出掛けてみると
おもしろい発見があるかもしれませんよ。

仁和智美のプロフィールへ>>>

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2017年5月 9日

開けない紙袋たち

先日、「名古屋カウンセラーズフェスタ」というイベントがあり、7名の名古屋のカウンセラーたちが、30分ずつの講演をさせていただいたのですが、そこに参加していた、紙谷まみカウンセラーが講演中に、こんなことを言っていて、なるほどと思いました。

「自分の好きをみつけるために、クローゼットの中を見てみた」

というものです。私たちって、
「何が好きかわからない」とか
「何がしたいかわからない」って、
悩んでしまうことがあるものですが、よーく考えてみると、「わからない、わからない」と言いつつも、服を買って来て着ているし、お腹が空いたら、何かしら選んで食べているし、ヒマなら、その時間を何かで使っています。そこには、私なりの何か「好き」が隠れているのではないか、ということでした。

そして、今、一番時間を使っているものについても、着目してみるお話もされていました。
自分の「好き」をみつける、とても丁寧で繊細で、素敵な視点ですよね。

私も、カウンセリングをさせていただいていて、その方が何に一番エネルギーを使っているのかを、いろんな視点で考えることがあります。

例えば、彼との関係がうまくいっていない時、彼のことばかり考えて1日過ごしていることもありますよね。
メールを何度も打ち直しては、保存して、また読み返して、直して・・やっと送ったら送ったで、返事が遅いとか、来ないとか、来たら来たで、そっけないとか、短いとか、関係ないこと送ってきたとか・・エンドレスにぐるぐると彼とのことばかり考えてしまっている。
とにかく、彼のことに、エネルギーを使ってヘトヘトになっていることもあります。

逆に、彼との関係が、めちゃくちゃうまくいっていて、頭の中は、彼のことでいっぱい。彼以外のことは、大変おろそかになりますけど、ごめんなさーい、みたいな状態になることもあるかもしれません。

仕事があまりにも忙しくて、家のことも、パートナーとのことも、友人との約束も、何もかも後回しになってしまっている、なんてこともあるでしょう。短いスパンでそうなることもあれば、逆に長すぎて「忙しい人」という場所に定着してしまい、いろんな人とのつながりや、楽しいことから疎遠になってしまうなんてこともあります。

心が喜ぶことに夢中になっている時間は、心の赴くまま気の済むまで、それをさせてあげられるのが、大人の贅沢ですよね。満たされた心が、また新しい喜びをみつけていくでしょう。

カウンセリングにいらっしゃる方は、切羽詰まった状態という場合も多いものです。
そんな時は、まさに、エネルギーをほとんど全部、今起こっている「問題」に使っています。

私たちのエネルギーは、喜びと共にあるときは、どんどん湧いてきます。
例えば、仕事は大変だけど、すごくうまくいっている時、私たちは非常にエネルギッシュで、やる気に満ちています。考え方も前向きになりやすく、進むことに抵抗がありません。未来もうまくいくだろうと思えるのですね。

しかし、問題があり、そのことを考えざるを得ない時、日常に使うエネルギーまでも、問題に取られてしまうと、私たちは本当に、疲弊してしまいます。何をしようとしても、言えば「電池切れ」なのですから、動けない、うまく考えられない、選択も判断もできない、なんてことになります。

ましてや、この問題やこの状況を打破する、良い方法も出てこないのですね。

でも、「カウンセラーに相談してみよう」とふと思いついて、お話しする機会があると、こっち側からだけ見えていた「問題」のかたちとは違う、別の側面について聞けたりします。物事って、多面体なんですよね。光の当たるところもあれば、影になっているところもあるのです。

そして、もうひとつ、こんなこともあります。
私自身の話なのですが、まだ子どもがいなくて、仕事に趣味にと、忙しくしていた時代のことです。

私は、仕事が終わると、名古屋の地下街やデパートをぶらぶらして帰るのが好きでした。可愛い小物やアクセサリー、洋服や食器、靴やバッグも見るのも好きでした。

ある時、ふと家にある、開けもしない紙袋に気がついたのです。
それは、私が仕事帰りに買ったものでした。開けていない紙袋にいったいどんな服が入っているのか、思い出せませんでした。小さな小袋に入っているアクセサリーが、ネックレスなのかピアスなのかも思い出せないのです。

私は、好きで気に入って買ったつもりでした。たしかに手に入れるまでは、私の全エネルギーはその素敵な物たちに注がれ、夢中になっていました。でも買ってしまったら、もう興味がなくなってしまったのでした。

そんな買い物ばかりしていた時代、私は自分のことを、単なる「買い物下手」だと思っていました。
でも、今、振り返るとわかります。私は、まっすぐ家に帰るのが寂しくていやだったのです。夫は、ハードワーカー真っ最中で、午前様ばかりでしたし、結婚して住むようになった家の周りには知り合いもいませんでした。

