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2015年4月28日

お父さんの話。

私の父は、一級建築士の免許を持っていて、公務員でした。
こんな風に書くと、「ふ~ん、それは随分立派なお父さんだね。」って思う人もいるかもしれません。

でも、息子である私は、全くそうは思っていませんでした。
なぜなら、一級建築士の免許を持っていて、公務員の父は、母に頭が上がらなかったからです。

子供ながらに、母に蹴飛ばされたり(物理的に。実際に。)、アゴで使われても文句も言えない父を見て、私は、「お父さん、弱いな。」って思っていました。

それに、隣に住んでいた、幼馴染のくみちゃんのお父さんはバスの運転手だったのですが 、私にとっは、一級建築士とか、公務員とかよりも、そっちの方が断然かっこよく思えたりしていました。

だから私は、父とは違う道に進もうと、公務員のような安定感のある職業よりは、一般企業への就職を選びました。

そんな父の認識が少しずつ変わってきたのは、私が社会人になってからでした。
既に建築士として建築事務所に勤めていた私の友人が、何年も勉強を頑張って一級建築士の免許を取得したり(合格の際はみんなでおいわいしました。)、私ががシステムエンジニアとして、ハウスメーカーに出向した際には、一級建築士の人が、その会社で先生として扱われているのを目の当たりにしたりしました。

そんな経験をして、なんだか、世間一般の一級建築士は、自分が小さい頃から見てきた父のイメージとは随分違うなと思いました。

それに、公務員というのも、自分が35歳を過ぎて、婚活パーティーなんてものを見だした時、ちょっとランクの高そうなパーティーの条件などを見ていると、男性の参加資格が、「医者」「弁護士」「年収500万円以上」などの条件に混じって、「公務員」というのも、よく見かける条件の一つだったりしました。

そして、その時に目指していたのは、結婚の好条件には入っていない心理カウンセラーでした。

そんなこんなで、私は、父とは違う道を常に選びながら、いつの間にか父は凄いなということを認めざるを得ないと思うようになってきました。
もちろん、これは単なる私の主観的な考えですが、だんだんと、そう思えるようになってきたのです。

そして、同時にだんだんと考えるようになっていきました。

「じゃあ、なんでそんなに凄い人が、母の前で弱かったんだろう?」

考えられる理由は、ひとつしかありません。
きっと、母を愛していたからだと思います。
そして、幸せだったからだと思います。

私自身、幸せな時や、今に満足している時は、人から何を言われてもさほど気にならないし、弱くもなれる。

今まで、社会的に賞賛されていたり、見た感じが強そうな人にばかり憧れていた私にとって、今更ながら、強幸は何か?幸せとは何かを考えさせられるようになってきました。

そして、そんな私は、父を弱いと感じ、父と違う道を選んできたのですから、もちろん一級建築士でもなければ、公務員でもありません。

なのに、性格などは、どう考えても父とそっくりだなと感じてしまいます。
私は、父と違う道を選んだどころか、実は、追いかけていたんだということがよくわかりました。

本当に運命は皮肉なものだなと感じます。

そんな私は、今、観念して父の偉大さを認め、そんな父にそっくりな自分を受け入れていきたいなと考えています。

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2015年4月21日

団結と再生の回想録 ~20年ぶりの懇親会から感じたこと~

こんにちは、建部かずのぶです。

少し遡りますが、1月のある土曜日。
呼びかけがあったので、JRの住吉駅へ向かいました。

改札を降りて、正面の壁際に向かうと、
知っている顔が10人ほど、
知っているような顔が5人ほど、
知っているかもしれない顔が3人ほど、
見たことがないって顔も5人ほどいました。

