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2016年11月29日

「感謝のチカラ」は、優しさと穏やかさを与えてくれる

11月になり、あちらこちらで来年のカレンダーや手帳を見かけることが多くなりました。
みなさんは来年のカレンダーや手帳を買いましたか?わたしは、見かけるたびに来年はどのカレンダーを買おうかな?今使っている手帳もいいけど、もっと素敵なものに出会えないかな?と思って探しているところです。

 わたしは、毎朝、1日のスケジュールを時間ごとに書き出すタイプのスケジュール帳を使っています。1ページで1日分になっていて、スケジュール以外の部分は、自由に書き込めるようになっているんですね。今までは、スケジュールとTODOメモくらしか書いていなかったんですが、ふと思い立って、スケジュール以外のフリースペースを3つに分けて使うようにし始めました。

3つのスペースの一番上の欄には、毎朝、その時に感じた「感謝」を。真ん中の欄は今まで通りのTODOメモを。そして一番下には、1日の最後に自分に対するねぎらいの言葉を。

毎朝書いた「感謝」を見直してみると・・・。

一番多いのは、家族のことでした。

夫や子供が元気でいてくれること、健康であること。離れて住んでいる母や妹、姑が元気でいてくれること。家族が健康で元気でいてくれるからこそ、わたしは仕事もできるし、自分の時間を取ることもできるんだなぁ・・と、そんなことを思うようになりました。わたしにとって、家族は大切な存在なんだと再認識もしました。そして、大切な家族のために、自分もまた健康でありたいとも思うようになったんですよね。

主婦で母で仕事もしていると、ついつい「やるべきこと」「やらねばならないこと」に心を奪われてしまい、自分のことは後回しになりがち。でも、家族への感謝を書き始めてからは自分の体や心を労わろうという気持ちを持ちやすくなりました。自分のために・・と思っていた時よりも、大事な家族といたいから・・と思い始めてからの方が、自分を労われるだなんて、おかしな話ですね。おかしな話ですが、人は「大切な人」のための方が頑張れたりするんですよね。

夫と暮らせること。息子と同じ時を生きることができること。それを「ありがたいなぁ」と思ってみると、その時間を大切にしたいと思うし、いとおしくも感じるようになりました。

わたしたちは、何かを大切にしたいと思ったり、いとおしいと感じたりしているとき、穏やかで優しい気持ちを感じます。そして、そんな気分の時には、優しい行動をとりやすいし、自然と笑顔になったりもします。

毎朝、「この人たちが元気ででよかった」と思っただけなのに、勝手に「笑顔で優しいお母さん」、「笑顔で優しい奥さん」になれるんですから、「感謝の力」って、すごい!ですね。

この記事を書くにあたって、書き始めてから1か月分くらいを見直してみると、友達や仕事でかかわりを持つ人に対して、「この人と出会えてよかった。」「この人がいてくれてよかった。」という言葉を綴っていたり、天候や気候に感謝したり、地球がちゃんと自転してくれている!と書いていたり、電気、ガス、水道などが自由に使えていることに「ありがたい!」と書いていたりしています。

普段意識するかしないかに関わらず、たくさんの人や人の手ではどうすることもできない自然の恩恵に囲まれて暮らしているということに改めて気づくことができているような気がします。

今、あなたが「感謝」するとしたら、それはどんなことでしょうか?

誰かに伝えるわけではなく、ただ自分が勝手に「感謝」する。
自分しか知らないことだけど、それでも「感謝」することで、自分が自分に優しくなれる。
そんな「感謝の力」を使ってみるといいかもしれませんね。

読んでくださった「あなた」に感謝を送ります。

那賀まきのプロフィールへ>>>

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2016年11月22日

無音の音楽を『視る』という体験から感じたこと

もう半年ほど前に観た映画のことを話題するというのはどうかと思ったのですが、

今でも私の印象に強く残っているので言葉にしておきたい気持ちと、
もし読んでくださったかたが興味を持ってくれたら嬉しいな
という思いがありましたので、今回のコラムの題材にとりあげてみました。

その映画は『LISTEN』という、アートドキュメンタリー作品で
1時間ほどの上映時間ですが、そこに流れる音は無く、全くの無音なんです。
映画館の入り口で配られる耳栓をつけて、観客もできる限り音のない状態で観ることになります。