私は、「寂しい」という大問題を抱えていたにもかかわらず、「寂しい」と夫に言えずに、少し気に入ったものを手に入れることに、エネルギーを注いでは、気を逸らしていたのです。

私の買い物の目的は、好きな物を手に入れる、ということではなく、寂しさや夫とのつながりに直面しないということだったようです。買ってしまうと、どうでもよくなったのは、つかの間ではあるけれど、大本命の問題から「気を逸らす」という目的が達成されてしまったからだったのですね。

今、エネルギーを何に注ぎ込んでいるかは、一番好きなものに夢中な時と、何かから気を逸らすための時があるようです。

でも、じゃあ、気を逸らしているから、ダメじゃないかと思う必要はありません。
なぜなら、今は、時期じゃないからかもしれないからです。

私がそうだったように、その時は、むずかしかったんです。
開けない紙袋を眺めながら、なんでだろう・・と思えたことだけでもよかった。そうあの頃の私に言ってあげられたらいいのだと思います。

そして、時期が来たら、少しずつ取り組めるものです。
プロセスというのは、私にぴったりな速度で進んでいるようですよ。

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2017年5月 2日

「当たり前」は有り難い ~たったひとことの「ありがとう」が伝えてくれるもの~

子どもが成人したら、一人前の大人として認めて、尊重してあげることはとても大切なことだと思います。
いえ、本当は成人したらではなく、ある程度大きくなったら、なるべく大人と同様に扱ってあげられるのが理想かなとは思うのですが、残念ながらそれは結構難しい事も多いようです。

さて、この春、我が家の次女が無事、大学を卒業して社会人になりました。
娘もこのご時世で、就活に苦労していたことも知っているので、親とすればなかなか感慨深いものがあります。
もちろんそれだけでなく、生まれてからのあれやこれやを思い返して、つい涙ぐみそうになったりして(笑)。
私は本当に涙もろいので、こういうとき、次女にはよく笑われるのですが、世のお父さんお母さんには私の心情をご理解していただけるのではと思います。

でもここ数年、出来るだけ子離れをしていこう、私なりに娘たちを信頼して、一人前の大人の女性として尊重していこうと、私も努力していたのですが、そのおかげかな(笑)?
最近の彼女はとてもしっかりしてきて、わが娘ながら頼もしいなと目を細める親バカ全開の私です。
そして、そんな私に呆れたような目をして「ハイハイ、わかったわかった。良かったね」と体よくあしらうのが、次女のいつものパターンなのです(笑)。


さて、そんな次女ですが、新社会人となって数日め、入社三日ほど経ったあたりのことです。
いきなり、帰宅してこう言ってくれたのです。

「今朝、朝ご飯作ってくれてありがとう。朝、早く起きてくれてありがとう」

なんと!朝6時に起きて、7時の電車に乗る為に家を出る彼女にしてみれば、「朝、早く起きて、朝ご飯を出してくれるだけでありがたい」のだそうです。

そして次の日、お弁当を作って持たせたら、お昼過ぎにLINEのメッセージが入りました。
「お弁当ありがとう。卵焼きとかめっちゃ美味しかった」

さらに夜、帰宅して晩ごはんどきには、「帰って来て夕飯出してもらえるだけでありがたい」ですって?
うわー、こんなこと言われたの初めてですよ?びっくり。

「いやいや。そんな、大したモノつくってないやん。半分は前日の残りだし......」
答える私に、「そんなことないよ、いつも本当にありがとう」と返す娘。

なんだろう、これは......?
「ありがとう」の洪水です。
いや、「洪水」というのは大袈裟かもしれませんが、でもねえ......。
だって、今までこんなにマメに、こんなにたくさん「ありがとう」を言ってもらった記憶はないからなあ。
まあ、嬉しいですけど。

母とすれば、通勤ラッシュの中、1時間以上かけて都心まで通い、フルタイムで研修を受けて来る娘は、まだ若いとはいうものの、体力的には大変だろうなとか、いろいろ思うわけです。
となると、せめて朝はご飯くらい私が作ったものを食べさせて送り出そうとか、夜、疲れて帰って来るだろうから、すぐにあったかいご飯が食べられるようにしておいてあげようとかね。
そして、職場にお弁当を持って行ってもいいということが判明したので、早速お弁当を作って持たせたところだったのです。

でもさすがに朝は早いし、あまり手の込んだものは作れないので、若い女の子のお弁当箱にしては地味な感じも時々漂いますが、それでもすごく喜んでくれるんですね。
そのうえ、「そんなに手の込んだことしなくて、全部冷凍食品でもいいよー」なんて笑って言ってくれるのですが、さすがにそれはね、ちょっと申し訳ないので、出来るだけ頑張ってみたりもしています。
ちなみに今日のお弁当には旬の苺を入れてみたりしたので、見た目がすごく可愛くなり、大満足の母です。

