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2017年4月25日

思い出は音楽と共に♪

音楽が、人の心に与える影響は、かなり大きいものがありますね。
楽しい気分の時には楽しい曲を、悲しい時には悲しい曲を聞いて、その時の感情をしっかり感じた方がスッキリするといいます。

そしてまた、音楽は生活と密着しています。
どの曲が好きとか嫌い、というだけでなく、その頃の自分を思い出してしまうのです。

私は街角やお店のBGMとして、どこからともなく聞こえてくる"ある曲"に、たまらないほどの懐かしさを感じてしまいます。
その曲とは、スピッツの「ロビンソン」。
著作権の関係で、文中ではご紹介できないのが残念ですが、私にとっての名曲です。

この曲がリリースされたのは1995年。
1995年と言えば、今から22年も前のことです。
もう、そんなに時間が経ってしまったのかと思いますが、1月に"阪神・淡路大震災"が起きた年でもありました。

この震災で、私の生まれ育った神戸の我が家も、全壊してしまいました。
誰もが今日を生きることに精一杯。
震災当初は、気持が異常に高ぶっていましたから、命があっただけでありがたいと心底思っていました。

当時、父は脳こうそくの後遺症で右半身不随になり、車いす生活でした。
母と私で父を介護する日々でしたが、父が身体不自由では避難所に行くことも出来ません。
幸い、姉の住む地域は同じ神戸でも被害が少なかったので、両親を姉のところに預けて、私は職場に近いところで別に部屋を借りることにしました。

それまでにも家を出ていた時期はありましたが、一人暮らしは初めてのことです。
適当な物件を探し、引っ越しを済ませた頃には桜の舞い散る4月になっていました。
1月に震災が起きてから、約3ヶ月。
その間の、なんと慌ただしかったこと!

平日は仕事から帰ると、炊事や洗濯。
引っ越しの後片付けもありましたから、テレビはあっても見ている暇がありません。
そこで帰宅してから、まず一番にやったのはラジオのFM放送をつけることでした。
その頃、毎日のように流れていた曲が、スピッツの「ロビンソン」だったという訳です。
ちょうど、新生活を始めたばかりの私に相応しい曲のような気がして、いつも鼻歌交じりで聞いていました。

一人暮らしは気楽ですが、当然ながら何もかも一人でやらなくてはなりません。
風邪を引いた時など、冷蔵庫に買い置きの食材もなくて、這うようにしてコンビニに買いに行ったこともあります。

平日は家と職場の往復になりがちでしたが、少し落ち着いてくると、時には仕事仲間や友達を呼んでホームパーティーも開きました。
誰からも束縛されない生活を、楽しんでいた面もあったんですよね。

そして週末になれば、両親の待つ姉の家へ半日掛かりで帰ったものでした。
何しろ、まだまだ鉄道が復旧しておらず、大きく迂回して電車やバスを乗り継ぎ、がれきの中を通り抜けていくのです。
春の陽射しがいつの間にか、汗ばむ初夏の陽射しに変わっていきました。

その頃、自宅再建の話が持ち上がりました。
父はすでに80歳を過ぎており、身体不自由でもありましたから、仮住まいのまま終わらせるわけにもいきません。
残り少ない時間を、心穏やかに終の棲家(ついのすみか)で過ごさせてあげたい思いがあったのです。

どうせ建てるのなら、父が家の中でも車いすで移動できるように、そしてまた手すりなども不足のないように、お風呂やトイレなどは介護しやすいように、一所懸命考えました。
本当は一番相談したいのは父でしたが、脳こうそくの後遺症で言語も取られていましたから、それは出来ません。
母は「あんたが良いと思うようにやってくれたら、それでかまへん。」と言います。

一つ一つの決定を、私がする必要がありました。
良く言えば任せてもらっていたのですが、その責任の重圧感はかなりのものでした。
紆余曲折を経て、義兄や従兄など、建築のことに詳しい人たちの力を借りながら、年末には何とか自宅が完成したのでした。

新しい我が家に足を踏み入れた父は、車いすから降りて、私たちが支えながら手すりを使って部屋の中を見て歩きました。
元々好奇心の強い人でしたので、2階にも上がろうとします。
一瞬、大丈夫かな?と思いましたが、何と階段を一段一段上がりきって2階の部屋も見ることが出来たんです。
その時の父の、嬉しそうな顔!