スクリーンに映る出演者は全員が耳の聞こえない聾者で、内容のほとんどがダンスで表現されてゆきます。
プロの舞踏家から、まったくの素人のかたも出ていて、私はダンスの技術的なことはよく分からないのですが、
とにかく一人ひとりのダンス(というか舞い?)に、こちらの心に訴えてくるものを感じました。

指で、手で、表情で、体全体を使って、流れるように表現されるそれぞれのダンスにグッと心を掴まれて、
いつの間にかスクリーン上の彼らの動きに、私の目は釘付けになっていました。

心の内側の深い部分から湧き上がってくるものが、
瞬間瞬間、彼らの身体の動きで表現されているようで、

「たましいが躍動している」と書くと、なんとも陳腐な表現になってしまいますが
そうとしか言いようがない何か、心の深い部分とつながっているとしか思えない何かを感じざるを得ませんでした。

今思うと、それはカウンセリングの現場でクライアントさんが
人生の問題を通して、本当に感じたかった「自分の願い」とつながった時の感動や、
その「願いを表現して生きたい」という想いと重なって視えていたのかもしれません。

その分だけ、彼らから私へ強く伝わるものがあったと感じたのでしょう。

無音ですから、もちろん何も聞こえてこないのですけど、音のない映像からなぜか音楽を感じる不思議な映画でした。

出演者の動きからは、私には確かに音楽が聴こえていました。
いや、「視えた」といったほうが良いですね。

映像はさまざまな場所でダンスをする場面が、断片的に切り替わっていきます。

ある場面では普通の家屋、スタジオの中、ビルの屋上などの人工的な建物で。

次の場面では、波の打ち寄せる砂浜、水が穏やかに流れる川辺、
風が吹き抜ける大木の下など自然の中で。

多くの場所での舞いは、ふだん当たり前に見ている風景にも
もしかしたら音楽が宿っていて、彼らはそれを感じて表現しているように思えます。

その音はテレビやインターネットから流れてくる、リズム・メロディー・ハーモニーのある
私たちがふだん「曲」として聞いている、外側からくる音楽とは違って、

自分の心の鼓動であったり
喜怒哀楽の感情であったり
内側からもたらされるモノが先にあって、

対象を「視る」ことで同調・共鳴すると、音楽として内側から「聴こえる」ものじゃないかと、
映画を観てから時間が経った今ではそう感じています。

それは聴者のきこえる世界から、聾者のきこえない世界へ近づいていった体験、

音楽を「聴いて」いる世界から、
音楽を「視て」いる世界へ、
境界線を越えてみる体験だったようにも思えます。

ただ、まったく別の分かれた世界かと言えばそうではなくて
音楽を「感じる」という共通の地平があることに気づかされたのです。

なんだか私たちが誰かと関わりながら生きていくためのコミュニケーションと
同じ要素があるようにも感じます。

人は一人ひとり、価値感も好みも生活スタイルも違いますよね。
ここは譲れないというモノが誰にでもあるでしょう。

ただそれはあくまで「わたし」という一人の世界でのお話。
周りの誰かと関わる時、そして誰かとともに生きていこうとする時に
いちいち自分の世界を相手に押し付けいていては、
毎回どちらかが勝つか負けるかの競争の世界にしか生きられなくなってしまいます。

自分と周りとの違いがあることは認めながら、
相手の世界に興味を持ったり、近づいてみたり、その良さを一緒に味わってみたり。

立ち位置は違っても、じつは深い部分ではつながっている。
同じ地平にいると感じることができたときに、
誰かと共に生きるという道が見えてくるように私には思えます。

大切なのは、まず自分自身(心の真実や、たましいの求めるモノ)とつながること。
「聴こえる」「視える」以上に、もっと感覚を開いて「感じる」こと。

それから周りの人や世界と、どう関わりたいのか?
内と外とをつなぐ「関係性」をどう築くか?

そんなところへ思いが辿りついてしまいました。

関東近県での上映は終了していますが、クラウドファンディングで資金を集めて
日本各地で上映は続いているとのことです。チャンスがあったらぜひ観てみてください。

無音の音楽を視るという体験から、みなさんはいったい何を「感じる」のでしょう?