男性が多いのですが、ベビーカーを押した主婦もいます。
あ、年齢はだいたい30代後半以上でした。

幹事の男性が、手書きで書いた紙を持っています。
『情報センター ご一行様』

集合時間を過ぎてから来た人もいて、
結局動き始めたのは、予定時間を20分ほど過ぎてから。

この少々まとまりのない一行は、まとまりなく歩き始めます。

神戸市の東灘区役所~住吉川の橋~東灘郵便局。

みんな歩きながら、キョロキョロと辺りを見ては、
「ここはどこ?」「こんな景色初めて見る!」と口々に言います。

でも一カ所、みんなが足を止めた場所がありました。
それは新しいマンションの上り坂で、おのおの写真を撮り始める人もいます。

このマンションの坂ですが、元々はこの場所が東灘区役所でした。

この場所は、今回集まったみんなの思い出の地で、
大規模に建て替え事業が行われ、キレイに生まれ変わった神戸の街中で、唯一残った面影だったのです。

このコラムを読まれている方は、何の話かちんぷんかんぷんですよね。

この不思議な集まりは、今から20年前の阪神淡路大震災の時に、
この地に駆けつけたボランティアたちだったのです。

震災のときにボランティア活動をした街に再び集まって、
すっかり生まれ変わった街並みをみんなでお散歩したのち、
みんなでご飯を食べましょう、というイベントでした。

メモリアルというには複雑な日でもあるわけですが、
「ちょうど週末でもあるし、みんなで集まろう!」

当時は大学生で神戸にいて、今は東京の都心に住むTくんの一声から、
この日の集まりが決まりました。

私たちは、『よろずボランティア 情報センター』という名で活動していて、
多い日だと1日数百人が活動し、解散するまで1年半近く、
区役所に集まったボランティアさんを受け入れる形になっていました。
とは言っても、特別な組織でもなければ、事務局もありませんでしたが。

区役所の支援が行き届かない事については、何でも取り組む姿勢で、
炊き出し、小さな避難所を訪問、子どもの遊び相手、医薬品等の配送、仮設住宅のサポート、
被災者の方へちょっとしたプレゼントをしたこともあります。

引越しの手伝いや、傾いた建物のジャッキアップをするチームもいましたし、
一部のメンバーは新聞を発行していました。

全国各地から駆けつけた学生を中心として、自然発生的に生まれた集団は、
被災者のため、全国から来てくれたみんなのために。
役所とも調整しながらチーム分けをし、みんなの得意分野を生かしてやりたい事をできるだけ尊重し、
毎晩報告会やミーティングをして、どんな意見でもしっかり耳を傾けていました。

やがて紆余曲折を経ながら、驚くほど自主的で、民主的な組織になっていったのです。

それだけに懐も深く、老若男女、引きこもり、家出少年(親御さんが迎えに来られましたが)、
暴走族、チーマー、有名大学の学生、高校生・・・とまぁけっこうなメンツです。

そんなみんなが再び集まる。

私自身は週末のボランティア参加で、人が減ってくる中で、深く関わるようになった後発組でしたが、
連絡係等のお手伝いをしながら、今でもこのチームを大切に思っていることに気がつきました。


そして、懇親会の当日。
お散歩、ご飯、居酒屋さん・・・。
私は翌朝から用事があったので、ここで失礼しましたが、
夜通し、さらに翌日も行動を共にした人たちもいたようです。

北は北海道、南は熊本。活動して以来の方も結構いらっしゃいます。

最初はどことなく他人行儀というか、かしこまっていて、みんな年を重ねたなぁという感じでしたが、
中には、昔のまんまの人もいて、その空気感にみんなも巻き込まれて、
ご飯を食べる頃には、時空を越えて懐かしさでいっぱいでした。

あの緊急時に、不安を感じながらも、家族の心配をよそに、ふと突き動かされてしまった。

「まだ交通機関も整わないのに、現地の状況もよく分からないのに、つい来ちゃったんだよね」って声・声・声。

最初1週間くらいだったのが、1ヶ月になったとか、つい何度も足を運んでしまったとか、
『バイクがあるから、何かできるはず!』
ただそれだけの思いで行った私も含め、それぞれの武勇伝がありました。