゜゚*☆゜゚

スピッツの「ロビンソン」は、1995年のレコード大賞で優秀作品賞に選ばれました。
どうやら、「ロビンソン」に勇気づけられたのは、私だけではなかったようです。

先日、この曲のイントロを久しぶりに耳にした瞬間、一気によみがえった記憶を書かせてもらいました。
ああ、そうだった・・・

22年前の、あの頃の私を褒めてやりたいと思います。

「まゆみ、よくやったね!偉かったじゃん!」

佐藤まゆみのプロフィールへ>>>

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2017年4月18日

梅酒飲んどけばいいよ

私は普段、ブログやコラムを執筆する時は、家を出て、近くのサイゼリヤに行くことが多いです。
家で執筆できないこともないのですが、家にいると猫の構って攻撃についつい乗って一緒に遊んでしまうので、知らぬ間に時間が経ってしまいます。

だから、私はカウンセリング以外の時間は、結構サイゼリヤにいることが多いです。
仲の良いカウンセラーから、「あんた電話すると、いつもサイゼリヤにいるよね!」と、よくいじられたりしています。

サイゼリヤに行く私の楽しみは、2つあります。
1つは、大好きなイタリアンハンバーグを食べること(笑)、もう1つは、執筆に疲れた時に、サイゼリヤにいる人たちの人間模様をぼんやりと眺めることです。

どんな時間帯に行っても必ずいる50代くらいの女性、口論をしていたと思ったら突然キスを始めるカップル、ドリンクバーですべての炭酸ジュースを混ぜ合わせて謎の液体を作り上げる幼稚園児、いきなり1人で大掛かりな手品を始める60代くらいの男性、などなど。

のんびりとそんな風景を見ていると、「今日もカオスだな」と思ったりします(笑)

◇◇◇

先日、私がサイゼリヤでブログを書いていると、私の横に3人組の女子大生が座りました。
ブログの執筆が一段落して、私はいつものようにぼんやりとサイゼリヤの景色を眺めていると、隣の女子大生たちの会話が聞こえてきました。

「やばい、どうしよう、超緊張してきた。。。」
「そうだよね、怖いよね」
「大丈夫だよ。なんとかなるって!」

どうやら3人の中の1人が、意中の彼と初デートに行くことになっていて、そのことを他の2人に相談している様子でした。
若い女性たちの恋バナを聞いてはいけないと思いつつも、ついついブログそっちのけで、私は彼女たちの会話を聞いてしまいました。

「何話せばいいのかな?」
「沈黙が続いたら、どうしよう。。。」

そんな彼女の不安に対して、他の女性たちもあまり恋愛経験がないらしく、「私もわかんないんだよね」という答えが続いていました。
彼女の相談はゆっくりと核心に迫っていきました。

「あと、私が一番不安なのはね、夜ご飯を一緒に食べている時に、お酒に酔ったらどうしようって思うんだけど、どうしたらいいと思う?」

彼女の質問に1人の女子大生が答えました。

「梅酒飲んどけばいいよ」

私は、心の中で「えっ!?」と思いました。
その女子大生は、自信満々に続けました。

「梅酒はアルコール度数低いから、絶対に酔っ払わないから、梅酒飲んどけばいいよ」

彼女の「梅酒は絶対に酔っ払わない論」は不思議と説得力があって、その話を聞いた他の2人は「そうなんだね」と、めちゃくちゃ納得している様子でした。
そして、私も彼女の話を聞いているうちに、梅酒って酔っ払わないんじゃないかなと思うようになりました(笑)

◇◇◇

心理的に、人は経験したことがないことをする時、強い不安を感じる傾向があると言われています。
大好きな彼との初デートは緊張するでしょうし、ましてや、それがあまり経験したことないことであるならば、不安を感じて当然だと思います。
しかし、人は不安な感情を他人に分かってもらうと、不安な気持ちは軽減したりします。