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2016年11月15日

澄んだ空と私たちの、転換ポイントの秋 ~出会いがつむぐ、夫婦の絆~

こんにちは、建部かずのぶです。

朝晩は寒いときもありますが、秋の深まりとともに昼間の温もりが心地よくなりましたね。
ふと見上げたとき、美しい秋の空にココロを奪われる瞬間も増えてきました。

そう!秋の空と言えば、コロコロと変わりやすい例えとして、
「女心と秋の空」なんてことわざがありますね。

一般的に、女性は「好きか嫌いか」という感情で行動を決める傾向があるので、
そのときの気分で結論が出たり、予定変更になることもままあります。
理論的に考えがちな私たち男性は、そこで頭が「???」でいっぱいになることも。

かく言う私の奥さまも、基本的にネガティブ寄りのようで、
以前は、ここに摩擦のような気持ちがありました。

理由は、奥さまが自分自身のことをよく思っていなかったから。

私から見れば、いろいろな顔を持ちながらも、大好きな人なのですが、
どんなに伝えても、伝わらないところがあるなぁ・・・。
まぁそれも仕方ないか、と言い聞かせるように納得しようとしていました。

ところが最近、奥さまの様子がちょっと違うのです。
例え不機嫌になったとしても、気付いて気持ちを切り替えられるようになったのです。

少し前までは、一度落ちると丸一日かかると言ってましたので、
その変わりように、過去を知る私は、つい置いてきぼりになることも(^_^;)

そんな私たち。少し遡りますが、9月の中頃に大きなトピックスが生まれました。

実は久々に夫婦で、当カウンセリングサービスの母体の、
神戸メンタルサービスのヒーリングワークショップに参加したのです。
(※参加情報等は個人情報ですので、奥さまの許可を得た上で書いています)

一緒に受講するのも、1年半以上ぶりで、
しかも今回は、2人ともワークショップのお手伝いをするアシスタントでした。

夫婦でアシスタントとして参加するというワクワク感と、
2人の結婚記念日前というメモリアル感もあって、
待ち遠しいようなドキドキ気分で当日を迎えたのです。


ヒーリングワークショップは、フォーカスパーソンスタイルと言って、
会場内の全員の名前を書いた紙を、
トレーナーがくじ引きのように引いて決めるんです。

ですので誰がフォーカスパーソンになるのかは分からないんですが、
なぜか私は、昼過ぎ1番目に奥さまが当たる予感がしていました。
しかも、当たるなら池尾トレーナーだと思うと奥さまに言ってもいました。

でも、本当に奥さまの名前を呼ばれた、その瞬間。
私は会場の音を作るマイク係のリーダーで、
背中を向けて、機器の不調と格闘中でした。

『本当に来ちゃったよ~』と思っていたら、そばにいたベテランの方々に、
「はい、あなたも見えるところに行って!」と押し出されてしまいました。


そこから奥さまの独壇場が始まります。

池尾トレーナーも少々不思議な方なのですが、その上を行くような奥さまのトーク。
そばにいる奥さまを良く知るベテランさんたちを見ると、ケラケラと笑っています。

そして驚くことに、私が彼女のことを目一杯理解しようとしてることを、
彼女は気付いていなかった、ということが判明したのです!

もう少し丁寧に言えば、奥さまの潜在意識のレベルでは分かってると感じます。
彼女の中に生まれてきた自信のようなモノを感じることが多くなっていたので、
それがないと、前述したような変化は起きないはずなのですから。

遅効性のある意識さんでは、どうも認識できていなかったようなのですよね。


トレーナーとのやり取りで、ずっとこんなことを思っていたようです。
『こんな私は分かってもらえない、認めてもらえない。だから隠さないと・・・』

昔、『チャーマー/マスコット役の嘆き』というブログにも書いていますが、
何の役にも立っていないと、ココロの奥で、長い間自分を責めていたようです。

こちらは百も承知で、『また言ってるー』くらいの話ですが、
幸いにも、ここはワークショップの場。

【この思い込みを解消しましょう】
【ただ丸ごと、夫に受け止めてもらいましょうね】という流れになりました。

セッションが終了した今、仲良しな夫婦がさらに進化して、
新たなステップを歩んでいるように感じています(//∇//)