言いだしっぺのTくんのおかげで開催できた、ゆるゆるの懇親会。
お開きではみんなから、感謝の拍手が鳴り響きました。

残念ながら、この日に都合のつかない方もいましたし、遠方の人もいっぱいいます。

でも、「またやろうね」、「夏には東京でもやろうね」
そんな言葉を残して、それぞれ今の生活に戻っていきました。

気付けば3ヶ月ほど経ちましたが、
この日の温かくて、ざっくばらんな空気の余韻は、今でもしっかりと残っています。


阪神淡路大震災から20年が経ちました。

20年と書くと、あまりの時間の速さに少々戸惑いますが、
それでも神戸の被災地と向き合っていた思い出は強く残っていて、語り出すと止まらなくなるくらいの想いもあります。

それまでは何気なく生きていた私でしたが、
「社会のため、人のために、今できることを頑張ろう!」
震災をキッカケに、自分の中から情熱が湧き上がってきたのです。

誰にでも、眠っている情熱があるものです。
それを呼び起こすスイッチは、全く想定外の出来事からやってくることもありますが、
想いに導かれて動くと、振り返ったときには全く新しい世界が広がっていきます。

このコラムをお読みの皆さまは、どんな時に熱い想いを感じていましたか?
ちょっと振り返ってみると、今の自分に新しい風が吹くかもしれませんよ。

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2015年4月14日

伝え方にひと工夫

私は「洗濯物をたたむ」というのが苦手な主婦でした。
「でした。」と過去形なのは、今はその苦手を克服し洗濯物をたたむことが好きになったからなのですが、今回は苦手だったころのお話です。

洗濯物をたたむのが大嫌いだった私は、お昼過ぎに洗濯物を取り入れてから、取り入れたままの洗濯物がてんこ盛りになったままのことがよくありました。
もちろんそのまま放置すれば、せっかくの洗濯物はシワだらけになってしまいますので夜になれば嫌々ながらもたたむのですが、夕方の時点ではまだ洗濯物は
てんこ盛りのままです。

これは息子が幼稚園児の頃の話なので、当時18時頃にお風呂に入っていた息子に、私はよくこう伝えていました。

「お風呂から出たら、パンツは洗濯物の中から取ってね。」と。

けれどたくさんの洗濯物の中から探すのが面倒な息子は、当然ながら嫌がります。
「なんでタンスからとっちゃいけないのぉ。」と。

そう言われると、タンスから取るのがいけない訳ではないので何も言えなくなってしまい「洗濯物の中からパンツを取ってもらい、たたまなければいけない洗濯物をひとつでも少なくしたい。」という私の策略は、もろくも崩れ去る・・・というそんな日々でした。

ところが、何としてでもパンツにこだわり、なんとかパンツを洗濯物の中から取って欲しい私は、言い方を工夫してみたのです。
「洗濯物の中からパンツという宝物を探し出そう! どっちが早く宝物を見つけ出せるか競争ね。」と言ってお互いに自分のパンツを探すことにしたのです。

するとどうでしょう?

あんなに嫌がっていた息子が、洗濯物の中から喜んでパンツを探しているではありませんか!こうして「パンツを洗濯物の中から取って欲しい。」という私の願いは、ちょっと
した伝え方の工夫で、見事に叶えられたのでした☆

「洗濯物の中からパンツを取る」という一つの行動。
伝え方は違えど、やっていることは同じです。

ですが「洗濯物の中から取ってね。」と言うと嫌がり、「宝物を探そう!」と言うと喜んでやる。
親としても、嫌々やられるのと喜んでやってもらうのでは、気持ちが全然違います。
パンツ一枚にここまでこだわなくても・・・と思われた方。
そんな策略を練っている間にたためばいいのに・・・と思われた方。

その通りだと思います。
そこは素直に認めます。

でも、こんな小さなことでも伝えたいことが伝わり自分の望みが叶うと、ストレスは軽減され子育てにもゆとりが生まれます。

この他にも、夕食の準備などで食器を並べるお手伝いをお願いする時、「食器を並べてね。」というと「え~っ!」と嫌がる息子でしたが、「タイマーを1分にセットしたから、1分以内にお箸とコップ全部並べられるかチャレンジね。」と伝えると喜んでお手伝いをしてくれました。