3人で考え出す結論は、時には的外れだったかもしれませんが、デートに行く友達の不安に寄り添い、何とかして問題を解決しようとする他の2人の姿勢は、とても素晴らしいものだと思いました。

「カウンセリングをする上で一番大切なことは、相手に何を言ってあげるかではなく、どれだけ相手のために親身になってあげれるかなんだ」

彼女たちを見ていると、私の師匠が何度も言っていたセリフを思い出しました。

森川陽介のプロフィールへ>>>

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2017年4月11日

震災から6年...力強くいきる魂②

~こころの癒しをもたらす不思議な魂のチカラ~

東日本大震災から6年経った今なお
語り継がれている一つの話があります。

それは、震災で亡くなった方の霊が現れては
各地での目撃情報があったというものです。
震災後すぐの頃は霊が現れるなんて不謹慎だと言われて
なかなか大っぴらにされることもなかったようですが、
数年前にはテレビでも取り上げられたり
現在ではインターネット上でも話題になったりしています。

亡くなった方の霊が現れるのかどうか本当のところはさておき、
復興にあたる地元の人にとってこの「心霊体験」は
心のわだかまりが解(ほど)けていく出来事でもあったようです。

一般的には、幽霊をみる体験は怖がられたり
タブー視されがちだったりするものです。
ところが、亡くなった方の霊の話は地元で語り継がれており、
霊でもいいから会いたい、魂は生きていることが感じられる、
などと言われて全く怖がることがなかったようなのです。

まるで、今も生きているかのごとく彷徨う霊の姿は
いつもと変わらない様子で地元の人に会いに来てくれたように
ごく自然と現れているのかもしれません。


ある日突然、失われてしまった命に対して
人は現実を受け止めることが難しくなってしまいます。

昨日までいつもと変わらず会っていた人がいなくなること。
数時間前まで話をしていた人がいなくなること。
今日まで暮らしていた自宅がなくなっていること。

なぜそうなってしまったのか・・・
納得できる理由はどこにも見つからず
本当に亡くなってしまったのかさえも信じることができません。

身近な人が亡くなってしまった事実を受け止めるのには
癒やしの時間を充分にとることが必要になります。

また、同じように身近な人を亡くしてしまった人同士で
その後の生活や時間を共有すること、
あるいは気持ちを分かち合う機会をもつことは
非常に重要なことであります。

避難生活や地域の復興にかける時間のなかで
霊をみた話が仲間との共通の話題となり
亡くなった方々とこころを通わせることで
生き残ってしまったという罪悪感が癒やされ
亡くなった方の魂とともにこの先
生きていく力をもらっているのかもしれません。

こころの癒やしをもたらす不思議なチカラは
これから先の復興にも多大なる恩恵を
もたらしてくれるかもしれませんね。

一日でも早く被災地の復興が進みますよう
応援しています。
私も一緒にがんばりますね!

仁和(庭野)智美のプロフィールへ>>>

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2017年4月 4日

母からの愛

母が癌とわかったのは、二年近く前になります。父からの電話で私は、母の病気を知りました。
その当時私は、離婚し一人で生活をしており、自分自身を立て直すことで、精いっぱいでした。
自分の気持ちに、余裕が全くなく、両親にたいしては、遅れてきた反抗期真っ盛りで、私は両親とは連絡を、絶っている、そのような状態でした。
そんな私に対して、両親は心配、憤りもあったことでしょう、しかし両親から私への、連絡は殆どありませんでした。
その中での父からの電話は、母の癌発覚のものでした。父からの電話を切った後の、私の恐怖を感じた心は、昨日のことのように覚えています。
母の癌の知らせは、実家から遠ざかっていた私が、実家に戻るきっかけとなりました。
それほど、母の病気は私にとって、大きな出来事でした。
母の病気は決して、私には良い知らせではありませんでした。
しかし私が実家に、帰るきっかけを、私に勇気を、いやチャンスを神様がくれたように感じました。
もしかしたら、母が私に与えてくれた、愛だったのかもしれません。
母は、久しぶりにあった私を、いつものように「お帰り」と迎えてくれました。