何よりも地に足が着いた感が強いのですよね。
合わせて太い絆も・・・。


そんな10月のある日。
知人のご夫婦に、「2人は絶対に見るべき!」と言われた映画があります。

それは、超話題作の『君の名は』。

天邪鬼で、ドキュメント好きな私は、最初乗り気じゃなかったのですが、
そこまで言うのなら、と夫婦で見に行きました。

見終わって一番に思ったことは、私たち2人が出逢って一緒にいる意味でした。

片割れを探して走り回る主人公の姿は、どこか自分自身のよう。
奥さまは、人やモノの出会いの縁で人生が彩られる、「結びの力」を感じたみたいです。

その翌日、ふと閃いて、隕石が落下したという伝承の地を訪ねてました。
1,200年前の事は知る由もありませんが、向かう途中、あちこちで秋祭りが催されてました。

『君の名は』でも、秋祭りの日に運命の転換ポイントがやってきましたね。


奥さまと出逢って、もうすぐ10年。
ちょっとしたキッカケで縁が結ばれた2人に訪れた、思いがけない進化の秋を経て、
冬の気配が少しずつ顔を覗かせています。

1つの出会いが新しい縁を結び、つながりが広がって大きな円(えん、まる)が創られるように、
良き縁を活かせる人になるために、何ができるかな?と、これからの在り方を考えるのでした。

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2016年11月 8日

トイレの神様はどこにいる!?

数年前に『トイレの神様』という曲がヒットしましたね。あの曲は自宅のトイレがモチーフとなっていましたが、今回は学校のトイレのお話です。

学校のトイレというと「3K」や「5K」と呼ばれ、「臭い、汚い、暗い、怖い、壊れている」というイメージが強いようです。
確かに、私も小学校、中学校、高校の頃を思い出してみると、ほとんど良い印象は残っていません。
『トイレの花子さん』というホラー映画の影響もあり、私はいつも3番目のトイレは使わないようにしていたり、暗くなるとトイレの前を通るのが怖かったりしました。

小学校の頃はトイレにスリッパがあったのですが、途中からトイレ内でのイタズラが多くなったためにスリッパの設置がなくなり、自分達の履いている上履きのままトイレを使用するようにもなりました。その方が汚いようにも思うのですが、トイレのスリッパがなくなったり便器の中に捨てられていたりするイタズラが多発していたので仕方のないことでした。
また、中学校の頃はトイレの電気のスイッチが陥没させられて使えなくなっていることもありました。

教育関係者の方には良く知られていることのようですが、生徒が荒れるとトイレが荒れるといわれるほどに、学校のトイレは生徒たちの様子を表しているようなのです。

なぜトイレなのか??

トイレでは先生や周りの目を逃れて非行やイジメが起こりやすいという環境があるようです。
それに加えて、トイレという場所に抱く心理的な要素も大いに含まれているのではないか、と私は思っています。

本来、トイレは排泄をしたり身なりを整えたりする場所です。とてもプライベートな空間であり、人が社会生活を営むために必要なものですね。
プライベートな場所では人の素性が表れやすいものです。すると、まるで自分を扱っているのと同じようにトイレを使うことが起こるようです。

特に、トイレというのは自分の排泄物を目の当たりにする場所ですので、嫌悪感を伴います。排泄物をキレイなものだと思うのも無理がありますから、この嫌悪感は誰にでもあるものです。しかし、排泄物に嫌悪感を抱くのと、排泄物をキレイに処理できるかどうかは別の話ですね。子どものしつけでもトイレの使い方を教えますが、キレイにトイレを使うことができると褒められ、汚してしまうと叱られます。そうしているうちに排泄は便や尿をキレイに処理する場所であることを学ぶわけなのです。
また、トイレで鏡を見て身なりを整えるときに自分の姿を見て「かわいいな」「かっこいいな」と思える人もいれば、「いまいちだな」「冴えないな」と思う人もいるでしょう。鏡を見るという行為は自分自身への嫌悪感を抱きやすいものでもあります。
このように、自分自身への嫌悪感をどの程度もっているのか、また、それをどう扱っているか、ということがトイレの使い方にも表れることがあると考えられます。

ですから、トイレを粗末に扱っている人は、もしかしたら自分への嫌悪感が強く自分のことも粗末に扱っているのかもしれませんね。
逆に、トイレをいつも快適な空間に保とうとする人は、自分自身に抱く嫌悪感があったとしても自分のことを優しく丁寧に扱ってあげようとしているのかもしれません。

もし、トイレの神様がこの世にいるとしたら・・・

それはあなたのこころの中にいるのかもしれませんね。

あなたのトイレの使い方はどうでしょうか?
あなたの自分自身への扱い方はどうでしょうか?