今回は、子どもとのやりとりを例にお話ししてみましたが、伝え方は、パートナー、友人、上司、同僚、お客様・・・とどんな人が相手でも、そしていつでも工夫することができます。
伝え方にひと工夫するだけで伝わるということはたくさんありますので、もしよかったらみなさんもお試しくださいね。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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2015年4月 7日

恩師に叱られた話

私は今、関東に住んでいますが、18歳までは関西の田舎で育ちました。
古くからの習慣や仕来たりが色濃く残る町。

物心がついた頃から思っていたことは、『早くこの狭い田舎を飛び出して自由になりたい』ということ。
両親に厳しく育てられたこともあり、小さい頃から鳥かごに入れられているような感覚がありました。
それでも小学生の頃なんかは、とても真面目に過ごしていました。

唯一、『絵』を描くことが大好きでした。
絵の中ではいつも自由に自分を表現できたし、誰にも怒られない。
のびのびと絵を描いている内に上達していき、高校は美術科のあるところへ進学しました。

その高校は、国立の美大に今年は何名輩出した、と言っている結構な進学校でした。
両親も私がその学校に入れたことを喜んでいましたし、私も合格した時は嬉しかったのですが、入学してみると周りのレベルの高さに愕然…。
しかも夏休み・冬休み返上でデッサンの授業があったり、強制的に塾に通わされたり(笑)

だんだん大好きだった絵が描けなくなってきて、ある日一本の糸が切れたようにサボるようになりました。
夜中に家を抜け出して遊ぶようになり、絵の世界からどんどん遠ざかっていったのです。
先生や両親から何度も激怒されましたが、それでももう絵を描きたいと思わなくなっていました。
逆に怒られれば怒られるほど、夜遊びや家出を繰り返すようになりました。
『誰にもわかってもらえない』
そんな孤独感が蔓延していたように思います。

そんな中、今も恩師だと思っている、当時40代くらいだった男性のある先生とは2人でよく話しをしました。
課題をサボっても怒らず、自主性を大事にしてくれていた先生。
群れることなく、いつも飄々としていて変わった先生。
心理学にとっても詳しくて、私はその先生の話にのめり込んでいきました。
そのときに投影とか意識・無意識とか、心理学を教えてもらったのですが、『人の心って何て面白いんだ!』と感じました。
私が何故夜遊びをするのか、絵から遠ざかってしまうのか、先生が分析し教えてくれたりして、自分の心のことについて考えることが増えました。

そんな優しくて面白いちょっと変わった先生だったのですが、1度だけ本気で怒られたことがあります。
それは髪を染めることでもなく、スカートを短くすることでもなく、夜遊びをすることでもなく、

『カッターマットを机に敷かなかったこと。』

ある日の授業で、カッターを使って物を作る作業をしていたのですが、私は机にカッターマットを敷かずに作業をしていたのです。
それを見つけた先生が、いきなりみんなの前で、

「マットを使用していない人がいるけれど、これから多くの人が使う机を傷つけることはやめなさい!それは、自分のことを大事にしていないから物を傷つけるんだ。」
と言ったのです。

そう言われたとき反射的に言い返そうかと思いましたが、何故か胸の中が熱くなったことを覚えています。
何だか初めて『愛情をもって私のことを叱ってくれたのかもしれない』と思えました。

先生が伝えたかったこと。
『もっと自分のことを大事に扱ってほしい』
そんなメッセージのように聴こえました。

投影の法則は、自分の心の状態や思考パターンを無意識のうちに他人や物に映し出すという考え方です。
無意識的に机を傷つける行為をする=自分を傷つける行為をしている、ということ。
先生はそれが言いたかったんだな、と理解ができました。
それから、自分は一体これからどうしたいのかを考えるようになり、服飾のデザインの道に進んだのです。

あれから随分時が立ち、私は今、カウンセラーをしています。

あの恩師が心理学のことを私に教えてくれなければ、今の私はなかった。
愛情から叱るということはどういうものか、私に教えてくれた恩師。
今でもとても尊敬しています。

今度地元に帰ったら会いに行こうかな。

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投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (2)