そして1年前の、2回目の癌発覚の知らせは、母親からでした。
ちょうど私と旦那さんが、復縁しようかと話が出ていたときです。
その時の私は、母からの電話に、物凄く怒っていました。
母が私に言った言葉、、、
「一人にしないでくれ、早苗しかいなんだよ。。。」
とっても重たくて嫌な気持ちでしたね。
「私はあなたの旦那じゃないんだよ、お父さんに甘えて!」
と電話口で激怒したことを覚えています。
母に暴言を吐いた自分ですが、不思議と母に対する罪の意識は、ありませんでした。
それよりも、やっと口に出して、母に本音を言えた、という気持ちの方が大きかったです。
人は信頼しているからこそ、本音が言えるのではないでしょうか?
受け止めてもらえる、安心感があるからこそ、本音を言えるのかもしれませんね。
私は、母に本音を言えたということは、母が私を受け止めてくれた気持ちが、心の奥底であったのかもしれません。

そして3回目の癌発覚は昨年末でした。
2回目の癌発覚の時に、母に本音を言えるようになってから、私の癒しは促進されていきました。
母に本音を言えた気持ちが、私の癒しの促進に、なっていたのかもしれません。
久しぶりにあった母から「こんなになるまで自分をほっておいて」なんて言われても、母は寂しいだけなんだなと、思える自分がいました。
あれほど、嫌悪していた母の、攻撃を受け入れることができるなんて、人として成熟した、自分にびっくりでした。

年明けに祖母の1周忌がありました。実家に親戚の人たちが集まって、お茶を飲んだりします。
私が実家についてみると、近所の方々が、親戚の人にお茶を、出してくれていたんです。
病気の母の代わりにと、母が大変だろうという、思いから近所の方が手伝いに来てくれていました。 
話を聞くと、近所の両親の友達が、毎日のように両親の元に、お茶を飲みに、来ていることがわかりました。
そして、家事が大変だろうと、ちょっとしたおかずも毎日のように、両親に誰かが、届けてくれていたのでした。
そして、そのような友人がいる両親を、私は心から嬉しく思い、幸せを感じたんです。
「あーこの両親の元に生まれてよかった。こんなにも周りから愛されている両親で良かった。そして私はその娘で良かった。」
そして今まで、母が私にしてくれた数々の出来事が、思い浮かびました。
今まで当たり前に感じていたことが、当たり前ではなく母への感謝の気持ちになりました。
母の一日は、家族の中で、朝一番に起きて、私達家族のための朝食作りから始まっていました。
そして掃除、洗濯をしてフルタイムの仕事に出勤していきます。
そんな忙しい中、学校の行事にも、必ず参加してくれていました。
私の運動会の時は、私の大好きな太巻きを、母はいつも作ってくれました。
太巻きの話を、職場の同僚にすると「うちの母は、太巻きは一度も作ってくれなかったよ、優しいお母さんだね」なんて言われました。
寒い朝、アツアツのお味噌汁を、いつも作ってくれていました。そのお味噌汁は、体だけでなく、心まで温かくなるものでした。
特に、豆腐に刻んだ長ネギを、さっと入れたお味噌汁は、ネギの香りとともに、とっても美味しかったですよ。
そして最近母に、電話をよく私がかけますが、「無理しないように」と常に気遣ってくれます。
病気で辛いのは母なのに、娘の私を気遣ってくれる、私は、物凄く心が温かくなります。

母はとっても、愛情深くて、優しい女性なんだなと思いました。

母は3月9日に永眠しました。眠るような最期で、自宅に帰ってきた、母の顔は今にも起きそうな、穏やかな顔をしています。
母の人生を振り返り、母が幸せな人生であるかを、決めるのは母ですが、母の娘で良かったと思えることを、判断するのは私です。
私は今、母の娘でほんとに幸せだなと心から思えます。

「おかあちゃんの娘で良かった、私は幸せだよ!」

私にとって、母の病気は、母からの愛を、溢れるほどの愛を、与えてもらえるものになりました。
物理的に母と話をすることは、出来ませんが、姿はなくとも私のすぐそばに、母がいるような、見守ってくれているような気がします。
つながりや、愛とはそういう事なのかもしれませんね。


最後までお読みくださりありがとうございました。

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