さて、うちのトイレも掃除しなきゃなぁ・・・笑

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2016年11月 1日

退屈の行方

「なんかいいことないかなー」

10代後半?20代、よく呟いていたフレーズです。
そういえば、最近は言わなくなりました。

でも、小学生のこどもたちは、退屈すると、
「なんかいいことないかなー」
っていつも言っています。

退屈して、この台詞を呟いているときは、私たちは、何かいいことを体験したいし、そのためのエネルギーがあります!ということですよね。こどもたちなら、エネルギーが余るほど、いつも元気いっぱいですから、何か面白そうなものを探すのもうまいですし、もしそういうものがみつからないとなると、ジタバタしちゃうくらい退屈を感じるんですね。このジタバタで、エネルギー使えていたりもするのですが(笑)

ここで、退屈を感じることについて、時代によってずいぶん変わったなと思うことがあります。

アナログな時代、例えば、携帯電話がない時代とか、スマホも、インターネットもないとか、ゲームもあんまりないとか、もちろんY○utubeも、amaz○nもない、そんな時代にいたらどんな感じだと思いますか。

「えーつまらなさすぎ!何してたらいいのー」
って、きっと思いますよね。

私は、この時代に20代でしたので、先にも申し上げたように
「なんかいいことないかなー」
って、いつも呟いていたんですね。

ちょっと想像していただきたいのですが、家にいる時。
本や雑誌や漫画を読む、音楽を聴く、テレビを観る、くらいしかやることなかったんですね。この過ごし方だと、まあ1日やったら、もう飽きますよね。
そうするとどうしていたかというと、誰かと会うしかなかったわけです。

でも、この時代、電話はありますが、だいたいリビングの近くに置いてあったり、子機で話したとしても、誰かと電話してることは親にもわかるし、充電はなくなるし、電話代も昔は結構しましたから、小言を言われるしで、誰かと繋がろうとすると直接会うのが一番簡単で、楽しかったのです。

すると、友達といつも一緒もいいけど、やっぱ「彼氏(彼女)」だな!みたいになりやすく、もともと友達と会う機会が多ければ、友達の友達と会うことも、そのまた友達と会うことも多く、異性に出会って、恋愛に発展する機会も自然と多かったものでした。

時代もあって、結婚をしなくてはいけないような、義務感もありましたし、社会の目や価値観も、たしかにありましたが、独身の男女が出会う機会自体が、単純に多く、お年頃の男女が出会えば、恋愛にも発展しやすく、結婚という流れになるのも自然だったともいえるでしょう。

おつきあいしていても、「バイバーイ」と別れたら、メールをすることもできませんし、ダーリンの声を聞きながら、眠りにつくなんてことは、ほんとに難しいことだったんです。でもそのかわり、またすぐ会おうって話になりやすいですよね。しかも、こんなんだったら、さっさと結婚してずっと一緒にいたい!というふうにもなりやすかったのではないでしょうか。

では、現代に話を戻してみますね。
今は、パソコンやスマホがあれば、自分の部屋が世界と繋がっています。
日本だけにとどまらず、世界の情報が入ってくるし、こちらから発信することも可能です。しかも、ONもOFFも自由自在ですから、好きな時間に繋がることができ、嫌になったらOFFにしてしまうこともできます。

誰かに会いに行かなくても、誰かと繋がることができ、欲しいものが部屋で買えて、翌日に届いたりします。娯楽も無数にあります。あらゆる細分化されたジャンルが用意され、自分の細かなこだわりやニーズが満たされやすくなっていますよね。

これは、まったく素晴らしい時代になったものだと、浦島太郎のような気分になります。しかしながら、私たちがこんな便利な時代に生きている時でも、「退屈」だと感じることがあります。「退屈」どころか、生きていることの意味がわからないように感じる方もいらっしゃいます。

私の部屋には何もないから、外に飛び出すしかなかった時代から、すべて部屋の中で調達できるようになったのに、心が満たされないと感じる現代の違い。それは、何なのでしょう。

人と出会うこと。

これが、人である私たちには、どうも必要なようです。
自分だけでは、私たちは自分のことが、実はよくわからないのです。
何者であるのか、どんな人なのか、何ができるのか。

誰かに優しくしてもらった。
ひどい目にあった。
褒めてもらった。
誰かが泣いていた。
なぐさめてもらった。
叱られた。
好きって言われた。
きらいって言われた。
笑顔を見た。

人と出会って、経験することが自分を知ることであり、成熟することでもあり、人生を豊かにすることでもあります。人と出会わないことで、それをしそびれているとしたら、人生にとってはちょっと大きな損害だと思いませんか。

「なんかいいことないかなー」

心のどこかで、こんな呟きが聞こえている時、部屋のドアを開けて、誰かに出会う時かもしれませんね。

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