という感じで、そういったことの一つ一つに、感謝を示してくれたりしたわけなので、これはもう、私としては本当に嬉しいものです。
もともと、どっちかというと中身は男っぽいところがあり、普段からおおざっぱでぶっきらぼうな彼女がそんな風に言ってくれるなんて、ホントに感動したんですね。
なんていい子なんだろう、どんな素敵なお母さんが育てたのかなって、......それは私か(笑)。

と、まあ、くだらない冗談はさておき、でも、そんな風に言ってもらえると、もっと喜ばせてあげたい、頑張ってる娘のために私も頑張りたいなって思うようになります。
こう見えて私も、根がかなりの単純バカですからね(笑)。

でも、誰かが伝えるたった一言の「ありがとう」には、そんな力があるんです。


元々「ありがとう」という言葉が「有り難い」から来ていることは、ご存知の方も多いと思います。
「有り難い」は「あることが難しい」=「滅多にないこと」ですよね。
そうそうあることじゃないからこそ、それが得られる幸運に心から感謝して、そうして発する言葉だったはずなんです。

だから、私からすればそんな大したことないこと、して当たり前で、ちっとも「有り難い」ことではないと思っていたことを、娘が「有り難い」ことと思ってくれたこと、その価値を認めてくれたことが、私にはとても嬉しかったんですね。
私の方こそ、そんなに有り難がってくれてありがとう、って気持ちでした。

「当たり前」は「やって当然」ということなので、やれるのが、出来ているのが普通です。
つまり、「当たり前」は「通常」のことであり、その価値は「ゼロ」です。
でも「有り難い」ことは「通常」のことではないので、とっても価値がある。

誰かがしてくれる「当たり前」のことも、本当は全く当たり前では無いのですよね。
私たちはそれを「当たり前」と思った時点で、感謝をすることを止めているのかもしれません。

娘の「ありがとう」の言葉は、私に改めてそんなことを思い起こさせてくれました。
家族の問題が起きて、心理学やカウンセリングの世界と出会う前の私は、いろんなことを「当たり前」の一言で片づけて、ろくに感謝をして来ませんでした。
でも、本当なら、私たちの身の回りにあることはすべて「有り難い」ことであり、感謝できることはとてもたくさんあるようです。


例えば、私が子どもだった頃、私は母が家事をしてくれてもそれを当たり前だと思っていて、ちっとも感謝をして来ませんでした。
もちろん、母の日や誕生日、勤労感謝の日など、折々に感謝を伝えたことはたくさんあるけれど、次女が私に伝えてくれたように、本当の本当に心から母に感謝を伝えたことがあっただろうかと省みてみれば、「YES」とは全く言い切れない気がします。
心理学を学び始めて、母に対してはようやく葛藤が少しずつ解消されてきたように思いますし、折に触れ、感謝を伝えてはいますが、それでもまだまだ足りないなあと思うんですね。

私自身が娘たちとの間に問題を抱えていたように、私もまた、母との間に問題を抱えていました。
親子関係は悪くはなかったと思いますが、私の長女が今から7年ほど前に心の病気になった頃から、私の中に両親に対して「怒り」や、たくさんの「恨みつらみ」があることをはっきりと自覚するようになりました。
そしてそうした感情を持つことで、私は母からの愛情を拒絶し、また母を愛することをやめてしまったのだと思います。

母がしてくれたことを「親なんだから当たり前」としてしまうことは、母の愛を「ゼロ」と言ってしまうことになるのかもしれません。
でも、心からの感謝をもってそれを「有り難い」と思えたなら、私は今からでもたくさんの愛を受け取れたことになるのでしょう。
私が娘から「ありがとう」を伝えてもらって、本当に嬉しかったように、私からももっとたくさん「ありがとう」を伝えたなら、母も心から喜んでくれるはず。
偶の電話でさえも、とても嬉しそうにしてくれているのですから。


「子どもは3歳までに親の恩をすべて返している」という言葉があります。
それは、親からすれば本来、子どもは「可愛い」だけでその苦労に報いてくれるものであり、生まれて来てくれただけで「有り難い」、愛すべき存在だという意味なのでしょうね。

残念ながら、子どもたちが幼かったころに彼らにとって「いいお母さん」とは言い難かった私が、そんな風に子どもに対して思えるようになったのは、ここ数年のことです。
けれど、そのたった数年の間に、もう幼くはない娘たちを数え切れないほど「可愛い」「愛おしい」と思えたことが、本当に有難いことなのだと私は今、心から感じています。

だからきっと、私が両親のもとで育った子供時代、母も父も、私に対してそんな風に感じたことはきっとたくさんあったはずです。
そして、そのことが両親にとってどれほど幸せなことだったのかは、私自身の経験から推して知るべし、だとも。
そう――、長い時間をかけて、ようやく私もそう思えるようになったのです。
それは私にとってはとても嬉しいし、誇らしいことでもあります。

今でもまだ、「私は母に愛されていた」と私自身の心で感じることは難しいときもありますが、それでも私はこれから先、母からの愛を「無かったこと」にせず、「有り難い」ものとして受け取っていこうと思います。
娘たちを、いいお手本にして――。

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